29話【真夏の約束と人魚の涙:黒崎の愛人が隠したSOS】
数日後、悠斗はクロノスの厳重なセキュリティを掻い潜り、手に入れた極秘ファイルの山の中から、慎重にある一枚の写真を取り出した。 指先に伝わる古びた紙の質感が、まるで未知の毒を孕んだ警告のように、悠斗の心拍を激しく打ち鳴らす。
「……これを見てくれ」 悠斗が差し出した写真には、クロノス創設者・黒崎剛一郎と、一人の若い女性が写っていた。 高級ホテルのラウンジだろうか。二人の距離感、視線の絡み合い、そして獲物を追い詰めた猛獣のような剛一郎の微笑み――そのすべてが、冷徹に計算された舞台演出のように見えた。
「黒崎会長の愛人、藤崎エリカ。表向きは秘書だが、実際は会長の弱みを握り、多額の金銭を要求している不遜な女だ。組織内部でも、彼女はいつ爆発するか分からない『爆弾』として極秘に警戒されている」
悠斗の声は冷静を装っていたが、その瞳の奥には、この情報がもたらす予測不能な事態への不安が渦巻いていた。 彩花は息を呑み、その写真を凝視した。不安を打ち消すように、彼女は無意識に細い指で髪の毛先を弄り、記憶の底を必死に探る。
「あの……この人は……まさか」 その瞬間、彩花の脳裏に、以前涼太のマンションへ向かった際に目撃した「赤いピンヒールの女性」の姿が、鮮烈な光景として蘇った。 あの時の冷ややかな微笑み、こちらのすべてを見透かすような不気味な視線――。すべてが、写真の中で剛一郎の傍らに佇むエリカと、恐ろしいほど一致したのだ。
蓮もまた、無言で写真を見つめていた。 だが、彼の胸の奥でざわめいているのは、恐怖ではなかった。 幼い頃から知る彼女の無邪気な笑顔、そして別れ際に見せた、消え入りそうな影のある表情。それらが怒濤のように脳裏を駆け巡り、蓮の思考を麻痺させていく。
「……エリカ」 思わず漏れた、祈るような蓮の声。彩花はその痛々しいほどの表情を見つめ、震える声で尋ねた。
「蓮さん……! この写真の女性が、あの時、涼太さんのところにいた人なのですね? ……そして、どうしてそんなに悲しい顔をされているのですか?」
蓮は深く、深く息を吸い込んだ。喉の奥にこびりつく過去の重みを噛みしめるように、ゆっくりと唇を開く。
「実は……エリカは、昔の僕のマネージャーの娘なんだ。僕にとっては妹のような、何よりも大切で、守るべき存在だった。僕たちは幼い頃からいつも一緒で、公園で泥だらけになって遊んだり、夏祭りで大きな花火を見上げたり……些細なことで笑い合える、輝くような過去を共有していたんだ」
蓮の声には、隠しきれない後悔の念が混ざっていた。
「だが、幸せだった彼女の表情は、ある時期を境に曇りがちになった。父親であるマネージャーが、クロノスに関連する事業の失敗で、多額の借金を背負わされたのが原因だった。エリカは家族を守るために、自分の夢も、初恋も、未来も……すべてを諦めなければならなかったんだ」
蓮は目を閉じ、忘れもしないあの夜を思い出す。
「中学生のある夏の夜、彼女は泣き出しそうな顔で僕に言ったんだ。『私がいなくなっても、蓮お兄ちゃんは幸せになってね』って。その時の彼女の涙は、今でも僕の胸をナイフで刺し続けている。僕がもっと強ければ、彼女を救い出せたはずなのに……これは、僕が生涯背負うべき罪の記憶なんだ」
写真の中で、黒崎の愛人として虚飾の微笑みを浮かべるエリカ。その姿を見つめる蓮の瞳には、愛おしい懐かしさと、贖いきれない痛みが入り混じっていた。最も清らかだった幼馴染みが、今や最大の敵の腕の中にいるという残酷な事実は、蓮の心に、これまで以上の猛烈な決意を植え付けた。
彩花は蓮の話を聞き、深く息を呑んだ。驚きと共に、胸の奥にエリカへの切なさと、言葉にならない同情がこみ上げる。
「蓮さん……彼女は、あなたを騙すために近づいたのかもしれない。でも、それ以上に、黒崎の冷酷な力が彼女を極限まで追い詰めたのね。家族を人質に取られ、選択肢を奪われて……」
蓮は痛みを堪えるように、ゆっくりと首を振った。 「そうだ。彼女もまた、黒崎という絶対的な権力と金の前に、羽をもがれ、自由を奪われた犠牲者なんだ」
彩花は蓮の震える肩に手を置き、優しく、しかし確信に満ちた声で語りかけた。 「きっと、彼女が本当に求めているのは、お金でも地位でもないはず。……孤独な戦いの中で枯れ果てそうな心を支えてくれる、誰かの理解。私たちがその支えになれば、彼女もきっと、正しい道を選び直せるわ」
蓮はポケットの中にあった「ある物」――小さな貝殻を握りしめた。個人的な贖罪と、組織との戦いを一つに重ね合わせ、彼は顔を上げた。
「エリカは黒崎の鎖に繋がれながら、たった独りで自由を求めて戦っていたんだ。彼女が今、どんな泥沼を歩んでいようとも、僕は彼女を必ず救い出さなければならない。今度こそ、その手を離さないために」
悠斗もまた、冷静な軍師としての視点に、僅かな熱を込めて付け加えた。 「クロノスを内側から崩壊させるには、エリカという『内部の爆弾』を味方につけるのが最短ルートだ。彼女の心の奥にある本心、そして黒崎が隠し持っている致命的な弱みを、君たちの絆で引き出すんだ」
「私も行きます。エリカさんに会いに行きましょう」 彩花も力強く頷いた。 「彼女が本当に必要としているのは、冷たい情報などではなく、真に心を許せる『過去の光』……蓮さん、あなたなのだから」
三人は、それぞれの想いを胸に、クロノス中枢への突破口となる「エリカとの接触」へ向けて、決意を固めた。蓮にとってエリカを救うことは、親友隆二を守れなかった自分自身の魂を、ようやく救済するための道でもあった。
蓮は、幼い日にエリカから手渡された小さな貝殻を、指先が白くなるほど強く握りしめた。それは単なる思い出の品ではない。彼女との不滅の絆、そして言葉にできなかった深い想いの象徴だ。
しかし──。 その時、蓮の脳裏にある不気味な記憶の断片がフラッシュバックした。 (……待てよ。なぜ、あの黒崎剛一郎のデスクの上にも、これと全く同じ形の貝殻が置かれていたんだ?)
蓮の思考は急速に冷えていく。なぜエリカは、あの貝殻を自分と黒崎の二人に渡したのか? 彼女が生き残るための巧妙な策なのか、それとも、誰にも気づかれないような切実なSOSなのか。 答えはまだ、深い闇の中だ。だが、蓮は心の底で強く誓った。 「必ず彼女の本心を知り、この貝殻に隠された謎を解き明かしてみせる」
三人は沈黙の中にそれぞれの覚悟を抱き、エリカという「毒を纏った人魚」が待つ場所へと歩みを進めた。
一方、同時刻──。 「……蓮……蓮は、私のことをまだ、覚えているだろうか」
黒崎剛一郎の豪邸。金と虚飾に満ちた豪華な一室で、エリカは一枚の色褪せた写真を手に取っていた。 そこには、幼い頃の蓮と自分が、夏の海辺で無邪気に笑い合う姿が写っている。灼熱の太陽が砂浜を照らし、遠い日の潮の香りが鼻腔をくすぐる。二人の小さな手が確かに未来を握り合った瞬間。それらすべてが、今の彼女にとっては拷問のように鮮明な痛みとして蘇る。
「あの頃は、世界がこんなに輝いていたのに。未来は希望に満ちていて、夢はいつか叶うと信じていた。……どうして私は今、こんな泥の中に立っているの?」
エリカはそっと目を閉じ、温かくも悲痛な記憶の糸を辿った。 貧しくても家族と笑い合えた日々。優しい父、笑顔の絶えない母、そしてどんな時も自分を守ってくれた、たった一人のヒーロー、蓮。
「蓮は、私の光だった。いじめられた時も、迷子になった時も、必ず蓮は手を差し伸べてくれたわ。『エリカ、大きくなったら僕が絶対、絶対幸せにするからな!』……真夏の海辺でそう言って私の手を握ったあの温かさ、潮の香り……今でも指先に、火傷みたいに残っているのよ」
しかし、現実は巨大な黒い波となって彼女を飲み込んだ。 父の事業は失敗し、家には借金取りが押し寄せた。母は心労で病に倒れ、家族は崩壊の淵に立たされた。エリカは家族を守るために身を削って働いたが、絶望は深まるばかりだった。
そんな時、悪魔のような救世主、黒崎剛一郎が現れたのだ。
「剛一郎さんは、最初は救いの神のように見えた。借金を肩代わりすると言い、家族を救う手を差し伸べてくれた。……でも、それは甘い猛毒の罠。私は家族を守るために、心を殺してあの方の腕の中に飛び込んだ」
剛一郎は彼女の若さと美貌を標的にし、巧妙に支配を広げていった。
「蓮……ごめんなさい。私はあなたを裏切り、黒崎の飼い犬に成り下がってしまった。でも、心だけは……あの日の約束を一度だって忘れたことはない。だから私は、剛一郎さんの懐に潜り込み、クロノスを内側から壊そうとしたの」
エリカは写真の中の蓮に向かって、抑えきれない悔恨の涙を零した。 「けれど、私は弱すぎたわ。権力と金に目がくらみ、保身に走ってしまった……。こんな汚れた私を、あなたはまだ『エリカ』と呼んでくれるかしら」
夏の海辺で交わした誓いは、もう二度と戻らない波の中に消えたのかもしれない。けれど、彼女の心には、蓮への純粋な想いが、小さな、しかし決して砕けない硬い貝殻のように残っていた。




