32話【覚醒の歩法 : 決死の脱出と偽りの脅迫状】
彩花は息を、鼓動までも呑んだ。 しかし、黒崎の瞳の奥底には、怒りや勝利のほかに、何か懐かしいものを発見したような、奇妙で獰猛な喜びが、火花のように一瞬宿ったのを、彩花は見逃さなかった。それは獲物を追い詰めた愉悦というより、失ったはずの「過去」を再び手中に収めた者の、悍ましい執着の眼差しだった。
「待てと言っているだろう!」
黒崎の声は会場全体を支配する雷鳴となり、すべての視線が彩花に殺到する。 周囲がざわめき、恐怖の連鎖で混乱が生まれる。逃げ場のない空間で、黒崎の足音が死の宣告のように一歩ずつ、確実に迫る。
その刹那、至近距離を通り過ぎたウェイターが、まるで命懸けの芝居のように、持っていたトレイの上のワイングラスを意図的に床に落とした。その瞬間、ウェイターの視線が微かに彩花の胸元のペンダントに動き、エリカが仕込んでいた「合図」を送った。
グラスは厚いカーペットに鈍い音を立てただけで割れなかったが、その一瞬の不自然な動作が、黒崎と警備員の意識をわずかに引き付けた。 この数瞬の隙を、彩花は見逃さなかった。ウェイターの緊迫した意図を、そしてこの演出が「味方の援護」であることを瞬時に察知し、遺伝子レベルで眠っていた格闘スキルが覚醒する。
彩花は「キャッ!」という悲鳴を上げながら体勢を低くし、右足の踵で勢いよく、ウェイターが落としたグラスを正確に蹴り上げた! グラスは鋭い音と共に床に叩きつけられ、ガラスの破片が閃光のように激しく飛び散る。ウェイターはバランスを崩し、持っていたトレイを派手に床に落とした。
その音と衝撃波が追手の動きをさらに鈍らせる。彩花の知性と身体能力が、初めて融合した瞬間だった。
「――出口は、西側へ」
ウェイターは倒れこみ、顔を歪ませながらも、彩花にしか聞こえない緊迫した微かな声で囁いた。 混乱に乗じて踵を返した彩花は、その言葉の意図を測る暇もなく、光差す出口に向かって脱出を賭けた疾走を開始した。
「逃がすな! 誰かそいつを捕まえろ!」
黒崎の地を這うような怒声が背後から追いかけてくる。しかし、床一面に散らばったガラスと、崩れたトレイが創り出した混乱が、追手の足取りを鈍らせる。 その様子を、会場の隅の影から、スーツを着た痩せ型の男(鬼塚)が、冷たい無表情でじっと見つめていた。彼は、ウェイターが彩花を意図的にサポートした瞬間を、ただ一人見逃さなかった。
彩花は息を切らしながら、人混みを縫うように出口へ突進する。心臓は破れんばかりに鼓動し、脱出への執念が彼女を突き動かす。 あと少し、あと数歩――。彩花は最後の力を振り絞り、光差す出口へ、闇からの解放を求め飛び込んだ。
「はぁ…はぁ…」
外の空気を吸い込み、彩花は決死の逃走の末に、一瞬の安堵に胸を撫で下ろす。だが、完全な安全はない。黒崎は必ず、今この瞬間も追っている。 彩花は人気のない路地に身を隠し、冷たい壁に背を寄せた。耳を澄ませば、警備員の足音と、黒崎の怒声が遠くから、しかし確実に近づいてくる。
「どこへ行った、あの女!」
彩花の激しい心臓の音が、自分の耳にまで響く。呼吸を殺し、身を低くする。 その時、彩花のスマートフォンが微かに振動した。見覚えのない番号からのメッセージが表示されている。
「お前は、すでに包囲されている。大人しく降伏しろ。さもなくば、蓮の命はない」
彩花は氷のように息を呑む。だが、すぐに違和感に気づいた。蓮なら、どんな窮地でも決して私の心を乱すような連絡はさせない。それに、彼が捕まれば真っ先に連絡してくるのは悠斗のはずだ。彩花は知性をフル回転させ、このメッセージが単なる虚勢であり、自分の焦りを誘うための黒崎の心理的な罠であると見抜いた。
黒崎の脅迫を振り切るように、彩花のスマートフォンが再び震えた。 画面には「悠斗」の文字が、安堵の光のように点滅している。彩花は息を殺し、周囲に気を配りながら電話に出た。
「彩花さん、無事か? 今、状況は?」
悠斗の冷静で頼もしい声が、冷たい夜の空気の中で、彼女の耳に届く。その声は、緊張で張り詰めた彩花の心を、ほんの少しだけ解きほぐした。
「ええ、なんとか逃げ切りました。偽の証拠を掴まされ、罠にかかってしまいましたが」
彩花は安堵のため息をひとつ漏らし、失敗を認めながらも状況を伝えた。
「了解。君の居場所は特定した。すぐに指定の場所へ迎えに行く。絶対に動くな」
「わかりました」
電話を切ると、彩花は再び周囲を慎重に警戒した。路地の静けさの中、風が頬を撫で、遠くで犬の鳴き声がかすかに聞こえる。追手の声はもう届かない。 彩花は蓮を信じ、黒崎の脅迫を無視する決意を固め、慎重に足を進めた。人通りの少ない裏道を抜け、月明かりに照らされた公園に辿り着く。木々のざわめきと夜の静寂が、彼女の緊張をほんの少しだけ和らげた。
そして、公園の暗がりで待機していた蓮と悠斗の二人と合流する。そこには、まだエリカの姿はなかった。その不在が、彩花の胸に微かな不安の棘を刺す。
互いの安否を確認し、言葉よりも雄弁な視線だけで互いの胸の内を理解し合う。三人は、生還の喜びをひそやかに分かち合った。
「無事でよかった……そして、よくやってくれた」
蓮の声には、愛する者を守り抜き、大きな成果を得たという安堵と、これから戦う覚悟が混ざっていた。彩花は小さく頷き、冷えた夜風に身を委ねながら思う。
「これで、クロノスの悪事を暴くための、決定的な一歩を踏み出せた。戦いはまだ、始まったばかり――」
月光に照らされた三人の影が、公園の静寂に溶け込む。それは、これから訪れるであろう、さらに大きな試練に立ち向かうための、静かで、しかし確かな勝利への決意の影だった。
風見は静かに立ち上がり、窓の外に視線を投じた。 茜色に染まる夕日が、高層ビルの窓ガラスを燃えるような懺悔の色に照らし出す。その光に映る彼の横顔には、深い哀愁と譲れない決意が同居していた。
かつて、彼は理想に燃える若き警視庁捜査一課の刑事として、クロノス・コーポレーションの闇を追っていた。しかし、ある未解決の、そして血生臭い事件をきっかけに、彼は自らクロノスの顧問弁護士という偽りの地位に身を置き、内部から不正を正そうと試みた。それは、己の正義感を過信し、闇の深さを侮った結果として、自らの魂を危険な賭けに投じた無謀な選択でもあった。
だが、すべては巨大な闇に飲み込まれ、裏目に出た。自らの慢心が招いた家族の犠牲と、守るべきものを守れず命からがら脱出したあの日の屈辱が、今も消えない刺青のように胸の奥で疼く。
「私は……あの時、自惚れから真実を甘く見、取り返しのつかない形で大切なものを失った。だが、二度と同じ過ちは犯さない」
風見はゆっくりと体を転じ、五人の同志たちを見据えた。
「君たちと共に、クロノスを倒し、私の失った正義を、ここで必ず貫く」
その声には、過去の深い悔恨、そして老いた身を押してでも戦い抜くという、揺るぎない決意が鮮明に込められていた。




