20話【完全覚醒 ―― 暗号が示す廃墟リゾートの危険な座標】
謎の男から告げられた、残酷な言葉。――「桐谷蓮は、お前の父親を死に追いやった実行犯だ」。 受話器の向こうで響いた、父の死の夜と同じあの旋律が、今も彩花の耳の奥で毒のように脈打っている。朝の光が降り注ぐスイートルームは、その豪華さゆえにいっそう冷え冷えとした静寂に包まれていた。 彩花は、無意識に蓮から距離を取った自分の身体的拒絶に、自分自身が一番傷ついていた。信じたい。けれど、あの歌を知っている者がいるという事実は、あまりにも重い。
蓮は、その絶望的な沈黙を切り裂くように、絞り出すような声で言った。 「……信じてくれとは言えません。でも、僕は真実を知らなければならない。それが、僕を救ってくれた君への、最低限の義務だ」
――それから数時間が経過した。 張り詰めた空気の中、二人は逃げるようにホテルのバルコニーへと出た。潮風が疑念を洗い流してくれることを期待したが、現実はそれほど甘くない。 蓮は、彩花から手渡された一枚の古い写真を見つめていた。
幼い彩花と、優しげな笑みを浮かべた男性が写っている。蓮はその男を知らないはずなのに、写真に触れた指先から、胸が締めつけられるほどの懐かしさが込み上げてきた。
「この人は、私のお父さんよ」
彩花の言葉が、運命の引き金となった。 その瞬間、蓮の記憶の扉が激しく震え、奥底で眠っていた「真実」が咆哮を上げた。 温かい眼差し。自分を見つめる静かな問いかけ。そして――あの日、冷たい実験室で、苦痛の中で確かに自分の名を呼んだ声。
「……聡史さん」
掠れた言葉が漏れた途端、記憶が津波のように、制御不能な洪水となって押し寄せる。奥野聡史と交わした、ほんのわずかな、だが決定的な時間。彼がクロノスの狂気を止めようとしていたこと。そして、彼が死の直前に託した、娘の未来への最後の願い。
「蓮くん。どうか……私の娘、彩花を守ってやってください」
その願いを守れなかった、いや、あろうことか敵の手先として彼女の前に現れてしまった自分への、深すぎる悔恨。彩花を欺き続けていた自己嫌悪。 蓮は心臓を鋭い刃で握りつぶされるような痛みに耐えかね、膝から崩れ落ちそうになった。
しかし、その精神の闇を照らしたのは、いつもと変わらない、優しさに満ちた声だった。
「蓮。君は悪くない。利用されただけなんだよ。でも今、君は真実を知った。ここから償えばいい。僕が教えてあげた愛を信じて――一緒に未来を変えよう」
涼太の声だった。 その言葉は、蓮の胸にゆっくりと、しかし確かな永遠の灯をともした。たった一筋の光だったが、優斗という影が蒔いた闇を完全に押し返すには十分な熱量を持っていた。
やがて蓮の中で、散らばっていた記憶の欠片がひとつ、またひとつと、カチリと音を立てて繋がっていく。長い苦悩の果てに、ついに全てのピースが揃ったとき――蓮は、自分が何者であり、何を果たすべきなのかという、真の使命を知った。
「涼太……ありがとう。君がいたから、僕はここまで来られた。君は僕の一部だ。僕が受け継いだ愛として、これからも……ずっと」
涼太という人格は、満足げに、そしてどこか誇らしげに穏やかに微笑んだ。 その瞬間、蓮の周囲に白い光の粒が舞い上がり、それはまるで温かい雪のように蓮の胸の中へ静かに流れ込んだ。その笑顔は、役割を終えた者の別れと、愛する人を救うための献身的な昇華を告げる、究極の優しさだった。
「蓮。君は強い。きっとこの世界を救えるよ。……そして、彩花さんをよろしくね。彼女の笑顔を、今度は君の力で守ってあげて」
それは涼太が最後に残した、甘く切ない遺言のようだった。涼太が彩花へ捧げてきたすべての愛を、本物の器である「蓮」という男に託し、彼は静かに、その輪郭を消していく。
「蓮。胸を張って、前へ進んで」
声が薄れ、静かに溶けていく。 しかし蓮はもう、闇に怯えることはなかった。涼太という“愛の残響”は、確かに胸の奥で永遠に息づいている。 蓮は静かに目を上げた。父の遺志と涼太の愛、そのすべてを背負い、鋭い知性と温かい優しさが完璧に融合した「新しい存在」として、彼は力強く一歩を踏み出した。
***
彩花は、古びた便箋をテーブルの上にそっと広げた。 その動作は、謎に包まれた真実に触れる巫女の儀式のようで、静謐さと、運命に立ち向かう決意が同時に漂っていた。光に縁取られたその表情には、亡き父への深い愛情と、真実に手を伸ばそうとする揺るぎない意思が滲んでいる。
便箋は、長い年月と秘密を吸い込み続けてきた証のように、縁が茶色く焼け、指先で触れると今にも崩れそうなほど脆い。そこに並ぶ文字は、見慣れた父の筆跡でありながら、どこか別人が憑依したように歪み、まるで複雑な暗号めいた影を落としていた。
蓮は、彩花の手から便箋を受け取ると、壊れ物――すなわち、彼の失われた過去そのものに触れるように慎重に扱った。
「これは……もしかして、映画の台詞の一部では?」
その声は低く、しかし強い確信の色を帯びていた。彼の内側で、偽りの記憶の下敷きになっていた断片的な真実が、ゆっくりと水面に浮上した瞬間だった。
「映画の台詞……?」 彩花は予想外の事実に瞳を激しく揺らした。
「ええ。『夏の終わりに…』。あなたのお父様と、僕が――クロノス社の指示で、表向き『共演』していたはずの映画です」
彩花は困惑した。風見から「父と桐谷蓮は映画で共演していた」とは聞いていたが、何度観返しても父の姿はどこにもなかったのだ。
「でも、父は俳優なんかじゃ……彼は研究者です! 一体どういうことなの?」
やがて焦燥に突き動かされるように、彩花は実家へ向かった。 父の書斎は時間が止まったように静まり返り、埃をかぶった本棚と木箱が記憶の墓標のように並んでいた。一つひとつ丁寧に木箱を開けていく。そして――。
ふと指先に触れたのは、一冊の厚く、重い台本だった。表紙には埃が深く降り積もり、その下から浮かび上がった銀色の文字が、彩花の心臓を締め付けた。
『夏の終わりに…』
ページをめくると、出演者一覧に父の名前はなかった。しかし――プロデューサー欄に、確かに「奥野聡史」と刻まれていた。 父は、研究という表の顔の裏で、この「偽装された世界」を自ら作り上げていたのだ。
二人はホテルのライブラリーへと向かった。検索窓に「夏の終わりに…」と打ち込むと、古びた映画ポスターが表示される。
「……これだ」
蓮が一枚のポスターをクリックし、全台詞集を開いた。次の瞬間――彩花は便箋の暗号と、画面の台詞を同時に目撃した。
「これだわ……! お父様の残した歪んだ文字の配置と、台詞の一致が完璧よ!」
解読が進むにつれ、驚くべき真実が明らかになった。
「特殊メイクで、老教授という設定だったんだ。君のお父様は、この映画で……クロノスに気づかれないための『重要な役』を担っていた。そして、このシーンの台詞は――君に宛てた、父上の魂からのメッセージでもある」
蓮は映像を巻き戻し、再生ボタンを押した。 画面の中で、特殊メイクを施した老教授がゆっくりと語りはじめる。その声は、スクリーンを越え、時を越え、亡き父の魂そのものとなって彩花の胸に響いた。
『もし、君がすべてを忘れてしまっても……必ず迎えに行く。江の島の洞窟で、あの日のように。――君の友より』
その言葉が響いた瞬間、彩花の瞳から熱い涙が溢れ出した。父は自分を見捨ててなどいなかった。最期まで自分を独りぼっちにしないための、決死の想いをこの台詞に託していたのだ。
「……これが暗号の第一の鍵になるはずです」
蓮は一冊の古びた詩集を開き、あるページを彩花へ差し出した。蓮がパソコンを操作し、詩集の数字を解読した結果、地図上に一つのポイントが浮かび上がる。
「座標が指し示すのは……クロノス社が過去に極秘裏に運営していた、海岸沿いの廃墟リゾート施設です」
そこは「十数年前、謎の事故で閉鎖」されたという、忘却の地。
「次の手がかりは、この廃墟リゾートの中にある。君のお父様は、クロノスの最も隠したい秘密を、その廃墟の中に隠したんだ」
二人は顔を見合わせる。そこは、単なる手がかりの場所ではない。 巨大な危険と、父の真実、そして蓮の「実行犯」としての記憶の真実が眠る場所。二人の運命は、今、その禁断の地へと導かれようとしていた。
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