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36話【親愛なる背信者:禁断の手帳と地下室の誓い】

「蓮を利用するなんて……! 彼はあなたの息子なのに! 人でなし!」


 黒崎の瞳が細められ、薄い、勝利者の笑みが浮かぶ。その目は、獲物の反応を静かに楽しむ捕食者の目だった。


「利用? 違うな。エリカ」


 彼は鉄格子に手をかけ、わざと、耳障りな音を立てて軋ませた。  キィ……という金属音が、静寂な地下室に鋭く突き刺さる。


「私は蓮に、生まれ持った才能を開花させる“舞台”を与えただけだ。俳優としての才能も、戦士としての資質も、全て私の『世界支配計画』の、完璧な一部だ」


 黒崎は鉄格子越しに手を伸ばし、獲物を慈しむようにエリカの肩へ触れた。その指先は氷のように冷たく、皮膚の上を這うたびに嘔吐感にも似た鳥肌が立つ。


「エリカ。お前は、忘れていないだろう? 父親が借金とギャンブルに溺れ、家族が泥沼の中で壊れていった、あの地獄のような日々を」


 その一言で、エリカの呼吸が完全に止まる。  胸が熱いナイフでえぐられるような感覚。抉られた古傷が、鮮血のように疼き出す。


 ――荒れ果てた、安酒と絶望の匂いが染み付いた部屋。  ――床に散乱する空の酒瓶と、督促状の山。  ――父の暴力的な怒号と、それに応える母のか細い泣き声。


 過去の悍ましい映像が脳裏を稲妻のように駆け抜け、エリカの心を引き裂く。


「私は、お前の絶望の淵に手を差し伸べた。クロノスは、お前の家族を救い、生きる目的を与えた、唯一の存在だ」


 黒崎の声は、まるで慈悲深い救世主のように聞こえる。だがその裏には、魂を徹底的に支配しようとする底知れぬ渇望が見え隠れしていた。


「だからお前もだ、エリカ。クロノスに忠誠を尽くし、私の意に従えば、真の幸福を手にできる」


「……そんな偽りの幸福、いらない!」


 エリカは恐怖で震える身体を無視して叫んだ。


「私は蓮を守るためにここにいるの! あなたの冷たい、歯車になるためじゃない!」


 黒崎の表情から温度がすべて消え、ただ金属のような冷たさだけが残る。


「エリカ。お前が理解しなければならないことがある」


 一歩、黒崎が前に出る。その影が、エリカに巨大な刑罰のように覆いかぶさった。


「蓮はすでに、私の計画の中心にいる。お前が、ここで『逆らう』という選択をすれば──彼の命運は、たちどころに絶たれる」


「蓮……そんな……」


 エリカの頬を熱い涙がつたう。だが、その涙にも黒崎は冷酷に笑った。


「安心しろ。私は、愛する息子を傷つけたりはしない」


 声は一瞬、優しい父の響きを帯びた。しかし次の一言が、地下室の空気を絶対零度まで凍りつかせた。


「……お前が、永久とこしえに逆らわない限り、な」


 エリカは息を呑む。心臓が焼き尽くされるほど痛い。ここで折れれば蓮は一生この男に囚われる。逆らえば──蓮が確実に危険に晒される。


(……それでも。私は、あなたの支配から蓮を、必ず守り抜く)


 黒崎がエリカの顎を掴み、拒否を許さず顔を上げさせた。その瞳には、逃げ場のない、全てを喰らう闇が広がっている。


「エリカ。お前は強い女だ。蓮のために……賢明な選択、すなわち“正しい選択”をするはずだ」


 だが。エリカの瞳には、黒崎が期待していた従属の影ではなく──全てを燃やし尽くすような“反逆の炎”が宿っていた。


(私が彼を救う。この男の冷酷な計画を、この場所から止める。たとえ私がここで壊れても、蓮だけは──もう二度と、誰にも奪わせない)


 エリカはゆっくりと、自分の意志を刻み込むように拳を握った。


   *  *  *


 後部座席の彩花は、窓に映る自分の顔をぼんやり見つめながら、胸の奥のざわめきを抑えようとしていた。彼女の足元には、風見が隠すように置いていた、小さな段ボール箱が置かれていた。


 彩花は、ふと箱の蓋が開きかけているのに気づき、何気なく中を見る。衣類や書類の間に、裏返された状態の、古びた写真立てがあった。  不安に駆られ、彩花はそっとそれを取り上げて表に返す。次の瞬間、彩花の呼吸が止まった。


 そこに写っていたのは、親しげに肩を並べ、笑い合う二人の男性。  一人は、父・奥野博士。そしてもう一人は、運転席でハンドルを握る、若き日の風見その人だった。


「風見さん……これは……どういうことですか」


 彩花の声は低く、怒りと困惑で震えていた。風見は一瞬目を見開いた後、重い溜息をついた。


「見られてしまいましたか……」


 風見は静かに車を路肩に寄せ、エンジンを切った。夜の闇が車内を深く包み込む。


「彩花さん。私はクロノスの顧問弁護士だった頃、あなたの父上、奥野博士と親しい親交がありました。博士の計画と理想を、私は心の底から尊敬していたのです。彼は、クロノスの闇の中でも光を失わない、数少ない人間でした」


 その言葉と共に、風見の悔恨に満ちた手が、わずかに震えていた。彩花は風見から視線を外し、ゆっくりとバッグを開き、父の形見である奥野博士の手帳を取り出した。


「……博士は、最期にこれを私へ託した。『必ず、娘に届けてくれ』と……」


 風見が以前言った言葉の重みが、今、彼の告白によって数倍にもなって彩花の胸に突き刺さる。ページを開く手が、わずかに震える。紙は乾ききっており、触れた指先にささくれた質感が伝わる。そして──力強い、しかしどこか急いで書かれたような父の筆跡が、彩花の胸を刺した。


『彩花へ。もし君がこの手帳を読む日が来たのなら、私は……君のそばにいられなくなっているのだろう。クロノス・コーポレーションは、世界を揺るがす「最終計画」を進めている。  新エネルギー技術「プロメテウス」。これは人類を救う可能性を持つが、その一方で、世界を破壊し得る“禁断の鍵”でもある。彼らはこの力を独占し、世界を支配するつもりだ。私は研究データを、決して見つからないある場所に隠した。  どうか彩花……真実を見つけ、世界を守ってくれ。愛する娘へ。父より』


 読み進めるほどに胸の奥に熱い炎が込み上げ、視界が滲んだ。文字の端々に残る強い筆圧から、死の間際まで娘の幸せと世界の未来を案じていた父の鼓動が聞こえてくるようだった。


 黒崎剛一郎──私の父を奪った、この世で最も憎むべき男。


(絶対に……止める。父さんが命を懸けて守ろうとした願いを、無駄になんかさせない)


 手帳を閉じた瞬間、深呼吸さえ震えているのが分かる。蓮はそんな彩花を横目で見ると、無言の共感を込めて静かに窓の外へ視線を戻した。


「……彩花さん。大丈夫です。あなたのその強い決意は、私たちが必ず支えます。今度は……今度こそ、過ちは繰り返さない」


 運転席の風見がバックミラー越しに言う。その声には、かつて奥野博士を守れなかった、消えない罪悪感と、それを乗り越えようとする新たな覚悟が宿っていた。


(エリカ……今度こそ、二度と誰にも奪わせない)


 風見は唇を噛み締める。彼の身体の傷はまだ癒えていない。だが、それ以上に魂の疼きが、彼を突き動かしていた。

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