⑯記憶のトリガー~蘇る過去
「お父様から…?」
彩花の声は、かすかな驚きと、微かな期待を帯びていた。
蓮は、ゆっくりと頷き、その視線をネックレスへと落とした。
朝日が小さなダイヤモンドに反射し、その輝きはまるで、過去から現在へと繋がる一条の光のようだった。
「はい。私がまだ桐谷蓮として生きていた頃、あなたのお父様から、あなたへのプレゼントとして託されたものです」
彼の声は、遠い記憶を辿るように、どこか遠くを見つめていた。
「しかし、私は記憶を操作され、そのことを忘れてしまっていたのです」
言葉が途切れるたびに、蓮の瞳には苦痛の色が浮かんだ。
「このネックレスには、あなたの記憶を取り戻すための仕掛けが施されている。
あなたのお父様は、私が記憶を失う可能性を予測し、このネックレスに私の記憶を呼び覚ますためのトリガーを組み込んでいたのです」
蓮は、過去を振り返るように、ゆっくりと語り始めた。
それは、彼にとって封印されていた暗闇の扉を開くような、辛い作業だった。
「あなたのお父様は、私がクロノスに拉致される直前に、私にこのネックレスを託しました。
そして、『いつか彩花に渡してほしい』と頼まれたのです。
しかし、私は記憶を操作され、その約束を果たすことができませんでした」
蓮の声は、深く沈み、後悔と自責の念が滲んでいた。
彼の瞳には、過去の過ちが焼き付いているようだった。
彩花は、彼の言葉の一つ一つを胸に刻みながら、静かに耳を傾けた。
父が、自分を想ってくれていたこと。
そして、蓮が、その想いを大切に守ってくれていたこと。
その事実に、彩花の胸は熱いもので満たされた。
「蓮さん…」
彼女は、溢れ出る涙を止められなかった。
それは、悲しみ、喜び、そして感謝が織りなす、複雑な感情の結晶だった。
蓮は、彩花の頬に手を添え、その涙を優しく拭った。
彼の瞳には、偽りの記憶が生み出したものではない、本物の愛情が溢れていた。
「彩花さん、あなたを愛しています。このネックレスは、私の心からの愛の証です」
蓮は、ネックレスを彩花の首元に優しくかけた。
それは、まるで失われた時間を繋ぎとめるかのように、ゆっくりとした、しかし確かな動作だった。
朝日が二人の姿を照らし出し、ダイヤモンドが七色に輝いた。
その瞬間、彩花の脳裏に、見たこともない光景がフラッシュバックした。
…実験室、白衣の研究者たち、そして、苦痛に歪む自分の顔。
それは、あまりにも鮮烈で、あまりにも残酷な記憶だった。
「これは…私の記憶?」
彩花は、驚きと恐怖で声を震わせた。
蓮は、静かに頷いた。
「ネックレスが、君の記憶を呼び覚ましたんだ」
彩花は、再びネックレスに手を触れた。
それは、過去と現在、そして未来を繋ぐ、運命の糸が再び結ばれた瞬間だった。
二人は、固く抱きしめ合った。
海辺のバルコニーは、二人の新たな始まりの場所となった。
そして、それは、巨大な闇に立ち向かう、壮大な戦いの幕開けでもあった。
「でも、どうして涼太さんから蓮さんに戻れたんですか?」
彩花の問いかけに、蓮は一瞬、遠い記憶の海に溺れるように目を伏せた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、彩花の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、偽りの記憶が生み出した「涼太」の柔らかさではなく、桐谷蓮としての、強い意志と揺るぎない決意が宿っていた。
「それは…君のおかげだ」
蓮の声は、深く、優しく、そして、どこか切なげに響いた。
「君と過ごした時間、君が見せてくれた笑顔、君の温かい言葉。
それらが、僕の中に眠っていた本当の記憶を呼び覚ましてくれたんだ」
彼は彩花の手をそっと包み込み、その温かさを確かめるように握りしめた。
二人の間には、言葉を超えた感情が、静かに、しかし確かに流れていた。
彩花の心は、蓮の言葉で満たされ、温かいものが胸の奥から込み上げてくるのを感じた。
そして、蓮は語り始めた。
それは、暗闇の中を手探りで進むような、苦しく、そして孤独な道のりだった。
時折、彼の内側から聞こえてくるもう一つの声。
それは、まるで自分自身でありながら、全く別の誰かの声のようだった。
それは、涼太と名乗る、穏やかで優しい声だった。
「蓮、君は一人じゃない。僕がいる」
涼太の声は、蓮の心の奥底に響き、彼を励ました。
蓮は、最初は涼太の存在を拒絶しようとした。
彼は、涼太がクロノスによって作り出された偽りの人格であることを知っていたからだ。
しかし、涼太の声は、蓮の孤独な心を優しく包み込んだ。
彼は、蓮の苦しみを理解し、彼の痛みを分かち合った。
そして、蓮が真実を知ることを恐れていることも、彼は知っていた。
「蓮、怖がることはない。真実を知ることが、君を自由にするんだ」
涼太の声は、蓮に勇気を与えた。
彼は、涼太との対話を通じて、少しずつ自分の過去と向き合い始めた。
それは、まるで深い霧の中を歩くように、一歩一歩が重く、視界が遮られているようだった。
蓮は、自分が実験台の上でどれほどの苦痛を味わったのか、そして、どれほど多くの人々を傷つけてきたのかを知り、深い絶望に襲われた。
それは、あまりにも残酷で、受け入れがたい真実だった。
ある日、蓮は彩花から渡された一枚の写真を見つめていた。
それは、幼い頃の彩花と、見知らぬ男性が笑顔で写っている写真だった。
男性の顔は、蓮には見覚えがなかったが、なぜか懐かしさを感じた。
「この人は、私のお父さんよ」
彩花の言葉が、蓮の記憶の扉をノックした。
写真の男性の優しい笑顔、そして、彩花を見つめる温かい眼差し。
それは、蓮の中に眠っていた、奥野聡史との記憶を呼び覚ますトリガーとなった。
「聡史さん…」
蓮は、かすれた声で呟いた。
彼の脳裏に、奥野聡史との記憶がフラッシュバックする。
実験室での会話、共に過ごした時間、そして、聡史が彼に託した最後の言葉。
「蓮くん、どうか、私の娘を守ってやってください」
蓮は、博士の願いを叶えられなかったことへの後悔と、彩花を騙していたことへの罪悪感に押しつぶされそうになった。
それは、彼にとって、耐え難いほどの重荷だった。
しかし、涼太は、決して蓮を見捨てなかった。
彼は、蓮の罪悪感を優しく受け止め、彼を励まし続けた。
「蓮、君は悪くない。君は、ただ利用されただけなんだ。
そして、君は今、真実を知り、償うチャンスを手にした。
だから、諦めないで。一緒に、未来を切り開こう」
涼太の言葉は、蓮の心に深く響いた。
それは、暗闇の中に差し込む一筋の光のように、彼の心を温かく照らした。
彼は、涼太の存在に支えられながら、少しずつ過去を受け入れ、未来へと進んでいく決意を固めた。
そして、ついに、蓮は全ての記憶を取り戻した。
それは、まるでパズルのピースが一つずつはまり、ついに全体像が浮かび上がるような、感動的な瞬間だった。
彼は、自分が何者なのか、そして、何をすべきなのかを理解した。
蓮は、涼太に感謝の気持ちを伝えた。
「涼太、ありがとう。君がいてくれたから、僕はここまで来ることができた。
君は、僕の一部であり、これからもずっと、僕の中に生き続けるだろう」
涼太は、優しく微笑んだ。
「蓮、君は強い。君は、きっとこの世界を救うことができる。
だから、自信を持って、前へ進んでください」
そして、涼太の声は、蓮の心の中から消えていった。
蓮は、もう孤独ではなかった。
彼は、涼太というもう一人の自分と共に、未来に向かって力強く歩み出すのだった。
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