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3話【キスは甘い毒 ── 彼はデジタルタトゥーを持たない】

完璧な夜。完璧な景色。そして、完璧な口づけ。


 幸せの絶頂にいるはずの彩花の脳裏を、一つの「空白」が支配します。  デジタルの海にさえ、その足跡を一切残さない男。


 目の前で微笑み、甘い言葉を囁く彼は、果たして「人間」としてそこに存在しているのでしょうか。  元旦の朝、物語は美しすぎる悪夢の入り口へと差し掛かります。

 その後、私たちは海辺のレストラン「イル・マーレ」へ向かった。  砂浜に近い遊歩道を歩くと、夕暮れの風がスカートを軽やかに揺らす。  海鳥の声と、潮の香りが肺に入り込むたび、胸の緊張がゆっくりとほどけていく。


 レストランの大きな窓から流れ込むオレンジ色の光に包まれ、まるで映画のセットに迷い込んだようだった。  席は海に面した最高の窓際。  外では波がゆっくりとうねり、空はオレンジ、ピンク、紫が溶け合う壮大なグラデーションを描く。


「景色が綺麗ですね……」  思わず漏れた言葉は、自分でも驚くほど柔らかく、感情が解き放たれていた。


 私のテーブルには、地元産の新鮮なシラスをたっぷり使ったペペロンチーノ。  連日の残業でボロボロになった身体が、無意識にニンニクの刺激を求めていた。 「あ……」と頼んだ後に後悔したが、涼太さんは「元気が出るものを食べる女性は素敵ですよ」と、気にする素振りも見せずに微笑んでくれた。


 一方、涼太さんの前には、豪華な伊勢海老のグリル。  涼太さんがナイフを動かす手つきはあまりに優雅で、まるで何年も前からこの贅沢な空間に溶け込んでいたかのような落ち着きだった。


 ふと気づくと、彼はあれほど大きな伊勢海老を口に運んでいるのに、食器が触れ合うカチリという音さえ一度も立てていない。  咀嚼そしゃくの音も、嚥下えんげの気配すらなく、ただ料理が彼の口の中で「消えていく」ような、奇妙な錯覚に囚われた。


「……彩花さん?」  ふいに声をかけられ、私は我に返った。  涼太さんは、いつの間にか食事を終え、ナプキンで口元を拭っている。


「あ、すみません。あまりに景色と……涼太さんが綺麗だったので、つい」 「ふふ、見惚れていただけるなんて光栄です。すみません、僕ばかり先に食べ終えてしまって。……お待たせしました。ゆっくり召し上がってくださいね」


 彼の穏やかな微笑みに胸が温かくなる。その声のトーンと、ゆっくりとした間合いは、静かに私の心に染み入る。  仕事や趣味の話を交えながらも、彼は私の様子を、まるで観察するかのように注意深く見ている気がした。  それは、私を気遣ってくれているのだと、素直に思えた。


「そういえば、江ノ島には“天女と五頭龍”の伝説があるんですよ」  涼太は窓の外を眺めながら、静かに語り始めた。  龍が天女に恋をし、彼女のために生き方を変え、島を創造したという物語。


「ロマンチックだと思いませんか?」  伝説を語る横顔は、夕日に照らされ、どこか神秘的で自然だった。  その自然さが、作りもののようには見えないからこそ、私の心は深く揺れる。


「いつか、彩花さんと世界を旅しませんか?」 「え……?」  料理を口に運ぼうとした手が止まった。


 彼は少し眉を上げ、柔らかな瞳でこちらを見つめる。 「例えば、ルネサンス建築が時代そのものとして息づく、フィレンツェなんてどうでしょう。夜の広場も、パスタもジェラートも、きっと彩花さんが好きそうだと思って」


 その一言一言が、私の胸に熱を点す。  彼の落ち着いた声で語られる「未来」は、仕事に疲弊した私の日常から抜け出せる、逃避の夢のように甘かった。


 そして、彼の手がそっと私の手に触れる。  その温もりが、心をほどく鍵のように感じられた。 「うん……それ、すごく素敵ですね」  少し照れて笑った。けれど胸の奥には、まだ小さな不安の影が蠢いていた。


 ――この人はこんなに完璧で優しい。  でも、私を選ぶ理由は……?


 食事を終え、外に出ると夜風が心地よかった。海面には月の光が細い道となって揺れる。  美しさに見とれながら、彼は自然な動きで家まで送ってくれた。


「今日は、本当にありがとう」  マンションの前で立ち止まると、彼はそっと私の頬に触れ、軽く唇を重ねた。


 ほんの一瞬の、確認のようなキス。  私は自分の口の匂いを気にして思わず身を固くしたが、彼はまるでそんな「人間の生活臭」など最初からこの世に存在しないかのように、至近距離で深く、無機質なほど穏やかな瞳で私を捉えて離さなかった。


 その唇は、彼の瞳と同じく深く冷たく、どこか体温を感じさせない完璧な感触だった。  触れた瞬間、唇の端にパチリと小さな静電気のような、あるいは神経を直接逆なでするような微弱な電流が走り、私は一瞬呼吸を忘れた。


 心臓は波のように何度も押し寄せ、息が浅くなる。  この瞬間、私の知性や疑念は、体の中心で燃え上がった理性を焼き尽くす感情の熱によって、跡形もなく溶かされた。


「おやすみなさい、彩花さん。今日は、僕に素敵な夜をありがとう」 「おやすみなさい……涼太さん。本当に、ありがとう」


 自然に浮かんだ笑顔。  だが、その裏側では、もはや言葉にできない甘い渦が静かに脈打っていた。  私は、彼の優しさという名の、深すぎる海に、一歩足を踏み入れたのだ。


 部屋に戻ると、私はスカートのポケットに手を入れたまま、深く息を吐いた。  胸の高鳴りはまだ収まらない。  目を閉じれば、エントランス前での、あの短いキスの衝撃が瞼の裏でリプレイする。


 落ち着こうとする理性とは裏腹に、指先は勝手にMacBookへと向かっていた。  無意識に開いた検索窓に打ち込む。 「高杉涼太 商社」 「高杉涼太 SNS」


 しかし、何度検索を繰り返しても、結果は同じだった。  何も出てこない。仕事の情報も、SNSの過去の投稿も、趣味のコミュニティへの参加記録も。  まるで、この世に彼の存在を示すデジタルタトゥーが一つも存在しないかのように。


「どうして……?」  胸の奥で、冷たい氷のようなものが、じんわりと心臓に向かって広がる。  あんなに自然で、嘘のないように見えた人が、現実世界のどこにも痕跡を残していない。


 彼の完璧さが、ここにきて「そこに存在するべき情報の不在」という、不気味な虚無に変わった。  楽しかった時間が次々と思い出され、デジタルな不在を感情で打ち消そうとする。


 穏やかな笑顔。低くて優しい声。花束を差し出したときのまっすぐな眼差し。  軽く触れた手の確かな温もり。そして、あのキス。  思い返すたび、胸が締め付けられる。あの温かさと安心感は、偽物ではなかったはずだ。


「もしかして……運命の、本当に特別な人なのだろうか」  そう思ったすぐ隣で、冷徹な理性の声が小さく囁く。


「でも、本当は、あなたを操る嘘の脚本家だったら……?」  最近ニュースで見た結婚詐欺の話が、鮮明な映像となって脳裏をよぎる。  信頼を築いたあと、優しく、完璧で、誰も疑えない男が、すべてを奪う――まさに涼太さんのように。


「私も……騙されてたり、するの……?」  小さく声に出した瞬間、胸がぎゅっと苦しくなる。  けれどすぐに、あの真剣な瞳が、優しすぎる手の温度が、私の理性に反論した。


 ――彼の眼差しは、私の心の傷を本当に見抜いていた。  ――あの手の温度は、紛れもない本物だった。


 信じたい感情と、裏切られる恐怖が、静かにぶつかり合い、私の心は決壊寸前だった。  頭では整理できないまま、胸の奥のざわめきだけが、夜の静けさに不協和音となって重なる。


 画面は冷たく光るだけで、答えはくれない。


「ねぇ、涼太さん……  あなたは、私の孤独を埋める光なの?  それとも、私を支配する、甘い闇なの?」


 問いは、湿った夜気とともに、静かに部屋に溶けていった。  しかし、問いかけた瞬間、私はすでに知っていた。


 この疑惑と、この抗いがたい渇望こそが、私という砂上の城を破壊するかもしれない彼を、愛し始めてしまった理由なのだと。


 答えのない夜。  運命の歯車は、もはや止まることを許されず、深く軋む音を立てて、次の局面へと回転し始めていた。

新年あけましておめでとうございます! 貴重な元旦の朝に、本作を開いていただき本当にありがとうございます。


最高のロケーションでのキス。しかし、彩花が感じたのは甘さよりも「得体の知れない違和感」でした。 デジタルタトゥーが一切存在しない男、高杉涼太。 その正体は、彼女にとっての救いか、それとも……。


この後、物語は「偽りの家族」という、さらなるいびつな局面へと突入します。


【次回の更新予定】 本日(1/1)18:00 投稿予定


ぜひ、お屠蘇とそを飲みながら、あるいは炬燵こたつでゆっくりしながら、続きをお楽しみいただければ幸いです。


【読者の皆様へお願い】 始まったばかりの物語ですが、なろうでは皆様の「ブックマーク」や、下にある「☆☆☆☆☆」からいただける評価ポイントが、作品が世に広まるための何よりの力になります。


「涼太の正体が気になる!」「更新頑張れ!」と思ってくださいましたら、新年のお祝い代わりにポチッと応援いただけると、最高の執筆お年玉になります!


本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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