⑫真実を求める澪の孤独な闘い
湘南の潮風が頬を撫でる。
陽光が降り注ぐ海辺のカフェで、澪はひとり窓の外を見つめていた。
きらめく水面に浮かぶヨット、浜辺で戯れる子供たち、遠くに浮かぶ江ノ島のシルエット。
けれど、その穏やかな景色とは裏腹に、澪の心は嵐のように揺れていた。
「お兄ちゃんを、ウチが守らなきゃだよね…」
蓮のあの優しい笑顔を、もう曇らせたくない。
その想いが、胸を締めつける。
彩花への電話は苦渋の決断だった。
涼太の過去を知れば、彩花はきっと傷つく。
でも、それを伝えないと涼太を危険から守れない。
「お兄ちゃん、どうか許して…」
澪はそっと涙を拭い、兄に心の中で謝る。
けれど彩花の顔が浮かび、複雑な気持ちが胸を占める。
涼太を思う彩花へのわずかな嫉妬と、真実を伝えることで彼女を傷つける罪悪感が混ざり合い、澪の心をさらに乱していた。
その日から、澪は江ノ島のカフェへ足繁く通うようになった。
窓際の席で人々を眺め、時にはミルクティーを口にしながら、蓮がふらりと現れるのを待っている。
ある晴れた午後、いつものようにカフェの窓際の席に腰を下ろした澪は、潮風とミルクティーの香りを楽しんでいた。
ヨットの白い帆が太陽を浴びて輝いている。
そのとき、カフェのドアが開く音が耳に届き、澪は反射的に顔を上げた。
すらりとした長身、黒いジャケットに包まれた男性が、店内を見渡している。
その姿に、心臓が大きく跳ね上がった。
「蓮…?」
澪は思わず息を呑み、その男を見つめた。
けれど、それは見知らぬ顔だった。
澪の表情に落胆の色がさっと浮かぶ。
男は彼女には目もくれず、奥のカウンター席へと向かった。
再び窓の外へと視線を戻すと、ヨットはさらに遠くへと進み、白い帆もかすかに見えるだけになっていた。
「お兄ちゃんに会いたい…」
その一心で通い続けているカフェだったが、今日もまた、その願いは叶わないようだった。
ティーカップを握りしめる澪の手は、かすかに震えていた。
そのとき、カフェの入り口から黒のスーツに身を包んだ男が澪に近づき、静かに声をかけてきた。
「桐谷澪さんですね?」
澪は驚きながらも警戒して頷く。
「うん、そうだけど…」
男はサングラスを外し、澪を見つめた。
その瞳には冷徹さが宿っているが、どこか哀愁を漂わせている。
「私は、風見龍之介と申します。
探偵です。
奥野彩花さんから、あなたにお会いしたいと依頼を受けました」
澪は「彩花」の名を聞き、息を呑んだ。
「彩花さんが、ウチに…?」
風見は静かに頷き、彩花の言葉を伝えた。
「彼女は、涼太さんを諦めきれないそうです。
彼の過去、そして彼があなたと距離を置いた理由を知りたいと願っています」
澪の胸に、複雑な思いが交錯した。
彩花に真実を伝えれば、涼太を危険に晒すかもしれない。
けれど、彼を思う彩花がその理由を知りたいと願っているのなら、隠し続けることもできなかった。
「…わかった。
お話しするね。
ただ、彩花さんにはお兄ちゃんのことを責めないでほしい。
彼は、ウチを守るために…」
風見は澪の言葉に耳を傾け、静かに頷いた。
彼もまた、過去に愛する者を守るために罪を犯した経験があり、澪や彩花の苦しみを深く理解していた。
澪は風見に、兄・蓮のことを話す決意を固める。
涼太の過去と、彼が背負ってきた罪と苦しみ。
そのすべてを。
風見は話を聞き終え、深く頷いた。
「桐谷澪さん、お話しいただきありがとうございます。
奥野さんも、これで涼太さんの真実を知ることができるでしょう」
「蓮は…もう何年も前に姿を消したんです…」
澪の声には、悲しみが滲んでいた。
「何年も?」と彩花は驚きを隠せずに返した。
「ええ、ウチの…過去に犯した過ちのせいで…」
澪の瞳には、涙が浮かんでいた。
言葉が詰まり、彼女は顔を伏せる。
彩花は、澪の悲しみが痛いほど伝わってきた。
その手をそっと握り、優しく尋ねた。
「どんな過ち…?」
澪は俯いたまま少し黙り、ゆっくり顔を上げた。
彩花を見つめるその瞳には、深い悲しみと後悔が宿っていた。
「ウチは…許されない罪を犯してしまったんです。
蓮は、ウチを守るために…」
彩花は、澪の言葉に涼太の失踪の理由が隠されているように感じた。
澪の過去に何があったのか、どうしても知るべきだと強く思い、そっと澪の震える手を包み込む。
「無理に話さなくても大丈夫ですよ。
でも、もし話せるなら、私に聞かせてください。
少しでも力になれるかもしれない」
彩花の温かな言葉と眼差しに、澪の心に押し込めてきた感情が揺れ動いた。
そして、彼女は静かに口を開く。
「あれは、ウチがまだ高校生だった頃の話でね。
蓮は大学生で、学費を稼ぐために俳優業とバイトを掛け持ちしてたんです。
ウチは、そんな蓮を見て少しでも楽にしてあげたくて、軽い気持ちでアルバイトを始めたんやけど…それが悪夢の始まりやった…」
澪の声はだんだんと小さく、震え始める。
彩花はただ静かにうなずき、耳を傾けた。
「ウチが働いてたのは、繁華街にある小さなバーやった。
夜になると怪しげな客が集まってくる場所で、お酒を作ったり、お客さんの相手をしたりしてたんよ。
でも、ある夜、常連客の一人が無理やりウチにお酒を飲ませて…」
澪は言葉を詰まらせ、涙をこぼした。
彩花は、彼女の肩にそっと手を置き、優しく声をかけた。
「つらかったですね…」
「お兄ちゃんは、ウチが傷つけられたことを知って、ものすごく怒ったんです。
そして、その男に復讐しようと…でも、ウチは蓮が罪を犯すことを止めたくて、代わりに自分で警察に被害届を出しました。
でも、男は有力者の息子で、警察もまともに取り合ってくれへんくて…事件はもみ消されてしもた」
澪の嗚咽混じりの声を聞き、彩花の胸は締め付けられるようだった。
「その後、蓮は、ウチを守るために男の家族から脅されて…そして突然ウチと縁を切ることを告げて、姿を消してしまったんです。
しばらくして、ウチの口座に500万円が入金されてて…」
澪の声が消え、彩花はその言葉の意味をかみしめた。
涼太、いや、蓮は、妹である澪を守るために、自らの未来を犠牲にしてしまったのだ。
「蓮は、ウチに幸せになってほしいと願ってたんやと思う。
それを叶えるために新しい人生を歩むと決めたんやけど…でも蓮は、ウチが過去を乗り越えられへんことを心配して、ウチの前から消えたんや」
涙を拭いながら、澪は言葉に力を込めた。
彩花は、澪の話から蓮の深い愛情と自己犠牲の精神を感じ取った。
そして、彼を見つけ出し、真実を伝えたいという思いが心の奥で強まっていった。
ただ、今は何も言葉が出てこない。
ただ、澪の肩を抱きしめることしかできなかった。
澪の心の痛み、蓮への深い愛情、そして自責の念が、彩花の心に重くのしかかっていた。
……澪は、スマホを握りしめたまま窓の外を見つめていた。
江ノ島の夕日が、海を茜色に染めている。
けれども、その美しい景色とは裏腹に、澪の心は不安と焦燥感でざわついていた。
数時間前、一本の電話が澪の日常を引き裂いた。
非通知の男の声が、淡々と告げた事実。
「桐谷蓮は、今、江ノ島にいる。一緒にいる女は、奥野彩花だ」
一瞬、心臓が跳ね上がり、澪は息を呑んだ。
蓮、兄が生きている──しかも、あの女と…?
彩花。
兄が婚約者を装って近づいた女性。
澪の胸には、蓮への心配と、彼を取り巻く危うさが迫っていた。
蓮が彩花に近づいた理由はわからない。
でも、もし彩花が蓮の過去に触れれば、彼を傷つけるかもしれない。
「蓮を守らなきゃ…」
澪は、いてもたってもいられず、江ノ島へ向かった。
指定された場所に到着すると、遠くに見覚えのある後ろ姿が見えた。
蓮と彩花が、並んで仲睦まじく歩いている。
声をかけようとした瞬間、二人はタクシーに乗り込んで走り去ってしまった。
絶望感が澪を襲ったが、諦めるわけにはいかなかった。
そのとき、再びあの男から電話がかかってきた。
「もしもし、彩花さんの連絡先を教えていただけませんか?」
男は、ためらうことなく彩花の番号を伝えた。
澪は震える手で番号をスマホに入力し、通話ボタンを押した。
「警告したはずよ。彼から離れなさい」
澪の声は、怒りと悲しみでかすかに震えていた。
もし彩花が涼太の正体に気づいたとき、この声と言葉を必ず思い出すだろう。
「まだ分からないの? 涼太は、あなたを騙してるんよ」
脅すつもりはなかった。
ただ、彩花を守りたかった。
蓮の過去、そして彼らが背負う運命から。
電話を切った澪は、茜色の空を見上げた。
夕日が涙でにじんで見える。
「お兄ちゃん、お願いやから…無事でいて…」
心の中で兄にそう祈る。
そして、再び決意を新たにした。
「必ず、ウチがお兄ちゃんを守ってみせる」
たとえ、それが自分の幸せを犠牲にすることになろうとも──
一方、電話を切った後の彩花は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
澪の言葉が胸に突き刺さり、彼女の心は混乱に包まれていた。
涼太が自分を騙していたという事実に、彩花は深く傷つき、心が軋むようだった。
それでも、澪の言葉に嘘はないと感じた。
澪の悲痛な叫びが、彩花の心を揺さぶり、彼女の中に涼太への不信感と同時に、彼を守りたいという不思議な気持ちが芽生えていた。
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