39話【氷の裏切り:崩れ去った信頼と愛の墓標】
彩花は背中に氷柱を流し込まれたような感覚を覚え、蓮と風見も自然と警戒を強め、身体を前に出す。
「……作品?」
黒崎は、悦に浸るように笑った。
「そうだ。君の細胞一つひとつがね、我々の未来、すなわち『新世界』を描くための“絵の具”なんだよ。君の父上──奥野博士が、生涯をかけて丹精込めて“調合”した、至高の芸術作品だ」
まるで至高の芸術品について語るような陶酔した口調だった。その歪んだ賞賛を聞くほどに、屋敷の壁が内側に迫ってくるような、逃げ場のない圧迫感が彩花を襲う。
彩花の胸に、強い拒絶と同時に、狂気の深度を理解不能な恐怖が走る。 ──黒崎は、父の壮大な研究を、自らの支配欲を満たすための“芸術作品”として崇拝している。
「君の能力は、世界の理すら書き換えられる。時間、記憶、因果……人が触れてはならない『神の領域』だ。だからこそ、私は、君の全てが欲しい」
暖炉の火が突然、ボウッと不自然に黒い炎を上げて揺らいだ。その炎の影が、黒崎の背後で巨大な蜘蛛の足のように蠢く。
「協力すれば、君の欲望は全て叶えてあげるよ。失ったものも……例えば、亡くなった父親や、遠い過去の平穏さえも……取り戻せる」
その言葉は、人間の弱さや本能を直接くすぐる、最も甘い毒のようだった。 蓮と風見の顔が一瞬、憎悪に強ばる。
彩花は、魂の底からの震えを押し込みながら、静かに、しかし鋼のような意志を込めて言った。
「父の願いを、あなたみたいな“自我を持った化け物”に汚させない。あなたは、未来の調合師なんかじゃない。ただの、破壊者だ」
黒崎の笑みが、ピキリと音を立ててガラスのように崩れた。
次の瞬間、彼の表情は感情を全て剥ぎ取られた無機質な仮面のようになり──その瞳から“生きた光”が完全に消えた。
「……ならば、力ずくで頂こう」
カチリ、と指が鳴る。
その音は、部屋の緊迫した空気を切り裂く、戦闘開始の合図であり、同時に屋敷全体に眠っていたシステムを起動させる、冷酷なスイッチのようだった。
廊下の奥から、ゴ……ッ、ゴ……ッ、という低く、深い“脈動”が響いてきた。
まるで巨大な肉の塊の奥で心臓が歪に、人工的に鼓動しているような──しかし、そのリズムは“人間の生理的な鼓動”とは決定的に違う。不協和音のようなその鼓動が響くたび、足元の床が生き物のように微かに震えた。
黒崎が歓喜に満ちた、悪魔のような微笑を浮かべた。
「彼らは、君たちを心から歓迎しているよ」
重い扉が、ゆっくりと、ゆっくりと、まるで“巨大な見えない腕が外側から押し広げている”かのように開いた。
闇の中から、セバスチャンが完全な無表情で歩み出る。 その体の動きは異様に滑らかで、関節の軋みや「生の感触」が全くなかった。肌の質感は蝋細工を通り越し、光を全く反射しない異質な物質にすら見えた。
続いて──影が床を這う毒蛇のように、何十もの足が床を擦る音。
暗闇の裂け目から現れたのは、人間の形をしている“はず”なのに、どこか致命的にネジが狂ったシルエットの男たち。
瞳孔は収縮し切って、光を一切反射しない。 口はかすかに開いたまま硬直している。 肌は死人のような灰色。 動きだけは無音で、信じられないほど滑らかすぎる。その肉体からは、数千人の悲鳴を圧縮したような、耳障りな電子ノイズが絶え間なく漏れ出していた。
その生理的な不気味さに、風見が思わず息を呑んだ。
「……これが……クロノスの最終兵器『プロメテウス』……」
セバスチャンは答えず、ただ死んだカメラのような眼で彩花たちを獲物として見据える。
黒崎が楽しげに、残酷に言う。
「彼らは、人間であることを“やめた”んだよ。感情、苦痛、恐怖……全部、不要な要素だ。戦うために必要なのは“命令”と“最高の効率”だけだ」
その瞬間、彩花の視界がふっと揺れた。
暖炉の炎が、まるでスローモーションで弾ける。 プロメテウスたちの動きが、薄い二重の残像をまとい始める。それと同時に、彩花の視界に「殺意の軌跡」のような光の線が走り抜けた。
(……なに、これ……世界が、遅い……?)
時間が伸び、空間がひずみ、全ての音が遠く、水の中にいるように遠ざかっていく。 まるで世界が「彩花だけに、その秘密の正体を晒した」かのようだった。
蓮の声が遠くから、ひずんだ音として帰ってくる。
「彩花! 来るぞ──!」
目の前のプロメテウス兵が、異様な、圧縮された速度で飛びかかってきた。
闇が牙をむく。
黒崎が勝利を確信した狂気の笑みを浮かべる。
「さぁ……“本物”のショーを始めよう。君たちの絶望が、私の芸術の最高の仕上げだ!」
プロメテウスたちの影が扉口を埋め尽くした瞬間、部屋の空気が絶対零度まで凍りついた。
彩花は思わず息を詰まらせる。 その存在は、戦いが始まる前から「勝敗など最初から決している」と告げているようだった。
背筋を一本の氷柱がなぞる。
蓮と風見の瞳にも一瞬の恐怖が宿る。 しかし、その奥には──逃げる道など最初から存在しない男たちの、静かで猛烈な決意があった。
彩花は唇を噛んだ。 胸の奥で、父の面影が小さな、しかし消えない灯りのように揺れている。
(守らなきゃ……負けられない……!)
その時だった。
「待って」
か細く、しかし部屋の全ての音を打ち消す、張り詰めた声が、奥の闇を裂いた。
蓮は反射的に、強い衝撃を受けて振り返り──そして、その場に石のように固まった。
そこに立つエリカは、もはや蓮が知る、かつての彼女ではなかった。
黒いドレスに身を包み、白い肌は蝋細工のように光を失い、瞳には“人の感情”が完全に消えていた。まるで黒崎に造り変えられた人形のように。
ヒールの音をコツ、コツと冷たく響かせながら、勝利者の嘲笑を浮かべて蓮へと歩み寄る。
蓮の喉が張り裂けそうに震えた。
「エリカ……嘘だろ?」
彼女は蓮の頬に手を添えた。 しかし、指先は氷のように冷たく──“触れられているのに、生を全く感じない”。その瞳孔は不自然に静止し、まるで深淵から誰かに操られているかのような違和感が漂う。
「蓮。あなたたちを最初から騙していたのよ。これが、私の本当の顔」
蓮の心臓が、ついに音を立てて、砕け散った。
「私は剛一郎さんの愛人。あなたたちをこの要塞に誘き寄せるために、捕まったふりをしていただけ」
目の前が激しく滲んだ。 怒りでも涙でもない、魂の核を抉られるような、言葉にできない痛みだった。
エリカは薄闇の中で小さく肩を揺らし、冷酷に笑った。その笑い声は鈴を転がすようでありながら、どこか録音された音声を再生しているような無機質さを帯びている。
「信じた? 可愛いこと。私にとって信頼なんて、靴の裏についた泥、あるいは、捨て去るべきゴミみたいなものよ」
彩花は震えを超えた、悲痛な声で叫んだ。
「どうして……! 蓮を、私たちを、そこまで裏切れるの!」
エリカは振り返り、氷の刃のような瞳で彩花を射抜いた。
「どうして? ──力よ。権力よ。あなたみたいな甘い夢を見てる子には、一生理解できない、絶対的な支配の快感よ」
鈴をひっくり返したような、しかし感情が完全に欠落した笑い声が屋敷に響く。
エリカが蓮を拒絶するように手を払う仕草をした瞬間──
プロメテウスたちの胸部からザザザ……とノイズのような、機械的な軋みが漏れた。
彼らの眼孔は光を吸い込み、口は閉じているのに内部で何かが蠢く音がした。 息をしていない。 ただ“命令を遂行するためだけの、冷たい器”。
風見の顔が極度の警戒で蒼白になった。
蓮は俯き、拳を血が滲むほど震わせ、そしてゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、絶望の淵でしか灯らない、静かな、しかし苛烈な青い炎が揺らめき始めていた。
「……裏切られても。それが真実だろうと、偽りだろうと、僕たちはもう、止まらない」
その声は、震えているのに、鋼のように強かった。
「エリカ。君を助けたいと思ったのは、僕の、僕たちの本気の気持ちだった。だけど──今の君を、そして黒崎の計画を止めるためなら、迷わず戦う」
一瞬、エリカの目が痛切に揺れた。 ほんの、コンマ一秒、誰にも気づかれないほどの刹那の瞬き。
だがすぐに狂気の笑みが戻る。
「じゃあ、証明しなさい。あなたのその“愛”とやらが、私の“力”に勝てるのかを」
その合図に合わせ、プロメテウス部隊が一斉に、無音の殺意を放ちながら前へ躍り出る。その異常な速度が、部屋の空気を爆発寸前まで圧縮する。
部屋の空気が重くなる。
彩花、蓮、風見──三人は戦闘態勢に入りながら互いに視線を合わせ、わずかに頷いた。 希望はまだ、この胸に消えていない。
蓮が全てを懸けた咆哮を上げる。
「行くぞ……!! 迷うな!」
真っ暗な、地獄の舞台で、運命を懸けた、激しい戦いの幕が上がった。




