37話【血脈の共犯者:魂の半身が遺した遺志】
車は緩やかに速度を落とし、街灯が鋭く長い影を車内に投げかけた。 光と影が交互に揺れ、三人の顔に不安定な陰影を刻む。それはまるで、これから足を踏み入れる運命の混迷を予兆しているかのようだった。
「黒崎の屋敷は、要塞にも等しい、厳重な警備下にある。正面突破は……自殺行為に近い」
沈黙を破ったのは風見だった。 彼の声は作戦に集中することで、激痛を必死に耐え忍んでいるのがわかった。
「裏から回るしかないが、そこにも必ず警備がいる。クロノスの特殊部隊に匹敵する、動きも読めないほど訓練されたガードが常駐しているだろう。一瞬の油断も許されない。……地獄への入り口だ」
風見は膝の上に開いた屋敷の機密地図を広げた。 線が細かく描き込まれており、建物内部の構造だけでなく、カメラの死角、巡回ルート、地下施設への非常口の位置まで、血の滲むような執念で調査された記録が緻密に記されている。
「さすが、クロノスの元顧問弁護士(裏切り者)だな、風見さん……」
蓮が複雑な感情を込めて呟く。
「私はクロノスにいた。……敵の弱点も、その狡猾な思考回路も、誰より深く知っているつもりだ。裏切ったからには、もう後戻りはできない」
風見は自嘲気味に苦笑しながらも、その瞳には揺るぎない決意の光を宿していた。
「でも風見さん、あなたの状態では無理をしないでください。いくら強がっても、前の戦いの傷が……」
彩花が看病する立場から、心配そうに身を乗り出す。
「大丈夫だ。こんな傷、どうということはない。それよりも、時間を無駄にはできない。今この瞬間も、黒崎の計画は進んでいるんだ」
風見は強がってみせたが、シャツの下に巻かれた肩の包帯には、まだ乾ききっていない鮮やかな赤みが滲んでいた。車内の警告灯が放つ赤い光がその血の色と重なり、消えない不吉な予感を煽る。
外の景色が変わり、冷たい月光が車内を青白く照らす。 目的地は、もうすぐそこだ。
胸の高鳴りは緊張か、恐怖か、それとも──宿命へ向かう覚悟の証か。 三人の視線は、闇の先にそびえる「黒崎の巨大な影」、すなわちクロノスの牙城を捉えていた。
深い森の入口へ差し掛かったとき、風見の運転するSUVのヘッドライトは、まるで漆黒の闇を切り裂く、細く鋭い白い刃のように伸びていった。
黒崎邸へ続く私道は、ただの道ではない。 外界との繋がりを完全に断ち切り、生きて帰還することを許さない “最終的な境界線” のようだった。
両脇にそびえる木々は、枝が異形のように絡み合い、夜の風に低い唸りをあげて軋んでいた。 葉の擦れ合う音が、不気味な、森の監視者たちのささやきのように響く。 車が進むほど、空気は重く、澱んでいき、まるで森全体が侵入者を圧殺しようと拒んでいるかのようだった。
蓮はフロントガラス越しに漆黒の闇を見据え、静かに、決然と息を吸った。
「……来たな。いよいよ、この闇の中へ踏み込む時だ」
呟いた声は低く沈み、運命を受け入れた覚悟の色を帯びていた。 蓮は胸ポケットに手を入れ、エリカが最後に手渡した、小さな貝殻をそっと握る。
貝殻の内側には、蓮が幼い頃に刻んだ “忘却の淵に沈んだ、自分の記憶の欠片” が眠っている──そんな痛切な希望さえ感じていた。
(これが、俺の過去を繋ぐ鍵。そして、エリカを救い、黒崎の支配を断ち切る唯一の希望だ)
風見がちらりと蓮を見た。
「ああ。必ず助ける。そして……黒崎が進めている『プロメテウス計画』を、必ず、ここで止める」
その声は、過去の失敗を悔いる者ではなく、命を懸けて贖罪を誓った戦士のものだった。神から火を盗んだ代償に苦しむプロメテウスの名を冠した計画。その全貌を暴く時が来たのだ。
車は徐々に速度を落とし、巨大な、高さ三メートルはあろうかという鉄製の門が見えてきた。 森の影に溶け込みながらも、その存在感は圧倒的だった──まるで獲物を待ち受ける巨大な獣の顎が道を塞いでいるかのように。
門を照らすヘッドライトの光が揺れ、重厚な鉄格子の模様を車内の天井に映し出した。 その模様はまるで逃げ場のない檻の影のようで、彩花の胸にかすかな恐怖を芽生えさせる。
「……蓮。本当に、怖くないの?」
彩花の声は震えを抑えきれず小さかった。
「ああ、正直に言えば、怖いよ。震えが止まらないくらいにな」
蓮は微かに笑う。 だがその笑みは強がりではなく、全てを飲み込む闇の中での真実だった。
「怖いからこそ、守りたいものと、奪われたものがはっきり見えるんだ。だから、俺は進める。……彩花も、父さんの遺志を継ぐ覚悟だろう?」
その言葉は、彼女の胸の奥深くに静かに落ちていき、恐怖を強い意志に変換させた。
やがて門が重い音を立ててゆっくりと開き、車は異様な静寂を保ったまま、深い闇の中へ滑り込んだ。 森の空気とは違う、冷たく乾いた、管理された人工的な空気が流れ込んでくる。
黒崎邸──それはもう “屋敷” ではなく、クロノスの核心を守る“牙城” と呼ぶほうがふさわしかった。
風見はアクセルを踏みながら、静かに語り始める。
「……侵入の前に、もう一つ、あなたに話しておくべきことがある」
その声には、長年の決意と、今明かす後悔、両方が滲んでいた。
「私は元傭兵だ。奥野博士とは、私が戦地で重傷を負った際、命を救われて以来の『命の恩人』としての付き合いだ。博士が不審な死を遂げた際、私は確信した。黒崎の手が回ったのだと。それで、彩花さんの護衛を引き受けたんだ。博士の遺志と、彼から受けた恩義を守るために」
彩花は父の知られざる交友関係を噛みしめるように黙って聞いていた。 胸の奥の痛みは消えないが、今はその痛みすらも、風見という強力な仲間と共に、前へ進む力に変わりつつあった。
風見の言葉を引き取るように、蓮が観念したような、しかし強い責任感に満ちた声で口を開いた。
「……隠していた本当のことを話すよ、彩花。君に危険が及ぶことからも、もう逃げない」
その声は、決して逃げ道を残さない、共犯者としての覚悟に満ちていた。
「僕は、自分の母の死の真相、そして自分が何者なのかという過去の真実を追っている。クロノス・コーポレーションと黒崎が、その全てに関わっている。……そして──君もその鍵を握っているんだ」
「わたしが……?」
「そうだ。君の父、奥野博士が命と引き換えに隠していた研究データ。それを狙うクロノスの動きと、僕の過去……全てが、今ここで一つに繋がっている。もはや、君が安全な場所へ逃げることはできない。だからこそ、君の力が必要なんだ」
彩花は恐怖と、自らが物語の鍵であるという重さに息を呑んだ。 恐怖が胸を締め付けたが、それ以上に父の遺志と蓮の孤独な戦いに心を打たれるものがあった。
(お父さん……あなたの望んだ、世界を変えるための真実が、今、私の手の中で動き出している。もう、逃げたりしない)
彩花は震える手を、蓮の手にしっかりと重ね、はっきりと頷いた。
「……蓮、私も行く。父の遺志を継ぎ、その計画を完成させるために。もう逃げない。あなたと、一緒に。最後まで」
蓮の表情に、戦いの前のわずかな安堵が浮かんだ。 その手に触れたぬくもりは、血の繋がりを超えた、揺るぎない決意の橋を二人の間に架けていく。
門は完全に閉じ、夜風の音さえも途絶えた。 ここは黒崎の完全なる支配領域だ──そう告げるように。
車はゆっくりと進み、重い静寂の奥へと消えていった。
風見は、胸の奥に積もった長年の重荷を吐き出すように、長く深い息を吸い込み――そして語り始めた。その声音は、贖罪の念でかすかに震えていた。
「……実は、蓮の母親、桐谷エミさん。そして彩花さんの父親である奥野博士は──単なる同僚ではない。彼らは、命を賭けて共同で“新エネルギー技術”を開発していた、最高のパートナー……いや、『魂の半身』とも呼べる存在だったんだ」
蓮と彩花の表情が、同時に信じられないという衝撃で強張った。
風見は続ける。
「二人は、本気で世界を変えようとしていた。貧困も、戦争も、資源争奪も……すべてを終わらせる『ユートピア』を築く可能性を持った、壮大な技術だったんだ。だが、その光が強すぎたゆえに、クロノスという巨大な闇に目を付けられた」
その言葉は、夜の静寂に落ちて、石を投げ入れたように深く沈んでいく。
蓮は息を呑み、彩花は小さく、しかし激しく震えた。 自分たちの両親が、かつて同じ未来を夢見て、同じ敵と戦っていたという事実に、二人の心は劇的に揺さぶられた。
彼らの戦いは、両親たちの遺志を継ぐ、宿命の戦いへと完全に変貌した瞬間だった。




