35話【覚醒の原罪 : 凍てついた父とプロメテウスの檻】
真っ白な壁。氷のように冷たい床。秒針のように正確に鳴り続ける、無機質で乾いた機械音。 ――ここを、僕は魂で知っている。
幼い蓮は、無影灯の下、実験室の中央に立たされ、白衣を着た顔のない大人たちに囲まれていた。少年の瞳は怯えで震え、理解も拒否もできない世界をただ受け入れるしかなかった。
「この子は――『プロメテウス計画』の、我々が探し求めた“絶対的な鍵”となる存在だ」
低い声が支配的な力をもって響く。蓮はその言葉の意味を知らない。ただ、背筋が凍えるほどの絶対的な恐怖だけが胸に宿った。 次の瞬間、身体の奥底、神経の芯から“焼き尽くすような激痛”が走った。それは単なる肉体的な痛みではなく、自分の意識という領域に、無理やり他者の意志を刻み込まれるような悍ましい侵食だった。 肺の奥で慟哭が膨らむのに、声帯を握り潰されたように声が出ない。喉を押し潰されたように、ただ、純粋な痛みだけが世界を支配した。
「これが、お前の運命だ、蓮。我々のための、壮大な運命だ」
鋭く冷たい声が、耳朶に突き刺さる。 ——父の声だった。
その痛みと引き換えに、別の記憶が、濁流のように押し寄せる。雪のように柔らかかった日々。母の優しげな微笑み。妹の楽しげな笑い声。家族と囲んだ小さな食卓の温もり。蓮は、その時間が永遠に、永遠に続くと信じていた。
それなのに——地鳴りのような轟音が、世界を切り裂いた。
玄関の扉が爆音と共に蹴り破られる。黒い影が雪崩れ込む。鋭利な声が家中に響いた。 「クロノス・コーポレーションだ。抵抗は無意味だ。ターゲットを確保しろ!」
武装した兵士たちが家に押し入り、一家に容赦なく襲いかかった。 「お父様っ!」 妹の絶叫。 「やめてっ!」 母の悲痛な叫び。
幼い蓮は必死に立ち向かおうと腕を振るったが、大人の力の前でたやすく兵士に組み伏せられた。「離せっ……!!」と喉が張り裂けるほど叫んだが、「大人しくしろ、愚かな小僧め」と兵士が蓮の頭を床に押さえつけ、勝利の嘲笑を浮かべる。
その地獄絵図を——玄関の奥、一歩も動かず、ひとり静かに見下ろす影があった。 黒いスーツ。氷のような感情の欠片もない表情。まるで、殺戮の劇を観客席から見つめているかのように。その男こそ、この攻撃を指揮するクロノス・コーポレーションの幹部。
そして、蓮の父——その人だった。
「蓮」 静かで、凍てついた審判のような声。「お前は我々の“未来”を担う存在だ。この苦難を乗り越え、強くなれ。これが、お前への最後の試練だ」
幼い蓮には、その言葉の冷酷さだけが理解できた。ただ、家族が目の前で壊されていく光景だけが焼き付き、胸を裂いた。金属音。靴音。怒号。母の悲鳴。蓮は恐怖と絶望で身体が完全に固まり、二度と声が出ないほどの深い傷を負った。 その後、兵士たちにゴミのように引きずられ、家族と引き離される。世界は音を失い、色を失い、ただ冷たい、父の裏切りの中に沈んでいった。
そして——再び、白い悪夢の部屋へ戻された。
冷たい床。無機質な機械音。希望を断ち切る、逃げ場のない檻。「プロメテウスの最終実験を開始する」と白衣の男の指示が飛び、蓮は再び神経を焼かれるような耐え難い痛みに襲われた。
「お前の中に眠る力を解放するのだ。世界を変える力、すなわち『クロノスの支配力』を」
父の声が、刃のように心を刺す。痛みの中で、蓮は全てを賭けた、かすかな声で問いかけずにはいられなかった。 「……どうして……どうして父さんは……僕を……こんな、地獄に突き落とすんだ……?」
その疑問は、深い絶望の霧の中に差し込んだ、たったひと筋の、幼い愛の光。やがて蓮は、クロノスで過酷で非人道的な訓練を受け、人格を“冷酷な兵器”として再構築された。優しさも、涙も、怒りも、すべて過去の記憶と共に封印され——代わりに任務遂行のための冷酷な能力だけが植え付けられていった。
しかし。その意識の奥底、誰にも触れられない「蓮」という名の核には、まだ消えない炎が残っていた。家族への愛。あの日の恐怖。取り返しのつかない喪失。それは、胸の奥で燃え続ける“クロノスへの復讐の業火”だった。
──その瞬間、彩花との出会い、風見の言葉、そして蓮の胸奥で燻っていた“名前のない、全ての感情の集積”が、一気に線となって繋がった。
「蓮、思い出せ。君の過去には、クロノスを倒す鍵が隠されている」
その言葉は、まるで遠い戦場から響く、低音の太鼓が、ゆっくり蓮の心臓を叩くようだった。重く、深く、魂の奥底まで振動させる音が胸に沈んでいく。
──ドン……ドン……ドン……
鼓動と混ざり、アパートの空気が微かに震えはじめる。閉ざされていた宿命の記憶の扉が、耳障りな軋みと共に開きかけていた。蓮の視界に、実験室の冷たい光景が鮮明に滲む。粗末な部屋。冷たい声。大きな手。 ……あれが、僕の原罪。
蓮は荒い呼吸を吸い込み、決意の固さで拳を握った。これは逃げずに向き合うべき“自分の核”だ。そして、彼は迷いを断ち切って決めた。
──彩花とともに、黒崎剛一郎の牙城へ乗り込む。 エリカを救い、全てを終わらせるための答えを、この手で必ず取り戻す。
……地の底のような薄暗い地下刑務室。
天井の蛍光灯は古びた生命のように、光と闇の明滅を繰り返していた。その光の揺れが、拷問のようにエリカの頬を照らし、平静を奪う。 湿った石壁、錆びて腐食した鉄格子。空気には鉄とカビ、そして古い血のような匂いが充満し、奥ではポタ……ポタ……と水滴が落ちる音が、時間の終わりを告げるように響く。
エリカは全身を硬直させ、膝を抱えて座り込み、震える息を押し殺していた。体温が徐々に奪われていく感覚。光が明滅するたび──向かいの椅子に座る男の影が、魂を喰らう巨大な怪物のように見える。 黒崎剛一郎。動かぬその姿から、地下室全体を支配する圧倒的な冷気が漂っていた。
「……蓮が……あなたの……息子だというの?」
声はかすれ、恐怖に押し潰され、消え入りそうだった。 黒崎は椅子から立ち上がる。わざと、舞台俳優のように、ゆっくりと。恐怖を最大限に植えつけるための“支配者の演出”のように。彼の靴音がコンクリートに反響し、鋭く部屋全体を支配する。
「そうだ」
ただ一言。それだけで地下室の温度が氷点下まで下がったように感じた。そこに僅かに混じった、獲物を独占するような歪んだ所有欲。エリカの背中を、刃のような衝撃が走る。息が止まり、視界が少し滲む。
──蓮が、この冷酷非道な男の息子? 私は……あの優しさと哀しみを抱える蓮を……この闇の王の血を引く相手を……愛してしまった?
胸の奥が、絶望と吐き気でぎゅっと締め付けられる。怒り、悲しみ、絶望、混乱……どれがどの感情かわからないほど、心臓が千々に裂かれていく。 だが、蓮の、純粋すぎる笑顔を思い出すと、すべてが一瞬止まった。
蓮は悪くない。蓮は知らない。蓮はずっと、この男の業の犠牲になってきただけだ。 彼が自らの忌むべき血脈を知ったとき、あの心は耐えられるだろうか。
(……私が、何としてでもこの真実から蓮を守らなきゃ。たとえ、彼が私のことを一生憎むことになっても、この呪いだけは私が引き受ける)
エリカは震える体を、強い意志で無理やり起こし、顔を上げた。その瞳には、恐怖を凌駕する、愛する者を守り抜くための烈火のごとき覚悟が宿っていた。




