41話【血脈の罠:亡き母と独裁者の微笑】
プロメテウスたちは、窓から身を乗り出すように立ち尽くし、逃げる彩花たちを睨みつけた。その目には、まるで感情がないかのような無機質な冷たさが宿っていた。だが、追跡するそぶりは一切見せず、ただ不気味な静寂を保っているだけだった。
「奴ら、なぜ追ってこないんだ……?」
蓮が恐怖と疑念に苛まれながら呟いた。彼の声には、未だに消えぬエリカへの動揺と焦りが滲んでいた。
風見が、激しい息を吐き出しながら、険しい表情で言葉を絞り出す。
「奴らは、私たちを逃がしたんじゃない。私たちを、黒崎の仕掛けた『舞台』へ誘い込もうとしているんだ」
風見の言葉が胸に重い鉛のように響いた。彼の瞳は、遠くの闇を見つめ、何かに取り憑かれたような、深い憂いを浮かべている。彼らもまた、クロノスに操られ、無情に使われている──。その冷徹な瞳の奥に、かつての自分自身の魂の残骸が見えた気がした。
「舞台……罠?」
彩花が小さく呟く。その声には震えが混じり、心の奥底から湧き上がる止めようのない恐怖が滲んでいた。降り立った庭園は、脱出前とは異質な空気を纏っている。木々の枝が意志を持つかのように進路を狭め、逃げても逃げても同じ石像の前に戻されるような、生きた迷宮へと変貌していた。
風見が重々しく、腹の底から答える。
「ああ。黒崎は、私たちを追い詰めることで、彩花さんの真の能力を引き出そうとしている。そして、そのために…想像を絶する、もっと恐ろしい罠を仕掛けているに違いない」
風見の言葉に、彩花たちは真の戦慄を覚えた。黒崎の真の目的が、いまだ掴めないほど恐ろしく、そして巨大なものだということを感じ取る。これから彼らが直面するであろう試練の重さを、肌の震えで感じ取った。
「私たちは、これからどうなるの……?」
彩花が最後の希望を託すように震える声で呟いた。その声に、蓮と風見は、互いに固く、揺るぎない目を合わせる。
蓮は、彩花の手を痛いほどしっかりと握りしめ、魂の底から力強く言った。
「大丈夫だ、彩花。僕たちは絶望しない。絶対に諦めない。共に、この試練を乗り越えよう」
その言葉には、エリカの裏切りさえも乗り越える、揺るぎない決意と、仲間を守るために戦う強い覚悟が込められていた。
風見は、蓮と彩花の純粋な決意に心を打たれ、静かに頷いた。
「ああ、そうだ。私たちは、もう一人じゃない。二度と、大切なものを失いはしない。共に戦い、この闇を打ち破ろう」
その瞬間、不気味な、低く響く機械音が、遠くから、確実に迫ってきた。鋭い金属音が、夜の静けさを引き裂くように響く。
振り返ると、そこには無数のプロメテウスたちが、彼らを完全な円状に包囲するように現れていた。その姿は、まるで無慈悲に迫る死神の行列のように、ひとつひとつがゆっくりと、確実に近づいてきていた。
彼らの瞳は、獲物を狩る獣のように冷徹に、不気味に輝いていた。その手には鋭い刃物が握られ、光を反射して不吉に光っている。もはや、その目には何の感情も見えない。ただ、冷たい機械のような、無機質な存在だけがそこにあった。
絶体絶命の危機。全てを失うかもしれない──。
だが、彼らの心には、死を前にした恐怖よりも強いものがあった。決して折れない意志と、仲間を守るために立ち向かう勇気。それこそが、今の彼らを絶望の淵で支えている。
静寂を破ったのは、蓮の、腹の底からの強い一言だった。
「やるしかない! 覚悟を決めろ!」
その声に、風見と彩花も力強く頷き、立ち上がった。
闇に包まれた庭園で、三人は、光を見出すため、再び絶望的な戦場へと身を投じた。
絶望的なプロメテウスたちとの攻防の隙間を縫って逃げる蓮の視線が、不意に壁際の古びた、しかし荘厳な額縁に吸い寄せられた。
そこには、若き日の黒崎剛一郎と――蓮の“亡き母”が肩を寄せ合い、柔らかく、幸福そうに微笑んでいた。
脳裏が爆発したかのように真っ白になる。
ありえない。
だが、写真の中の母の笑顔は、蓮が幼い頃に膝枕で眠ったときの、あの温かな面影と、寸分違わぬ、確かなものだった。
胸の奥がひどく軋み、内側から引き裂かれるような痛みに襲われる。 母の死、クロノス・コーポレーション、そして黒崎剛一郎。その三つが、今まで蓮の心の中で“互いに無関係な、別々の箱”にしまわれていたはずなのに――冷たい血の流れのように、ゆっくりと、一つの線でつながり始めていた。
同時に、蓮の全身を流れる血が「汚物」に変わったかのような、激しい拒絶反応が彼を襲う。自分の身体の半分が、あの黒崎と同じ設計図でできているかもしれないという、おぞましい予感に喉が塞がった。
…断片的な記憶が、強制的にフラッシュバックする。
葬儀の日。泣き叫ぶ妹を抱きしめる幼い蓮の前に、無表情の、スーツ姿の男たちが現れた。鋭い眼だけが、獲物を品定めするように冷たかった。
抵抗しても腕を掴まれ、車に押し込まれる。母の温もりも、妹の泣き声も――振り返るほどに遠ざかっていく。何か大切なものを強引に奪われたまま、人生が勝手に決められていく感覚だけが胸に残った。その時、幼い自分の頭を撫でた男の手の、凍りつくような冷たさを思い出す。
蓮は写真から目が離せなくなり、硬い岩のように足が止まりかけた。
「あいつが……父、さん……なのか……?」
喉の奥から、疑問と拒絶に満ちたその言葉が、悲鳴のように漏れた。
黒崎の顔。あの白い部屋で、初めて彼が向けた、あの奇妙な”懐かしい”視線。慈しむようで、しかしどこか所有物を見るようなあの目――。
すべてが一つの恐ろしい答えへと向かってしまう、その運命的な恐怖が、蓮の背筋を這い上がった。
「蓮! 早く!!」
彩花の切迫した叫びが現実へと鋭く引き戻し、蓮は息を詰めて再び駆け出した。
だが胸の奥に生まれた疑念は、走りながらも血の毒のように全身を巡る。母の死をめぐる記憶は、本当に『病死』という形で操作されていたのではないか? 黒崎はなぜ、あの日わざわざ蓮を「引き取り」に来たのか?
黒崎剛一郎の巨大で暗い影が、蓮の心に冷たい水のように深く、深く滲み始めていた。それは、自身が敵の血を引いているかもしれないという、最も忌まわしい可能性だった。
一方その頃、黒崎は巨大な窓辺に君臨するように立ち、彩花が高所から決死の覚悟で飛び降りて逃げる姿を追っていた。
しかしその瞳に宿っていたのは――計画を乱されたことへの怒りでも、獲物を逃した焦りでもない。
わずかな安堵。
そして、触れれば壊れてしまう、美しく脆い芸術品を見る時のような、奇妙で歪んだ優しさ。獲物ではなく、守るべき、しかし支配すべき『娘』に向ける眼差し。黒崎自身も、その異様な、ねじれた父性と矛盾した感情を制御できずにいるようだった。
「セバスチャン。追うな」
静かに放たれた声は、氷のように冷徹で、それでいてどこか魂を削るような切実さを帯びていた。セバスチャンは理解不能という表情を浮かべながらも、「かしこまりました」と命令を遂行する。
プロメテウスたちの動きが、まるで一斉に“冷たい息を止めた”ようにぴたりと止まった。
「なぜ追わせないのです? 会長の計画は、奥野彩花を捕えることではないのですか?」
エリカが歩み寄り、氷の刃のような声で静かに問いかけた。彼女は黒崎の愛人であり、蓮の幼馴染みでもある――二重の立場ゆえに、常に黒崎の心の奥、計画の核心を探っていた。
「あの娘はまだ、精神的に予定に組み込む段階ではない。それに…」
黒崎は言いかけて、わずかに視線を落とす。「まだ、生きていてほしいのだ」
エリカの表情が一瞬だけ、激しく揺れた。黒崎が自己の計画外の“本音”を漏らすことなど、ほとんどない。ましてそれが彩花への感情だとしたら、その執着は常軌を逸している。
「…あなたは、あの娘に真に何を期待しているのですか?」
エリカは声を潜め、決死の覚悟でさらに踏み込む。剛一郎さん… 彩花さんへの執着、蓮への異様な冷たさ、そして私──。あなたは、この巨大な舞台で、いったい何を企んでいるの?
問いかける彼女の瞳の奥には、黒崎に従順を装いながらも、蓮たちへの秘めた忠誠心が鋭く燃えていた。
黒崎はゆっくりと振り返り、底が見えない微笑みを浮かべた。
「すぐ分かる。時が来れば、お前もあの娘の『神の領域に触れる真価』を見るだろう」
その一言に、エリカの背筋が絶対零度まで冷たく震えた。黒崎の計画は、想像以上に深く、そしてこの世界そのものを書き換えるほど危険だ。けれど、今日得たこの決定的な情報は必ず伝えなければならないと、彼女は強く拳を握りしめた。
黒崎は再び外へ視線を向け、低く、虚ろに呟く。
「蓮…お前は一体、誰の子なんだ? そして――お前の母親は、何を知っていた?」
虚空へ投げるようなその言葉には、苛立ちと、恐れと、そして制御できない焦りが入り混じっていた。
多くの謎がまだ霧の中にあり、その霧の中心には、蓮の“失われた記憶”と、黒崎の過去が、重く眠っている。庭園の出口へと辿り着こうとした三人の前に、逃げ場のない「最悪の再会」が待ち受けていることも知らずに。




