⑬記憶操作された男と復讐の誓い
彩花は、澪の過去を知り、その心がどれほどの苦しみに押しつぶされてきたかを理解した。
そして、蓮が澪を守るために、どれだけの犠牲を払ってきたかを知り、胸を締めつけられる思いがした。
彩花は、その傷ついた心に寄り添い、澪を支えたいと強く感じた。
澪は、蓮を守るために、彩花に嘘をつき、彼女を遠ざけようと決心していた。
自分自身の幸せを犠牲にする覚悟を秘め、蓮が再び傷つくことを恐れ、彼を守るためなら全てを捧げるつもりでいた。
彩花は涙を拭いながら、澪に深く頭を下げた。
「澪さん、つらい過去を話してくださって、ありがとうございます。
涼太さん…蓮さんは、本当に優しい方なんですね」
澪は、彩花の言葉に、ほんの少し微笑んだ。
「うん、お兄ちゃんは誰よりも優しいんよね。
でも、その優しさのせいで、ずっと苦しんできたんよ。
お願いや、彩花さん。お兄ちゃんを、助けてあげて」
彩花は、力強く頷いた。
「はい、必ず涼太さんを見つけ出して、彼を救います」
それを見守っていた風見も、二人の強い絆に安堵の表情を浮かべ、静かに立ち上がった。
「では、失礼いたします。
桐谷様、何かございましたら、いつでもご連絡ください」と告げ、部屋を後にした。
彩花も澪に別れを告げ、風見の後を追った。
二人は静かな住宅街を歩きながら、今日の出来事を振り返っていた。
「澪さん、本当に辛い過去を抱えていたんですね…」
彩花は涙をこらえきれず、声を震わせた。
風見は、彩花の悲しみを察し、そっとハンカチを差し出した。
「奥野様、涼太様は、あなたを心から愛しておられます。
彼のすべての行動は、あなたを守るためのものでした。
どうか、彼を許して差し上げてください」
彩花の目から、再び涙が溢れ出した。
彼女は、風見の言葉に、涼太への愛と許しの気持ちを深めた。
「はい…必ず、涼太さんを見つけ出し、彼に本当の気持ちを伝えます」
彩花は、決意を込めて前を向いた。
彼女の瞳には、涼太への深い愛情と彼を救いたいという強い意志が宿っていた。
二人は、夕日に照らされた湘南の海を眺めながら、静かに歩みを進めた。
彼らの前には、まだ多くの困難が待ち受けているだろう。
しかし、二人は、涼太の真実を胸に、共に未来へと進んでいくことを誓い合った。
後日、彩花は探偵事務所の重厚な扉をゆっくりと押し開けた。
窓際の席に、黒髪に白髪が混じり始めた中年の探偵、風見龍之介が静かに腰掛けていた。
机の上には、無数の古書と異国情緒あふれる置物が所狭しと並び、その中でひときわ目を引くのは古びた写真立てだった。
そこに映るのは、若き日の風見と白衣の男性が肩を組み、互いに笑みを交わしている姿。
風見は一瞬、写真に目を落としたが、彩花に気づかれぬようさりげなく写真立てを伏せた。
あの男性はかつての親友であり、共に事件を解決してきた研究者だった。
しかし、ある事件をきっかけに二人は道を分かつことになった。
彩花の依頼は、風見にとって過去の自分と向き合う機会でもあった。
片眼鏡越しに彩花を見つめた風見が、静かに口を開いた。
「奥野様、お越しいただきありがとうございます」
穏やかな笑みを浮かべ、彼は彩花を促して席に座らせた。
彩花は震える手で古びた封筒から一枚の便箋を取り出し、語り始めた。
「父の遺留品を整理していたら、使い込まれた革の財布が出てきたんです。
その中に一枚の便箋が…でも、父の字なのに、まるで別人のように歪んでいて、何が書いてあるのかさっぱりわからなくて」
風見は便箋を受け取り、拡大鏡を取り出すと、インクの種類や筆圧、文字の配置に目を凝らした。
そして、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「これは、ただの座標ではありません。
ある詩の一節を引用した暗号のようです。
解読すれば、お父上が伝えようとした真意が見えてくるかと」
そう言うと、風見は書棚から分厚い詩集を取り出し、ページを繰った。
それはフランスの詩人、シャルル・ボードレールの『悪の華』だった。
彼は詩集と暗号文を照らし合わせながら、慎重に解読を進めていく。
彩花の瞳には不安と期待が入り混じった光が宿っていた。
「桐谷蓮…父が最も信頼していたビジネスパートナーです。
でも、彼は数年前に事故で亡くなったと…」
風見は詩集を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「奥野様、真相を確かめるため、ご一緒させていただけますか?」
その言葉には、単なる探偵の義務感を超えた思いが含まれていた。
彩花は、風見の言葉に、亡き父への想いと涼太への愛、そして澪への友情が織りなす複雑な感情を抱きながらも、力強く頷いた。
「はい、お願いします」
風見の脳裏には、あの日、研究室で見た衝撃的な光景が焼き付いていた。
白衣に身を包んだ彩花の父・奥野博士が、苦悶の表情で実験台に横たわり、脂汗を浮かべた顔に恐怖の色が滲んでいる。
その傍らに立つのは、冷酷な笑みを浮かべる黒崎剛一郎。
黒崎の目は獲物を捕らえた獣のように輝き、口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。
あの日、風見は真実を知りながらも、自らの保身のために沈黙を選んでしまったのだ。
今、彼の心には贖罪と正義を貫けなかったことへの怒りが渦巻き、複雑な感情を抱きながら、彩花と共に父の遺志を継ごうとしていた。
かつて警視庁捜査一課で辣腕を振るった風見。
しかし、ある未解決事件の捜査中、容疑者の田中誠一が追い詰められ自ら命を絶ったことで、彼は自らの捜査が原因だったのではないかと深く悩み、警察を去る決意をした。
田中は、クロノス・コーポレーションの内部告発者であり、違法な薬物実験の証拠を握っていた。
しかし、真実を公表しようとした田中は、クロノスの圧力により追い詰められ、最終的に絶望の中で命を絶ったのだ。
風見は、田中の死が自分の行動の結果であると感じ、深い罪悪感を抱いた。
彩花の父、奥野博士もまた、クロノスの新薬の危険性を知り、その事実を公表しようとしていた。
だが、黒崎剛一郎は、会社の利益を守るため博士を沈黙させることを決意する。
黒崎は幼少期の虐待と貧困から、権力への異常な執着と冷酷さを身につけていた。
それが、彼をしてクロノスを巨大な悪の組織へと変貌させ、己を絶対的な支配者に押し上げた。
奥野博士は家族と自身の命を守るために屈するしかなかったが、良心がそれを許さなかった。
最終的に、彼は不審な死を遂げる。
風見は、奥野博士と田中誠一がクロノスの違法実験に関与していると知り、捜査を進めていた。
しかし捜査が進むにつれ、黒崎からの圧力が強まり、やがて風見は警察の無力さと腐敗に直面することになる。
ある事件で不正を暴こうとしたが、上層部からの圧力で捜査は打ち切られ、風見は絶望の中で警察を去る決意をしたのだ。
その後、彼は顧問弁護士としてクロノスに潜入し、内部から不正を暴く機会を伺うようになったが、クロノスの闇は想像を超えていた。
違法な人体実験、権力者との癒着、そして奥野博士の不可解な死。
博士の最後の瞬間、彼は真実を知りながらも何もできなかった。
黒崎の計画によって、博士は実験台に拘束され、発見した真実は葬られたのだ。
風見は自らの無力さを痛感し、絶望の淵に突き落とされた。
それでも、風見は諦めなかった。
クロノスを辞職し、姿を消した彼はハッキングの技術を独学で習得し、再び立ち上がる。
そして探偵事務所を設立し、警察時代に解決できなかった事件の真相究明と、被害者への正義を誓ったのだ。
クロノスの悪行を暴くことも彼の新たな目標となった。
自らの無力さと博士を救えなかった後悔に苛まれながら、彩花は父の死の真相を追求し始める。
彼女は父の友人であり元警察官の風見を訪れ、父の発見した真実、命を奪われた理由を知るため、風見の協力を求めたのだった。
風見は彩花の決意と父の遺志を知り、自らの罪を償うため、彼女と共にクロノスの陰謀を暴くための調査に乗り出す決意をする。
奥野博士の優しい笑顔と苦悶の表情が交互に浮かぶ中、風見は心の中で新たな誓いを立てた。
「奥野先生、私は必ずあなたの無念を晴らします」
風見の胸には、正義の炎が再び燃え上がっていた。