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17話【地獄への招待状 ―― 父の暗号が指し示した「海」の再会】

探偵事務所の静寂の中、彩花は張り詰めた面持ちで古びた封筒から一枚の便箋を取り出した。窓から差し込む冬の淡い光が、その紙の黄ばみを残酷なまでに際立たせる。彼女の指先は、父が遺した最後のメッセージの重みで、目に見えて微かに震えていた。


「父の遺留品を整理していたら……この使い込まれた革の財布が出てきたんです。その中に、この便箋が一枚だけ。でも、見てください。父の字なのに、まるで死の間際のような、激しい痛みに歪んだ筆跡で……何が書いてあるのか、私にはまったくわかりませんでした」


 私は無言でその便箋を受け取った。片眼鏡を直し、拡大鏡を手に取って、紙の表面に残されたインクの滲み、筆圧の強弱、そして文字の不自然な配置に意識を集中させる。私の瞳は、たちまち感情を排した探求者へと変貌し、表面的な乱雑さの奥に隠された規則性を、獲物を追うように見抜きにかかった。


(……間違いない。これはただの乱筆ではない。奥野博士、あなたはこれを誰に託そうとしたのか)


 私は、ふっと口元に確信的な笑みを浮かべた。その笑みには、長年の捜査で培われた経験と、解読への冷徹な確信が宿っていた。


「奥野様。これは特定のパターンで文字が圧縮されています。ある詩の一節を引用した、極めて巧妙な暗号です。時間をかけて解読すれば、お父上が命を賭してあなたに伝えようとした真意が見えてくるでしょう」


 私は背後の書棚から、黒ずんだ革表紙の、一冊の詩集を迷いなく取り出した。フランスの詩人、シャルル・ボードレールが都市の悪徳と悲哀を描いた『悪の華』。退廃と真実が混在するその詩集は、裏切りと絶望の底にある真実を探るこの物語に、重苦しい影を落とす装置として、以前からそこに存在していた。


 ページをめくる指が止まった瞬間、私の脳裏には、数年前に目撃した「地獄」の光景が、焼いた鉄を押し当てられたかのように鮮明に蘇った。


 白衣をまとった彩花の父、奥野博士が、激しい苦悶の表情で実験台に横たわっている姿。脂汗が額を伝い、恐怖に歪んだ顔には、真実を守ろうとした人間の命の重みが刻まれていた。そしてその傍らで、冷酷な笑みを浮かべる『クロノス』の絶対的支配者、黒崎剛一郎。獲物を狙う獣の目と、歪んだ口元の笑みは、私自身への無言の脅迫として、今日まで私の心を支配し続けてきた。


(あの時、私は内部告発者の田中誠一を死なせた。組織の腐敗を止められず、警察というシステムの無力さに絶望した……。だが、今は違う)


 私は警察を辞め、ハッキングから裏の交渉まで、闇の中で戦う術を身につけてきた。ボードレールの詩句と暗号を照らし合わせながら、私は心の中で、かつての友であり、今は亡き博士に誓う。


(奥野先生、私は必ず、あなたの無念を晴らします。あなたの娘、彩花さんと共に……今度こそ、真実を光の下へ引きずり出してみせる)


 私の胸には、長年の自責の念が形を変えた「執念の炎」が、静かに、だが激しく灯っていた。


 ***


 徹夜の作業の末、私は『悪の華』の詩句から一つの「特定の座標」を導き出した。それは現在の地図からは抹消された、湘南の臨海地区に佇む古い研究所の跡地だった。


「この場所は……」  座標を見た彩花が息を呑んだ。「私が、まだ涼太さんと出会う前に、父と行ったことがある廃墟です」


 その言葉は、運命が環を閉じたことを意味していた。そこは、桐谷蓮が記憶を失い、脅迫者たちによって檻のような生活を強いられていた、監禁の地でもあった。


 数時間後。私たちは冷たい潮風が吹き抜ける、その崩れかけたコンクリートの塊の前にいた。  廃墟の内部は、外の明るさが嘘のように暗く、湿ったカビと腐った鉄の匂いが充満している。彩花が踏み出すたびに、床に散らばったガラス片が耳障りな音を立てて砕けた。


「冷たい……。ここ、すごく冷たいです、風見先生」


 彩花が腕をさすりながら呟く。それは単なる気温の低さではなかった。かつてここで蓮が味わったであろう、底知れない孤独と恐怖の「温度」だった。  暗い小部屋の隅に、私たちは蓮が逃走時に使った生々しい痕跡を発見した。壁に残された爪を立てたようなひび割れ、床にこびり付いた黒ずんだ血痕、そして荒々しく引き剥がされた配線。


 彩花はその場に膝をつき、震える指先でその血痕に触れようとして、止めた。 (ここで……涼太さんは、一人で戦っていたの? 誰にも助けを求められず、自分の名前さえ奪われて……)  蓮の命懸けの抵抗と、自由への剥き出しの渇望。それが、冷え切ったコンクリートの壁を通して、彩花の肌に直接伝わってくるようだった。彼女の瞳から、一筋の涙が廃墟の埃の中に落ちる。


 そして、隠された配電盤の裏。私はそこに、蓮が最期の希望として残したメッセージを見つけた。  ――「Il Mareイル・マーレ」。  海を意味するイタリア語と、それに続くわずかな住所。


「涼太さんは、追跡者に捕まる前に、もう一度だけ……幸せだった記憶の場所へ向かったのかもしれません」  彩花の声が、暗闇の中で消え入りそうに震えていた。この誘導こそが、父の命懸けの暗号と、蓮自身の愛と逃走の希望が交差した、唯一の終着点だった。


 ***


 数日後。私たちはその場所――海沿いに佇む「イル・マーレ」という名のレストランを訪れた。  潮の香りが鼻腔をくすぐるたびに、彩花の脳裏には、楽しげだった涼太との思い出がフラッシュバックする。しかし、今の孤独の深さが、それらの記憶を残酷なほど鮮明なコントラストで塗りつぶしていく。


 波が砂浜に打ち寄せる音が、まるで誰かの嗚咽のように聞こえた。  彩花は入り口で足を止めた。胸が締め付けられ、心臓の鼓動が耳の奥で早鐘のように鳴り響く。膝が笑い、一歩を踏み出すことさえ困難なほどの重圧が彼女を襲う。


 レストランの大きな窓際。逆光の中に、そのシルエットはあった。  座っているのは、桐谷蓮。  彩花が愛した涼太に瓜二つの顔立ち。だが、そこから放たれる空気は、かつての柔らかな優しさではなかった。深く渦巻く孤独と、背後に迫るクロノスの影に怯えるような、苦悩の炎が彼の瞳の奥で揺らめいている。


「あ……っ……」  彩花の唇から、声にならない吐息が漏れた。愛した人、裏切られた人、そして今、何としても救い出したいと願う人。そのすべてが、たった数メートルの先に存在している。  世界から音が消えた。カトラリーの触れ合う音も、風の音も聞こえない。ただ、自分の激しい心音と、目の前の男の静かな呼吸だけが共鳴しているような、錯覚。


(涼太さん……あなたは今、記憶を失ったまま、一体誰として……そこに座っているの?)


 その問いに、答えはない。ただ、窓の外から差し込む夕日に照らされた蓮の姿が、何よりも雄弁に、この残酷な真実の重みを物語っていた。


「奥野様、落ち着いてください。彼は逃げたのではありません。……ここで、あなたを待っていたのです。行きましょう」


 私の静かで冷徹な声が、凍りついた彼女の背中を、慈悲深く押し流す。  彩花は深く、一度だけ呼吸をし、震える足で最初の一歩を踏み出した。


 床の木目の冷たさ、天井の淡い照明、遠くで響く食器の音。すべてが運命の再会という、張り詰めた舞台の装置のように感じられた。  私と彩花は、ゆっくりと、だが確実な意志を持って、その男の背後へと近づいていった。

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