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15話【警告の正体 ―― 真実を告げる澪の慟哭】

 ――これは、私(風見)が奥野彩花と共に彼女の自宅を訪れる数日前の出来事である。  プロの探偵として、私は彼女の安全を担保するために、あらかじめ単独でターゲットの肉親へと接触し、その本質を見極める必要があった。これは、依頼人である彩花さんのあずかり知らぬ場所で遂行された、私と桐谷澪による「空白の数時間」の記録だ。


 湘南の潮風が、冬の気配を帯びて冷たく頬を撫でる。  陽光がキラキラと残酷なまでに降り注ぐ海辺のカフェの片隅で、桐谷澪は微動だにせず、窓の外に広がる蒼い世界を見つめていた。  きらめく水面に浮かぶ白いヨット、その背景に霞んで見える江ノ島のシルエット。かつて兄・蓮と、彼が騙した女性・彩花が共に歩いたとされるその穏やかな景色は、今、澪の心にある嵐のように揺れる罪悪感を鋭く際立たせていた。


(お兄ちゃんを、私が守らなきゃいけない……絶対に)


 澪は、膝の上で握りしめた拳に、白くなるほど力を込める。  蓮のあの、消え入りそうなほど優しい笑顔。家族の前だけで見せていたあの無防備な素顔を、これ以上闇の組織の汚泥で曇らせたくはなかった。その一途な想いが、彼女の細い胸を内側からギリギリと締めつける。


 彩花に対して、真実を語るべきか否か。それは彼女にとって、針のむしろに座るような苦渋の決断だった。  もしすべてを打ち明けてしまえば、蓮を凶悪な組織から守るための「立花翔」という仮面を、自らの手で剥ぎ取ることになってしまう。それは兄を死へ追いやることと同義かもしれない。しかし、何も知らずに、偽りの愛を真実だと信じて蓮を追い続ける彩花を、これ以上組織の銃口の前に晒し続けることもできなかった。愛する兄を守るための沈黙か、無辜の女性を守るための告白か。そのあまりにも重すぎる天秤が、澪の心を絶望の淵へと追い詰めていた。


「お兄ちゃん、どうか……勝手なことをする私を許して」


 誰にも聞こえないほどの小声で呟き、彼女は溢れそうになる涙を指先で拭った。脳裏には、必死の形相で兄を捜し歩く彩花の姿が浮かぶ。兄を思う女性へのわずかな嫉妬、彼女の人生を狂わせてしまったことへの激しい自責、そして真実を語らねばならないという義務感。それらが汚濁のように混ざり合い、澪の思考を真っ黒な闇に塗りつぶしていた。


 その時、カラン、とカフェのドアが開く乾いた音が響いた。反射的に顔を上げると、逆光の中に、兄によく似た、すらりとした長身の影が浮かび上がった。


「蓮……っ!?」


 思わず名前を呼びかけ、椅子から立ち上がりそうになる。だが、近づいてきたのは、兄とは似て非なる冷徹な威圧感を纏った男だった。落胆が澪の顔を覆う。黒いジャケットを着こなしたその男――私は、澪の視線を正面から受け止め、静かに、だが重みのある声で語りかけた。


「桐谷澪さんですね。……驚かせて申し訳ない。私は風見龍之介。探偵をしております。現在は、奥野彩花さんの正式な依頼を受け、動いています」


 彩花、という名を聞いた瞬間、澪は息を呑み、椅子に深く沈み込んだ。


「彩花さんが……私を、探して……?」


「彼女は、涼太さんの失われた真実を知りたいと願っています。そして、彼が背負う危険から、彼を救いたいと願っている。その想いに偽りはありません」


 私の言葉を聞き、澪は激しく動揺した。その場にいない彩花の覚悟を伝え聞き、彼女は直感したのだ。その女性こそが、蓮の孤独を救いうる唯一の存在なのかもしれない――と。


「……わかった。全部、お話しします。お兄ちゃんが、どうしてあんな地獄を選んだのか」


 私は内ポケットからプロ仕様の小型レコーダーを取り出し、テーブルの中央に置いた。無機質な機器が放つ鈍い輝きが、場の空気を緊張感で満たす。澪は喉を鳴らしたが、すぐに決意の表情で頷いた。


「……ただ、一つだけ約束してください。彩花さんには、お兄ちゃんを……蓮を、決して責めないでほしい。彼は、私を守るという、たった一つの悲劇的な愛のために、あんな地獄に身を投じたんですから」


 私は黙って頷いた。澪は震える指で冷めかけたティーカップを置き、兄・蓮の過去、彼が背負ってきた逃れられない罪――そのすべてを、独白し始めた。それは同時に、彼女自身が数週間前に犯した「ある過ち」への、消えない罪の意識の告白でもあった。


 ***


 その記憶の断片は、海が血のような茜色に染まる、江ノ島の夕景から始まる。


 澪は自宅の窓辺で、スマホを粉々に砕くような勢いで握りしめていた。数時間前、彼女の元に届いた一本の電話。非通知設定のその男の声は、感情を一切排除した、機械的で淡々とした響きだった。


(この声……どこかで聞いたことがある……絶対に、忘れられない声だ……)


 かつて父を追い詰め、桐谷家を崩壊の淵へ追いやった、あの底冷えするような不気味な組織の気配。正体も目的も知れぬまま、ただ闇の底から響いてくるような不気味なトーンが、澪の背筋を凍らせた。


『桐谷蓮は、今、江ノ島にいる。一緒にいる女性は、奥野彩花だ。……どう動くかは、お前次第だ』


 その言葉は、澪にとって究極の脅迫だった。もし彩花が蓮の正体に不用意に触れてしまえば、背後の闇が即座に二人を消し去るかもしれない。蓮の命が、すぐそこにある。


「お兄ちゃんを守らなきゃ……私が、今すぐに!」


 澪は半狂乱で江ノ島へと向かった。夕日に染まる砂浜、観光客の喧騒の中で、彼女は見覚えのある背中を見つけた。蓮と彩花。二人はまるで本物の恋人同士のように、穏やかに並んで歩いていた。そのあまりにも残酷で美しい光景は、澪にとって、兄が完全に引き返せない深淵に沈んだことを示す証明のように映った。


「お兄ちゃん!」


 叫ぼうとした瞬間、二人は無言でタクシーに乗り込み、彼女の前から消えた。再び非通知の男から電話がかかる。男はためらいなく彩花の連絡先を伝えてきた。それは明らかに、澪を兄の人生に強制介入させるための、何者かによる仕組まれた罠のように感じられた。だが、澪には抗う術などなかった。


 澪は震える手で、教えられた彩花の番号を押し、通話ボタンを叩いた。スマホ越しに聞こえる、彩花の戸惑ったような声。澪は、自分でも驚くほどの冷徹な、そして悲痛な声を絞り出した。


「警告しましたよ。いますぐ彼から離れなさい!」


 ――そう、これこそが、かつて彩花のスマホを鳴らし、彼女を震え上がらせた「謎の女」からの警告電話の正体だったのだ。


「まだわからないの? 涼太は、あなたを騙している。彼は、あなたを危険に巻き込んでいる。これ以上、彼の過去を暴かないで! お願いだから……」


 それは脅迫ではなく、魂の叫びだった。偽りの優しさで彩花を遠ざけること。それこそが、兄・蓮に残された最後の防衛線だと、澪は信じていたのだ。


 電話を切った澪の視界は、涙で茜色に歪んでいた。江ノ島の海は、すべてを飲み込むように暗く、冷たく、ただ凪いでいた。


 ***


 カチッ、という小さな電子音が、静まり返ったカフェのテーブルに響いた。  風見がレコーダーの停止ボタンを押した音だった。その乾いた音が、澪を数週間前の江ノ島の記憶から、目の前の現実へと引き戻した。


 すべてを語り終えた澪は、魂が抜けたように深く息を吐き、そのまま机に伏せた。海辺の光は、何事もなかったかのようにキラキラと輝き続けている。だが、彼女の心の中の嵐は、真実を放出したことで、より複雑で深い痛みを伴って静まり返っていた。


 私は風見として、その告白の重さを噛みしめるように、深く頷いた。


「桐谷澪さん、お話しいただきありがとうございます。これで、奥野さんは、涼太さんの偽りと真実のすべてを知ることができるでしょう。そして、彼を救うための扉が開かれた」


 澪はゆっくりと顔を上げ、遠くに進むヨットの白い帆を目で追った。真実を解き放った代償として、彼女の心には新たな不安が広がっていた。


(彩花さん。あなたは、この真実を背負って、なお……お兄ちゃんを愛せますか……?)


 澪の祈るような視線は、いつまでも水平線の彼方へと向けられていた。

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