⑮父の遺志とネックレスの輝き
翌朝、彩花は柔らかな日差しで目を覚ました。
窓辺に立つ蓮のシルエットが、朝の光に浮かび上がっている。
彼の横顔は、まるで彫像のように美しく、それでいてどこか哀愁を漂わせていた。
「蓮さん、おはよう」
彩花の声に、蓮はゆっくりと振り返った。
その瞳には、偽りの仮面を脱ぎ捨てた、本物の優しさが宿っていた。
「おはよう、彩花さん。よく眠れましたか?」
「ええ。でも、あなたは…」
彩花は、蓮の顔に刻まれた深い隈を心配そうに指先でなぞった。
「大丈夫です。少し眠れなかっただけです」
蓮は、彩花の手に自分の手を重ね、その温かさに安堵したように微笑んだ。
しかし、その笑顔の裏には、拭いきれない苦悩が隠されていた。
偽りの記憶の中で育まれた愛は、本物なのか?
自分は、彩花を本当に幸せにすることができるのか?
「…彩花さん、これからどうしましょうか?」
彩花は、少しの間、考えを巡らせた。
父の遺した手紙、クロノス・コーポレーションの陰謀、そして蓮の過去。
解き明かすべき謎は山積みだった。
「まずは、父が遺した手紙の謎を解き明かしたい。そして、クロノス・コーポレーションの陰謀を暴きたい」
「僕も、同じ気持ちです。しかし、時間がありません。ネメシスの海外での発売が迫っています。一刻も早く、クロノスの計画を阻止しなければ」
蓮は、力強く頷いた。
彼の瞳には、かつての冷徹な影はなく、彩花への深い愛情と、使命感が燃え上がっていた。
二人は、互いの手を握りしめ、静かに誓いを立てた。
「必ず、この謎を解き明かして、あなたの父親の無念を晴らします」
「そして、あなたと、一緒に未来を築きたい」
蓮の言葉に、彩花の心は震えた。彼の温かい眼差しに、未来への希望を見出した。
その時、彩花のスマートフォンが甲高い着信音を響かせた。
見慣れない番号に、彩花は一瞬戸惑ったが、電話に出た。
「もしもし」
「彩花さんですか?」
低い男の声が、受話器の向こうから響いた。
どこか聞き覚えのある声色に、彩花は思わず眉をひそめた。
まるで、以前にどこかで聞いたことがあるような、不気味な沈黙が電話口から流れてくる。
彩花の心臓は嫌な予感で高鳴り始めた。
「彼は、クロノス・コーポレーションのスパイです。
あなたを利用して、何かを企んでいる。
彼を信じてはいけません」
警告の言葉は、彩花の脳裏に深く刻み込まれた。
一体、この男は誰なのか?
なぜ、涼太のことを知っているのか?
そして、なぜ自分を心配してくれるのか?
「あなたは、一体誰ですか?」
彩花は、震える声で尋ねた。
しかし、男は何も答えず、電話は一方的に切れてしまった。
彩花は、スマートフォンを握りしめ、呆然と立ち尽くした。
蓮は、彩花の顔色を見て、何かあったのだと察した。
「彩花さん、どうしたんですか?」
彩花は、蓮に電話の内容を伝えた。
蓮は、眉間に皺を寄せ、深く考え込んだ。
「クロノス・コーポレーションのスパイ…」
彼は、呟くように繰り返した。
その言葉は、彼自身の過去を呼び覚ます呪文のようだった。
…白い実験室、白衣の男たち、そして、激痛とともに記憶が断片的に消えていく感覚。
蓮は、涼太として生きることを強いられる中で、これらの記憶を必死に抑え込んできた。
しかし、今、再びその記憶が蘇り、彼を苛んでいた。
薄暗い部屋、冷たい金属製のベッド、そして、白衣を着た男たちの不気味な笑顔。
叫び声と悲鳴が、彼の耳の中でこだまする。
彼は、実験台の上で、何度も何度も、肉体と精神を破壊され、再構築された。
薬物を投与され、意識が朦朧とする中で、電極が彼の頭に装着され、鋭い痛みが脳を貫いた。
人格を破壊し、新たな記憶を植え付けるための残酷な実験だった。
蓮は、耐え難い記憶の洪水に襲われながらも、必死に耐えた。
そして、彩花へと語りかけた。
「クロノスは、新薬の開発を隠れ蓑に、この記憶操作技術を完成させ、世界を支配しようと企んでいます。
彼らが開発しているのは、『ネメシス』と呼ばれる新薬で、人間の感情や記憶を自由に操作できるという恐ろしいものです。
もしこの薬が世に出れば、人々はクロノスの意のままに操られ、自由意志を失ってしまうでしょう。
僕たちは、一刻も早く、彼らの野望を阻止しなければなりません」
蓮の言葉は、彩花を震撼させた。
愛する人が、そのような非人道的な実験の犠牲者だったとは。
彩花の心は、蓮の告白によって大きく揺れ動いていた。
愛する涼太は、もうこの世にはいない。
彼の記憶は、全てクロノスによって捏造されたものだった。
それでも、彩花は蓮の中に、涼太の面影を感じていた。
彼の優しい眼差し、温かい手、そして、自分に向けられる深い愛情。
それは、偽りの記憶から生まれたものであっても、確かに彩花の中に存在していた。
「でも、私は、あのネックレスに触れた瞬間、何かが繋がった気がしたの。
まるで、深い霧が晴れていくように、ぼんやりとしていた記憶が鮮明になっていく…。
そして、ついに、あなたの本当の名前や、私とあなたの間に隠された真実を知ることになった」
蓮は、彩花の首元に視線を落とした。
そこには、何もない。
「ネックレス…」
彩花は、ハッとしたように自分の首元を探った。
しかし、そこにネックレスはなかった。
あの日、涼太への怒りと失望から、彼に投げつけてしまったのだ。
蓮は、彩花の表情から全てを察した。
彼はゆっくりと立ち上がり、「彩花さん、少しバルコニーに出て朝日を見ませんか?」と優しく声をかけた。
彩花は、蓮の誘いに頷き、共にバルコニーへと出た。
夜明け前の空は、深い藍色から徐々に茜色へと変わりつつあった。
水平線から昇り始めた太陽が、海面を黄金色に染め上げ、新たな一日の始まりを告げている。
蓮は、ネックレスを彩花に差し出した。
「彩花さん、このネックレスは…」
彼は、言葉に詰まった。
彼は、このネックレスにまつわる真実を、今、彩花に伝えるべきか迷っていた。
父を亡くした悲しみ、クロノスの陰謀、そして、涼太だと思っていた蓮の裏切り。
彩花は、あまりにも多くの真実を一度に突きつけられ、心がついていけなかった。
それでも、蓮の真っ直ぐな瞳を見つめていると、彼を信じたいという気持ちが湧き上がってくる。
「…涼太さんからもらったものです」
彩花は、目を伏せながら呟いた。
「いいえ、彩花さん。このネックレスは、僕が…君のお父様から預かったものです」
蓮の言葉に、彩花は顔を上げた。
彼女の瞳には、驚きと戸惑いが入り混じっていた。
蓮は、ネックレスを彩花の手にそっと乗せた。
小さなシルバーのペンダントトップには、一粒のダイヤモンドが輝いている。
それは、まるで父の愛のように、温かく、そして力強い光を放っていた。
彩花は、ネックレスを手に取り、まじまじと見つめた。
「これは、彩花さんのお父様である聡史さんが、君に託してくれたものです。
そして、いつかこのネックレスが彩花さんを救ってくれると信じていたのでしょう」
彩花は、ネックレスを握りしめ、涙をこらえきれずに溢れさせた。
「お父さん…」
彼女の心は、父の深い愛情で満たされた。
そして、その愛は、彼女に勇気と希望を与えてくれた。
蓮は、彩花の涙を優しく拭いながら、そっと彼女を抱き寄せた。
偽りの記憶の中で生まれた感情とはいえ、彼の中に芽生えた彩花への想いは、本物だった。
彼は、彩花を守りたい、彼女と共にクロノスの闇に立ち向かいたいと強く願った。
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