表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/64

⑫真実を求める澪の孤独な闘い

 湘南の潮風が頬を撫でる。


 陽光が降り注ぐ海辺のカフェで、澪はひとり窓の外を見つめていた。


 きらめく水面に浮かぶヨット、浜辺で戯れる子供たち、遠くに浮かぶ江ノ島のシルエット。


 けれど、その穏やかな景色とは裏腹に、澪の心は嵐のように揺れていた。


「お兄ちゃんを、ウチが守らなきゃだよね…」


 蓮のあの優しい笑顔を、もう曇らせたくない。


 その想いが、胸を締めつける。


 彩花への電話は苦渋の決断だった。


 涼太の過去を知れば、彩花はきっと傷つく。


 でも、それを伝えないと涼太を危険から守れない。


「お兄ちゃん、どうか許して…」


 澪はそっと涙を拭い、兄に心の中で謝る。


 けれど彩花の顔が浮かび、複雑な気持ちが胸を占める。


 涼太を思う彩花へのわずかな嫉妬と、真実を伝えることで彼女を傷つける罪悪感が混ざり合い、澪の心をさらに乱していた。


 その日から、澪は江ノ島のカフェへ足繁く通うようになった。


 窓際の席で人々を眺め、時にはミルクティーを口にしながら、蓮がふらりと現れるのを待っている。


 ある晴れた午後、いつものようにカフェの窓際の席に腰を下ろした澪は、潮風とミルクティーの香りを楽しんでいた。


 ヨットの白い帆が太陽を浴びて輝いている。


 そのとき、カフェのドアが開く音が耳に届き、澪は反射的に顔を上げた。


 すらりとした長身、黒いジャケットに包まれた男性が、店内を見渡している。


 その姿に、心臓が大きく跳ね上がった。


「蓮…?」


 澪は思わず息を呑み、その男を見つめた。


 けれど、それは見知らぬ顔だった。


 澪の表情に落胆の色がさっと浮かぶ。


 男は彼女には目もくれず、奥のカウンター席へと向かった。


 再び窓の外へと視線を戻すと、ヨットはさらに遠くへと進み、白い帆もかすかに見えるだけになっていた。


「お兄ちゃんに会いたい…」


 その一心で通い続けているカフェだったが、今日もまた、その願いは叶わないようだった。


 ティーカップを握りしめる澪の手は、かすかに震えていた。


 そのとき、カフェの入り口から黒のスーツに身を包んだ男が澪に近づき、静かに声をかけてきた。


「桐谷澪さんですね?」


 澪は驚きながらも警戒して頷く。


「うん、そうだけど…」


 男はサングラスを外し、澪を見つめた。


 その瞳には冷徹さが宿っているが、どこか哀愁を漂わせている。


「私は、風見龍之介と申します。


 探偵です。


 奥野彩花さんから、あなたにお会いしたいと依頼を受けました」


 澪は「彩花」の名を聞き、息を呑んだ。


「彩花さんが、ウチに…?」


 風見は静かに頷き、彩花の言葉を伝えた。


「彼女は、涼太さんを諦めきれないそうです。


 彼の過去、そして彼があなたと距離を置いた理由を知りたいと願っています」


 澪の胸に、複雑な思いが交錯した。


 彩花に真実を伝えれば、涼太を危険に晒すかもしれない。


 けれど、彼を思う彩花がその理由を知りたいと願っているのなら、隠し続けることもできなかった。


「…わかった。


 お話しするね。


 ただ、彩花さんにはお兄ちゃんのことを責めないでほしい。


 彼は、ウチを守るために…」


 風見は澪の言葉に耳を傾け、静かに頷いた。


 彼もまた、過去に愛する者を守るために罪を犯した経験があり、澪や彩花の苦しみを深く理解していた。


 澪は風見に、兄・蓮のことを話す決意を固める。


 涼太の過去と、彼が背負ってきた罪と苦しみ。


 そのすべてを。


 風見は話を聞き終え、深く頷いた。


「桐谷澪さん、お話しいただきありがとうございます。


 奥野さんも、これで涼太さんの真実を知ることができるでしょう」




「蓮は…もう何年も前に姿を消したんです…」


 澪の声には、悲しみが滲んでいた。


「何年も?」と彩花は驚きを隠せずに返した。


「ええ、ウチの…過去に犯した過ちのせいで…」


 澪の瞳には、涙が浮かんでいた。


 言葉が詰まり、彼女は顔を伏せる。


 彩花は、澪の悲しみが痛いほど伝わってきた。


 その手をそっと握り、優しく尋ねた。


「どんな過ち…?」


 澪は俯いたまま少し黙り、ゆっくり顔を上げた。


 彩花を見つめるその瞳には、深い悲しみと後悔が宿っていた。


「ウチは…許されない罪を犯してしまったんです。


 蓮は、ウチを守るために…」


 彩花は、澪の言葉に涼太の失踪の理由が隠されているように感じた。


 澪の過去に何があったのか、どうしても知るべきだと強く思い、そっと澪の震える手を包み込む。


「無理に話さなくても大丈夫ですよ。


 でも、もし話せるなら、私に聞かせてください。


 少しでも力になれるかもしれない」


 彩花の温かな言葉と眼差しに、澪の心に押し込めてきた感情が揺れ動いた。


 そして、彼女は静かに口を開く。


「あれは、ウチがまだ高校生だった頃の話でね。


 蓮は大学生で、学費を稼ぐために俳優業とバイトを掛け持ちしてたんです。


 ウチは、そんな蓮を見て少しでも楽にしてあげたくて、軽い気持ちでアルバイトを始めたんやけど…それが悪夢の始まりやった…」


 澪の声はだんだんと小さく、震え始める。


 彩花はただ静かにうなずき、耳を傾けた。


「ウチが働いてたのは、繁華街にある小さなバーやった。


 夜になると怪しげな客が集まってくる場所で、お酒を作ったり、お客さんの相手をしたりしてたんよ。


 でも、ある夜、常連客の一人が無理やりウチにお酒を飲ませて…」


 澪は言葉を詰まらせ、涙をこぼした。


 彩花は、彼女の肩にそっと手を置き、優しく声をかけた。


「つらかったですね…」


「お兄ちゃんは、ウチが傷つけられたことを知って、ものすごく怒ったんです。


 そして、その男に復讐しようと…でも、ウチは蓮が罪を犯すことを止めたくて、代わりに自分で警察に被害届を出しました。


 でも、男は有力者の息子で、警察もまともに取り合ってくれへんくて…事件はもみ消されてしもた」


 澪の嗚咽混じりの声を聞き、彩花の胸は締め付けられるようだった。


「その後、蓮は、ウチを守るために男の家族から脅されて…そして突然ウチと縁を切ることを告げて、姿を消してしまったんです。


 しばらくして、ウチの口座に500万円が入金されてて…」


 澪の声が消え、彩花はその言葉の意味をかみしめた。


 涼太、いや、蓮は、妹である澪を守るために、自らの未来を犠牲にしてしまったのだ。


「蓮は、ウチに幸せになってほしいと願ってたんやと思う。


 それを叶えるために新しい人生を歩むと決めたんやけど…でも蓮は、ウチが過去を乗り越えられへんことを心配して、ウチの前から消えたんや」


 涙を拭いながら、澪は言葉に力を込めた。


 彩花は、澪の話から蓮の深い愛情と自己犠牲の精神を感じ取った。


 そして、彼を見つけ出し、真実を伝えたいという思いが心の奥で強まっていった。


 ただ、今は何も言葉が出てこない。


 ただ、澪の肩を抱きしめることしかできなかった。


 澪の心の痛み、蓮への深い愛情、そして自責の念が、彩花の心に重くのしかかっていた。




 ……澪は、スマホを握りしめたまま窓の外を見つめていた。


 江ノ島の夕日が、海を茜色に染めている。


 けれども、その美しい景色とは裏腹に、澪の心は不安と焦燥感でざわついていた。


 数時間前、一本の電話が澪の日常を引き裂いた。


 非通知の男の声が、淡々と告げた事実。


「桐谷蓮は、今、江ノ島にいる。一緒にいる女は、奥野彩花だ」


 一瞬、心臓が跳ね上がり、澪は息を呑んだ。


 蓮、兄が生きている──しかも、あの女と…?


 彩花。


 兄が婚約者を装って近づいた女性。


 澪の胸には、蓮への心配と、彼を取り巻く危うさが迫っていた。


 蓮が彩花に近づいた理由はわからない。


 でも、もし彩花が蓮の過去に触れれば、彼を傷つけるかもしれない。


「蓮を守らなきゃ…」


 澪は、いてもたってもいられず、江ノ島へ向かった。


 指定された場所に到着すると、遠くに見覚えのある後ろ姿が見えた。


 蓮と彩花が、並んで仲睦まじく歩いている。


 声をかけようとした瞬間、二人はタクシーに乗り込んで走り去ってしまった。


 絶望感が澪を襲ったが、諦めるわけにはいかなかった。


 そのとき、再びあの男から電話がかかってきた。


「もしもし、彩花さんの連絡先を教えていただけませんか?」


 男は、ためらうことなく彩花の番号を伝えた。


 澪は震える手で番号をスマホに入力し、通話ボタンを押した。


「警告したはずよ。彼から離れなさい」


 澪の声は、怒りと悲しみでかすかに震えていた。


 もし彩花が涼太の正体に気づいたとき、この声と言葉を必ず思い出すだろう。


「まだ分からないの? 涼太は、あなたを騙してるんよ」


 脅すつもりはなかった。


 ただ、彩花を守りたかった。


 蓮の過去、そして彼らが背負う運命から。


 電話を切った澪は、茜色の空を見上げた。


 夕日が涙でにじんで見える。


「お兄ちゃん、お願いやから…無事でいて…」


 心の中で兄にそう祈る。


 そして、再び決意を新たにした。


「必ず、ウチがお兄ちゃんを守ってみせる」


 たとえ、それが自分の幸せを犠牲にすることになろうとも──


 一方、電話を切った後の彩花は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。


 澪の言葉が胸に突き刺さり、彼女の心は混乱に包まれていた。


 涼太が自分を騙していたという事実に、彩花は深く傷つき、心が軋むようだった。


 それでも、澪の言葉に嘘はないと感じた。


 澪の悲痛な叫びが、彩花の心を揺さぶり、彼女の中に涼太への不信感と同時に、彼を守りたいという不思議な気持ちが芽生えていた。

最後まで読んでいただきましてありがとうございます!


ぜひ『ブックマーク』を登録して、お読みいただけたら幸いです。


感想、レビューの高評価、いいね! など、あなたのフィードバックが私の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ