42話【沈黙の支配者ミスターX:母の遺言と隠し金庫の真実】
「――僕は、一体何者なんだ?」
胸の奥底から、誰にも触れられたくない、最も暗い古傷が激しく疼いた。蓮の視界に、母の顔が鮮烈な光を伴ってふいに浮かび上がる。
あの温かな手。あの夜の匂い。そして、全ての光を失った、あの絶望的な瞬間。
そして――
「蓮、箱を……隠しなさい」
最後に母が命の炎を絞り出した言葉が、耳元で生々しく、熱を持って蘇る。忘れようとしても、必ず夢の中で容赦なく呼び戻される“あの声”。そこに隠された“箱”こそが、この悲劇のすべての始まりなのかもしれない。
蓮は拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込み、皮膚を破る鋭い痛みで意識が極限まで研ぎ澄まされていく。
――母は、クロノス・コーポレーションの何を知っていた? ――なぜ、黒崎はあの日“黒服の連中”を差し向けた?
記憶の迷宮の深部で、何か巨大な“真実”が地鳴りのようにうごめいている。掴んだ瞬間、人生の全てが覆され、命を奪われるほどの重さを持った真実が。だが蓮は逃げない。あの日、全てを失って立ち尽くした時と違って、もうひとりじゃないからだ。
――黒崎剛一郎。 あの男の感情は、単純な利己心だけではない。彩花への歪んだ保護、本能的な執着。あれは“父性”に似た、だが形を崩し、狂気に染まった感情だ。
「奴らを使ってまで…本当にお前自身の意志でこんなことをしているのか、黒崎」
蓮の胸にざらりとした冷たい泥のような嫌な感覚が広がる。黒崎の背後で“何か”が蠢いているような、拭いきれない直感。自分の人生を裏で掴み、ねじ曲げてきた“黒い手”の存在。
その“影”の姿が、蓮の脳裏に鮮明に、恐怖とともに焼きついた。黒崎がどんなに激昂しようとも、そいつだけは眉ひとつ動かさず、耳元で何か囁いていた。感情を削ぎ落とした、冷たい黒曜石のような目。誰にも名を呼ばれたことのない、沈黙そのものの存在。
蓮は思い出す。黒崎の狂気が増すたび、そいつの口元だけが、ほんのわずかに、愉悦を滲ませて歪んでいた。
「まさか……黒崎は、あいつにすら操られているのか……?」
そう思った瞬間、背筋が絶対零度まで凍りついた。もし黒崎すら巨大な計画の中の駒に過ぎないなら――真の敵は、彼らが想像もしていなかった、もっと深遠な闇に潜んでいる。
「風見さん、黒崎の後ろにいる男を知ってるか?」
蓮の切迫した問いに、風見の表情が一瞬で石のように強ばる。彼は短く息を吐き、聞き取れないほどの低い声で囁いた。
「ああ……知っている。あいつは『ミスターX』。クロノスの闇、そのものだ。奴の素顔、出自、年齢――何一つ分からない。だがあの男と目を合わせた者は、自分の魂が吸い取られたような空虚感に襲われる。世界の裏で起きた戦争やテロ、裏金、巨大な陰謀、ほぼすべてに奴の影がある」
蓮の心臓が、ドクンと、不規則に、大きく跳ねた。 世界の裏で、歴史を操り、常に暗躍してきた沈黙の男。黒崎すら手足のように操る、絶対的な闇の手。
蓮の視界に、母が死の間際に見せた、あの魂を凍らせるほどの恐怖の表情が鮮明に蘇る。あの表情は、“黒崎”に向けられたものではなかったのではないか? “ミスターX”を見た時の、真の絶望だったのではないか?
喉の奥が痛み、まるで砂漠のように乾く。
「蓮、気をつけろ。奴は……お前の存在そのものに、異常なほど、獲物のように執着している」
風見の言葉が落ちた瞬間、蓮の背後に“氷のように冷たい視線”がナイフのように深く刺さった気がした。まだ遠いどこかで――“ヤツ”が、蓮の運命を弄んで笑っている。
「そんな奴を……絶対に許せない」
蓮の拳は、怒りだけで皮膚が破れそうに震えていた。だが、胸の奥には憎悪だけではない、もっと複雑な痛みもあった。母を奪われた憎しみ。黒崎の陰謀への恐怖。そして――かつて父と呼んだ男への、断ち切りがたい、弱々しい情。
憎悪と、濾過された愛の残滓が衝突し、胸の内で激しく火花を散らす。その時、鮮烈に、しかし幻のように幼い日の記憶が蘇った。熱を出して眠れない夜、黒崎が静かに毛布をかけてくれたこと。遠くからでも必ず蓮を見つけてくれたこと。不器用だが、確かに温かかった“父親の影”。
蓮は首を激しく振った。
「違う、あれは全て嘘だ! 感情を植え付けられた、作られた幻想だ!」
そう思い込もうとするほど、胸が千切れるほど痛む。それらの優しさが、今の寒風の中で蓮の憎悪に深く、鋭く爪を立てる。
「父さん……あなたは本当に、最初から最後まで私の敵だったのか……? だとしたら、あの優しさは、何だったんだ……」
呟きは森の闇に溶け、残酷な沈黙だけが返る。
その時、彩花が蓮の腕を力強く掴んだ。その瞳は恐怖よりも、鋼のような決意で強く光っていた。
「蓮。私たちで……全てを終わらせよう。もう、誰も、あなたの大切なものを奪わせない」
風見が過去の悔恨を捨て去るようにゆっくり頷く。
「ああ。ここから先は、私も逃げない。全ての裏切りに決着をつける。必ず黒崎と“その背後”を止める」
蓮は深く息を吸い、彩花の手を確かな感触をもって握り返した。その温もりだけが、闇に飲まれそうな心を現実に戻してくれる。
三人は屋敷裏の細く曲がりくねった小道へ飛び出した。濃い森の中を、身を切るような冷たい風が切り裂く。月光が木々の隙間から細い銀色の刃のように落ち、足元に焦燥の影を作っていった。
「ここだ」
風見が荒い息遣いの中、古びた離れの前で立ち止まる。木造の小屋は長い年月に蝕まれ、壁の隙間から死んだように冷たい空気が漏れ出していた。
「ここが奥野博士の研究室だった。博士はこのどこかに“プロメテウス”の核心的な研究データを隠していたはずだ」
「でも……こんな古い建物、どうやって……」
彩花が息を呑む。彩花の鼻腔を、微かに記憶の底にある「父のインクの匂い」が掠め、彼女の瞳が潤んだ。その瞬間、蓮の中に稲妻のような、決定的な記憶が閃いた。奥野博士の書斎で感じた、あの言葉にできない、微細な違和感。
「……暖炉だ!」
蓮は迷うことなく部屋の中央の暖炉へ駆け寄った。古びたレンガ、煤の匂い、そして――わずかに位置がずれた暖炉の上に掛けられた絵画。蓮は絵画の縁に手をかけ、躊躇なく押し開ける。
ギィ……と錆びついた鈍い音を立てて絵が動く。
「隠し扉……!」
闇の奥から、長い間封印されていた冷たい空気が吹き出した。蓮は迷わず扉を開く。そこには狭いが几帳面に整った小部屋が広がっていた。埃をかぶった机、壁一面の書棚。長い年月を沈黙で過ごした、研究者の“聖域”。
蓮は書棚の列をひとつひとつ確かめながら、記憶にある手順通りに本を数冊抜き取った。その動きの淀みなさに、風見が一瞬不審な目を向けるが、蓮は止まらない。
その瞬間――ガコンッ!
書棚全体が左右にわずかに揺れ、重々しくスライドを開始した。
「動いた……!」
風見も彩花も息を飲む。棚の奥から現れたのは、冷たい黒い鋼鉄の金庫。表面は冷ややかで、母の死の際の肌の冷たさを蓮に想起させた。
「これが……奥野博士が、命を懸けて守った“真実”」
蓮の喉がごくりと鳴った。金庫の奥に眠るものが、母の遺言にある「箱」の正体なのか。ダイヤルに手をかけた瞬間、背後からゆっくりと「拍手」の音が響いた。




