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18話【偽りの口づけ ―― スイートルームに響く残酷な警告】

「イル・マーレ」の店内。  窓際の席で立ち尽くす蓮は、そこに立つ二人の姿を認めた瞬間、肺の空気がすべて抜け出たかのように目を見開いた。彼の逃避行の終着点が、あまりにも残酷な運命の交差点へと変貌したのだ。


「彩花さん……? なぜ、ここに……。それに、風見先生まで」


 彩花は震える手で、父・奥野聡史から託された暗号解読の鍵となった便箋を差し出した。父の最期の執念が刻まれたその紙は、蓮にとって、今この瞬間に守り続けてきた「涼太」という仮面を無慈悲に引き裂くナイフだった。


「涼太さん、これは……父が命を懸けて託したものです。読んでいただきたいのです」


 蓮の指が、恐る恐る便箋を開く。その歪んだ文字が視界に入った瞬間、彼の視線が激しく揺れ、脳裏に制御不能な記憶の奔流がフラッシュバックした。  ――彩花と過ごした陽だまりのような日々。その日々を奪われた無力な絶望。そして、クロノス社の冷たく無機質な実験室の、鼻を突く消毒液の匂い。


 彼は顔を歪め、「涼太」としての穏やかな自分と、「蓮」としての悲劇的な過去が激しく衝突する痛みに耐えかね、両手で頭を抱えた。レストランの穏やかなざわめきの中で、蓮の苦悶の声だけが異質に響く。


「違う……僕は……僕は一体、誰なんだ……!」


 過去と現在が一致せず、自分自身が巨大な悪意によって精巧に作られた偽物イミテーションであるかのような感覚。心の奥底では、「妹を見捨てた罪」と「愛する彩花を欺いた罪」が、激しい自己嫌悪となって彼を苛んでいた。  彩花は胸を締めつけられながらも、震える手を伸ばし、蓮の肩にそっと触れた。


「大丈夫です、涼太さん。……どちらのあなたも、私には、かけがえのない大切な人だから」


 だが、蓮はその手を強く振り払い、静かに立ち上がった。彼の声はもはや涼太のそれではなく、感情を押し殺した鋼のような響きを帯びていた。


「……僕は桐谷蓮です。高杉涼太としての記憶は、すべて……妹を守るために、彼らが作り上げた偽装に過ぎない」


 しばしの沈黙の後、蓮は語り始めた。彼はもう、逃げも隠れもしない。


「妹の事件をきっかけに、巨大企業『クロノス・コーポレーション』の陰謀に巻き込まれました。涼太としての記憶は、彼らが僕を監視し、利用するためのプログラムだったのです。そして……」


 蓮は、彩花の手を強く握りしめた。


「あなたの父、奥野博士が、クロノス社の違法薬物実験の真実を僕に託した使命も……。彼はそれを公表しようとして、黒崎剛一郎に命を奪われた。彩花さん、僕はあなたを騙し続けてきた。僕の罪を清算するためにも、一緒に戦ってください。真実を、共に明らかにしましょう」


 彩花の瞳に浮かぶ涙は、欺かれた悲しみではなく、蓮の深い苦悩を理解した証だった。


「はい、蓮さん。私は、あなたのそばを離れません。父の無念と、あなたの悲劇的な愛に、報いたい」


 ***


 夜の帳が静かに港町を包み込む。彩花と蓮は「イル・マーレ」を後にし、風見の運転する車でホテルへと向かっていた。  車内を支配するのは、重苦しい沈黙だ。街の灯りが窓ガラスに流れるたび、彩花の胸の奥で、「愛」と「嘘」の境界線が崩壊する痛みが揺れる。  隣に座る蓮は、助手席で深く目を閉じていた。彼の脳裏には、あの日、クロノスに拉致され、冷酷な光の中で意識を失った瞬間が何度も明滅している。目覚めた時に与えられたのは、彩花を監視するための偽りの人生。しかし、その嘘の生活の中で、彼女に抱いた慈しみだけは、決してプログラムなどではなかった。


(どうして……自分を偽ってまで、私を愛そうとしたの?)


 ホテルに到着すると、風見は二人を最上階のスイートルームへ案内した。  そこは、あまりにも広大で、孤独な贅沢に満ちていた。シルクの重厚なカーテン、足首まで沈みそうなほど厚手の絨毯、そして暖炉の火が静かに爆ぜるリビングルーム。  窓の外には煌びやかな港の夜景が広がっているが、室内にいる二人が抱える絶望的な状況とは、あまりに残酷なコントラストを成していた。この豪華な空間が、まるで二人を世間から隔絶する黄金の檻のように感じられた。


「奥野様、桐谷様、ごゆっくりお休みください。明朝から追跡を開始します」


 風見が部屋を後にすると、重厚なドアが閉まる音が虚しく響いた。柔らかな暖色系の照明に包まれた異様に親密な空間。彩花と蓮は、向き合うこともできず、ソファと窓際にそれぞれ離れて立っていた。


 沈黙の中、彩花が小さな、消え入りそうな声で口を開いた。


「あの……」


「ん?」


「……本当の名前で、呼んでもいいですか?」


 彩花の声は震えていた。喉の奥が、熱い何かに焼かれるように痛む。これまで当たり前に呼んでいた「涼太さん」という響きを捨て、「蓮」という未知の名前を口にすることへの抵抗感と切なさが、激しく入り混じる。  蓮は深く息を吸い、ゆっくりと頷いた。


「ああ、もちろんだ。……蓮と、呼んでくれ」


「……れん、さん」


 初めて口にするその名は、驚くほど硬く、口の中に異物感を残した。しかし同時に、その響きが二人の間の「偽り」を一つ消し去ったような気がして、彩花の瞳から再び涙が溢れ出した。


「蓮さん……さっき話していたこと、本当に……すべて本当なんですか?」


 蓮は目を閉じ、数秒の間を置いた後、自らの罪を刻み込むように静かに語り始めた。


「全て本当だ。君に近づいたのは、君を監視し、利用するためだった。……でも、君と出会って、触れ合ってしまったことで、僕の心は君のために生まれ変わってしまった。偽りの中に、僕にとって唯一の真実が灯ったんだ。……君を、愛している」


 部屋には暖炉の爆ぜる音と二人の息遣いだけが残った。柔らかな光に包まれた異様に親密な、しかしどこか壊れそうなほど美しい空間。 蓮は、許しと愛を受け取った証として、彩花の唇に、深く、切ないキスをした。それは過去の偽りを焼き尽くし、二人だけの真実を刻印するような儀式だった。 暖炉の赤い火が二人の姿を運命の炎のように優しく包み込む。


 窓の外では、港の夜景が宝石を撒いたように輝いていたが、今の二人には、互いの鼓動の熱さだけがこの世界のすべてだった。 「何があっても、もう離さない……」 蓮の囁きは、静寂の中に溶けて消えた。夜のとばりが、罪深き恋人たちの安らかな眠りを守るかのように、深く、静かに降り積もっていった。

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