26話【裏切り者の日記:白衣の悪魔が刻んだ計画の文字】
――白い砂浜が光を反射し、波の音が心地よく耳に届く。 無邪気な少年たちは笑い、砂を蹴り上げながら駆け回る。その声は風に乗り、永遠に続く平和な一瞬を奏でていた。澄み渡った空と海、潮の香り、風の肌触り、すべてが少年たちを無償の幸福で祝福しているかのようだった。
しかし、次の瞬間、世界はその穏やかさを暴力的に奪われた。
怒号が飛び交い、笑顔は一瞬で消え、砂浜は悪夢の舞台へと変わる。少年のひとりが絶望に顔を歪め、恐怖に震える。光に満ちていた見慣れた風景は一瞬で歪み、目に映るものすべてが恐怖の象徴となった。
蓮の頭に雷鳴のような鋭い痛みが走る。 脳に打ち込まれる鋭利な楔のように、耐えがたい激痛が全身を駆け巡る。彼の体は反射的に硬直し、握りしめた拳には無意識の力が入り、指の関節が音を立てるほど白く浮き上がった。
「うっ…ああ…頭がッ……!」
彼は必死に記憶の断片を繋ごうとする。 純白で冷たい実験室の極度の冷たさ、消毒液と錆びた血の匂い、無表情な白衣の男たち、そして恐怖で声も出せず、ただ怯えるしかなかった幼い自分――その光景が鮮明な映像として蘇る。
「やめろ……お願いだ……もうやめてくれ……!」
幼い自分の悲痛な叫びが、彼の胸の奥でエコーのように響き渡る。呼吸は浅く、喉がひりつき、体は冷や汗でびっしょりと濡れていた。
冷たい金属製のベッドに縛られ、自由を完全に奪われた幼き体。白衣の男たちは感情を排した眼差しで見下ろし、機械的に命令を飛ばす。
「被験体12号、第III相実験を開始する」
腕に氷のような鋭い針が刺さり、未知の薬物が体内に濁流のように注入される。全身に走る焼けるような激痛。蓮は必死に悲鳴を上げるが、その声は白い壁に吸い込まれ、誰にも届かない。薬の影響で意識は朦朧とし、現実と幻覚の境界を彷徨う。
目の前の白衣の男たちは、徐々に影を伴った怪物のように歪んで見える。恐怖で泣き叫ぶ蓮、だが助けは来ない。体中の力が奪われ、感覚が徐々に麻痺していく。
感情は次第に失われ、心は硬い殻に閉ざされていった。残るのは、深い絶望と、消し去ることのできないトラウマだけ。世界が静止したかのような孤独。
「まだ泣かないのか? 泣き叫べよ、蓮」
男の声は、まるで絶望を愛する悪魔の囁き。蓮は涙を必死にこらえるが、魂の底から溢れる絶望の涙が頬を伝う。その涙を見て満足げに笑う男、再び襲いかかる拳。
体は痛みと恐怖で麻痺し、抵抗の意志さえ失われる。心は絶望の淵に沈み、ただ終わりを願うのみ。
どれほどの時間が過ぎたのか、蓮は朦朧とする意識の中で、男が部屋を出て行くのをかろうじて感じた。安堵のため息すらつけず、ただ静かに涙を流す。
「うっ…!」
その苦痛に満ちた呻きに、彩花は咄嗟に駆け寄り、生命線のように蓮の手を握る。
「蓮さん、無理しないで!」
声には震えが混ざり、彼の過去の痛みが自分に流れ込んでくるかのように胸が締め付けられる。前話で覚醒した力がわずかに反応し、蓮の激痛が彩花自身の体にも流れ込んでくるような、身体的な共感が走った。彼女は歯を食いしばり、蓮の手を決して離さなかった。
蓮はゆっくりと顔を上げ、桐島悠斗の瞳を見た。 その目には、混乱と苦悩、そして長年封印されてきたトラウマの痛みが渦巻いていた。
「悠斗さん…あなたの兄の名前は、隆二といったな?」
声はかすれ、記憶の残響が混ざっていた。 悠斗は静かに、しかし重い罪悪感と共に頷く。
「はい。桐島隆二です。あなたと唯一、親友だった……」
「…そうか」
蓮は深く息を吸い込み、再び日記帳に視線を落とす。ページに記された文字は、まるで彼を嘲笑うかのように、不気味に揺らいで見えた。
「…一体、何が、隆二に、そして僕たちにあったんだ?」
蓮の問いかけに、悠斗の表情が深い陰を落とす。 悠斗はゆっくりと、絞り出すように口を開いた。
「兄は、純粋で、正義感が人一倍強かった。ある日、兄は偶然、君に対する非人道的な記憶操作の秘密実験を目撃してしまった。幼いながらも、その恐ろしさを理解した兄は、いてもたってもいられず、その事実を世界に伝えようとした」
悠斗の声には、幼い頃の兄への懐かしさと尊敬、そして拭えない後悔が混ざる。
「兄は、『事故』に見せかけて、クロノスに抹殺された。俺は、その事実を知りながらも、組織に逆らえず、何もできなかった。それどころか、組織に脅され、兄の死を『事故』だと偽装するために協力させられた……兄を救えなかった自分を、ずっと、今も責めている」
その声はかすれ、しかし復讐心という名の確かな決意が宿っていた。
「だから俺は、クロノスを裏切り、蓮を助けることを、兄への贖罪と決めた。兄の無念を晴らし、クロノスの悪事を根絶するために。それは、蓮さんと兄だけが知る真実。そして、その真実が、この灯台の地下室に眠る日記に記されているはずだ」
悠斗は書斎の重厚な本棚の影に隠された、地下室へと続く薄暗い階段を指さす。 その先には、蓮の失われた過去と、クロノス創設者・黒崎の恐るべき陰謀を解く最後の鍵が眠っている。
蓮は決意を固め、彩花の手を力強く握り返す。
「行こう、彩花。真実を掴みに行く時だ」
彩花は決意を込めて力強く頷き、二人の手は未来への誓いのようにしっかりと絡み合った。
三人は懐中電灯のわずかな光に照らされながら、地下室へと続く冷たい階段を下りる。階段の壁は湿気でひんやりとし、封印された秘密の匂いが鼻をつく。
重い地下室の扉を開けると、湿った空気と埃の匂いが一気に立ち込める。古びた机の上には、長い間、歴史の闇に封印された日記帳が置かれ、埃にまみれていた。
この一冊に、過去の記憶と、世界を変える可能性が詰まっている。 蓮は深呼吸し、歴史の重みを覚悟し、静かにその日記帳に手を伸ばした。
蓮の手は制御不能なほど小刻みに震え、その震えが日記帳の埃を被った分厚い背表紙にも伝わる。 息を詰め、運命に抗うようにゆっくりとページを開く。紙の乾いた、鋭い擦れる音が静寂を切り裂き、彼の胸の奥で何かが弾けるように響いた。
目を落とすと、時間の経過で深く黄ばんだ文字が、まるで蓮自身を試すかのように揺らめいて見えた。 最初のページには、少年時代の自分と隆二が無邪気に笑い合う姿が鮮烈に描かれていた。だが、次の行を読んだ瞬間、蓮の呼吸が完全に止まった。
日記の後半、これまでの蓮自身の記述とは明らかに異なる、整然と、それでいて狂気を孕んだ筆致のページが現れた。そこに記されていたのは、日記の書き手である裏切り者自身の、冷酷な告白だった。
「……桐谷博士、申し訳ない。しかし、これは全て『計画』のために必要な犠牲だ。この少年──蓮の力は、黒崎様の理想を具現化するために不可欠なのだ。私は、あえて彼をこの残酷な道へと選んだ。どうか、私を許さないでくれ……」
日記の文字は、まるで時を越えて真実を引き戻す冷酷な鏡のように、鮮やかに過去の現実を映し出す。蓮の魂に、裏切りの冷たい刃が深く突き刺さった。 この「桐谷博士」という人物に宛てた謝罪。それは、蓮が今まで知ることのなかった、自らの存在そのものを実験台として差し出した者たちの、歪んだ意思表明だった。
蓮は、震える指先でその文字をなぞる。 かつて自分を慈しんでくれたはずの大人たちが、裏では自分を「力」と呼び、実験の道具として選別していたという事実。自責の念という鎖の上に、さらに「裏切り」という名の重い枷がはめられたような感覚。視界が激しく揺れ、胃の底からせり上がる吐き気を必死に抑え込んだ。
「僕を選んだ……? 計画のために、隆二を、僕を……」
絶望に染まる蓮の横で、彩花もまた、その一文に刻まれた異様な重圧に言葉を失っていた。「桐谷」という蓮と同じ苗字を持つ博士への謝罪。そして、何より彼女の目を釘付けにしたのは、その告白の末尾に、血のように黒いインクで記された、見慣れぬ署名だった。
「蓮さん……見て。ここに、名前が……」
彩花の震える声に導かれ、蓮は日記の最下部に目を落とした。 そこには、一文字ずつが魂を削るように鋭く、それでいて老人のような枯れた趣を湛えた署名が鎮座していた。
『──すべてはゼロに帰す。 Dr.ZERO』
その名は、今の蓮には何の意味もなさなかった。しかし、その文字を目にした瞬間、彼の脳裏を原因不明の激痛が襲う。記憶の底、真っ白な実験室の片隅で、自分を冷徹に見下ろしていた「白い髪の影」が、一瞬だけ揺らめいた。
「ドクター……ゼロ……?」
その名が発せられた瞬間、灯台を叩く風の音が止んだ。静寂が支配する部屋の中で、悠斗だけが、その署名の主がもたらすであろう「地獄の続き」を予感し、拳を血が滲むほどに強く握りしめていた。




