11話【詐欺師「立花翔」の孤独:一億円の標的と命取りの救済願望】
「奥野様、落ち着いてください」と探偵は低い声で言った。
「もう一つ、確認していただきたい資料があります」
探偵は一枚の写真を私に差し出した。 戸惑いながら受け取ると、そこには涼太が女性と親密そうに寄り添い、私といる時よりも偽りのない、幸せそうな笑みを浮かべている姿が写っていた。
私の視線は、無意識に涼太から彼の隣に立つ女性へと移る。 長くしなやかな黒髪が艶めき、真っ赤なピンヒールが彼女の足元を彩っている。 その眼差しはどこか挑発的で、こちらを試すような強さを感じさせた。
桐谷蓮の引退記事に載っていた冷たい微笑を浮かべた女性と、この目の前の写真の女性が不気味なほど一致している。胸の内がざわつき、絶望的な確信が募る。
探偵は、さらに資料を一枚、私の前に置いた。 そこには、涼太とその女性の名前が並んで記載されたホテルの領収書があった。
私の心は、底なしの沼に沈んでいくような感覚に襲われ、手が震えた。
まさか、涼太が私に語ったあのイタリア旅行の計画も、この女性と過ごすために描かれた「作戦コード」だったのだろうか。 フィレンツェの街並み、美味しいパスタ、甘いジェラート…彼は私ではなく、彼女とその未来を分かち合おうとしていたのかもしれない。
「…まるで、私がIT機密を盗むための『ただの駒』だったみたいだ」
探偵の落ち着いた声が、まるで霧の中から届くように耳に入る。
「この女性、藤崎エリカさんは桐谷蓮の元マネージャーの娘で、大手芸能事務所に勤務しています。 どうやら涼太様とは頻繁に連絡を取り合っているだけでなく、二人で旅行にも行っているようですね」
領収書の上に並ぶ名前と日付が冷たく私の目に焼き付く。 元マネージャーの娘という事実は、エリカが桐谷蓮の過去の秘密を知る「内部の人間」であることを示していた。
「この女性は、一体何者なのでしょうか?」
思わず震える声で探偵に問いかける。 彼は少し考え込み、慎重に言葉を選んで答えた。
「それは、まだ調査中です。 しかし、彼女が涼太様と桐谷蓮の二人を繋ぐ、最も重要な鍵であることは間違いありません」
探偵の言葉が、さらに重く私の胸にのしかかり、心の中に冷たい鎖が絡みつく感覚に襲われる。
何が真実で、何が嘘なのか。 全てが闇に包まれる中、彩花は次なるターゲット「藤崎エリカ」に狙いを定めるしかなかった。
探偵の顔には、長年の現場をくぐり抜けてきた者特有の深い皺が刻まれ、鋭い眼光は真実だけを見抜こうとする揺るぎない意志を宿していた。
その落ち着き払った態度と、冷静すぎるほどの視線が、いまにも告げられる「現実の重さ」を覚悟するよう、私の心を静かに追い詰めていく。
「さらに、涼太様の過去を調べたところ、いくつかの偽名を使い分けていた形跡が見つかりました」探偵は淡々と続けた。
「彼の本名は“涼太”ではなく―― 『立花翔』である可能性が高いです。 過去には、投資詐欺やマルチ商法など、詐欺まがいの商売に関わっていたという情報も確認されています」
その声には感情がなく、ただ事実だけを積み重ねていく冷徹さがあった。
「これらの情報は、彼の勤務先であるOdyne社への聞き込み、ご自宅周辺での聞き取り、そして彼のSNSアカウントの過去投稿の洗い出し――そういった地道な調査から判明しました」
私は平静を装おうとしたものの、胸の内側にゆっくり広がっていく不安は止められない。 「涼太」という偽りの砂上の楼閣が崩れていくたび、胸がぎゅうっと締めつけられ、息が浅くなっていく。
「特に本名については、戸籍謄本の入手までは至りませんでしたが…複数の情報源が“立花翔”という名前を指し示しています。 信憑性は高いと考えられます」
その一言で、全身から血の気が引いた。 私を愛した優しい彼は、最初から存在しなかったのだ。
「探偵さん…立花翔って、どんな名前で詐欺をしていたんですか?」
かすれる声で尋ねると、探偵は手元の資料を軽くめくった。
「はい。 複数の偽名を使っていますが、主に“藤堂涼”や“中野翔”の名を使っていました。 活動範囲は広く、全国で同様の手口の被害が確認されています」
その瞬間、膝が笑うほどの衝撃が走った。
――中野翔。
数年前、父の会社の取引先が多額の被害に遭ったというニュースで見た、悪名高い若手詐欺師の名前だった。あの時、私は「自分とは関係ない世界」だと切り捨てたはずの闇が、今、自分の最も愛した人に繋がっていたのだ。
信じていた涼太が――ターゲットの感情を操るプロの詐欺師。 そして、私までも標的にしていた。
「立花翔が私に近づいた理由は?」
探偵は一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙し、それから静かに告げた。
「おそらく、奥野様――ご家族やご本人の資産を狙ってのものだと思われます。 過去の事例でも、裕福な家庭の女性に近づき、信頼を得た後に資産を奪う――その手口を繰り返しています」
心臓が大きく跳ねた。
「特に奥野様の場合、お父様の突然のご逝去で、多額の保険金が一億円、彩花様名義で支払われました。彼はそれを知り、接近した可能性が高いです」
怒りと悲しみが同時にこみ上げ、胸の奥がえぐられるように痛む。 涼太――いや、立花翔が私のそばにいた理由は、愛でも絆でもなく、父の死がもたらした「一億円」というただの金。その最も深い傷を――彼は計算し、利用しようとしていた。
けれど、私の脳裏には、あの機密文書の写真に写っていた「父のフォトフレーム」が焼き付いて離れなかった。私は震える声で問い返す。
「……でも、探偵さん。組織がこれほどの手間をかけて、たった一億円のために動くものなのでしょうか?」
探偵はデスクの上の資料を指先で叩き、重々しく頷いた。
「鋭いですね。おっしゃる通り、一億円はあくまで立花翔個人の『取り分』か、彼を釣るための餌に過ぎないでしょう。組織――オニヅカが真に求めているのは、そんな端金ではない。彼らはお父様が研究者として遺した『真の遺産』、その所在を掴むための鍵として、あなたを支配しようとしているのです」
組織の狙いは、金よりももっと深く、恐ろしい場所にある。その事実に背筋が凍る思いがした。
深く息を吸い込み、震える声で尋ねる。
「彼の過去を……もっと知りたいです。なぜ、そんなことをするようになったのか」
探偵は静かに目を上げ、私と視線を合わせる。その目には、残酷な事実を伝える者の優しさと、真実の先へ導く配慮が宿っていた。
「奥野様。彼の過去には、いくつもの影があります。それを知ることで、彼の行動の一端でも理解できるかもしれません」
私は小さく頷いた。恐怖もあったが、それ以上に「人間・立花翔」の真実を知りたいという思いの方が強かった。
探偵は小さく息を整え、語り始める。
「彼は幼い頃、両親を亡くし、施設で育ったようです。そこで多くの困難に直面し、大人への深い不信感を募らせていったのでしょう」
その語り口は静かで、どこか哀しげだった。
「お金だけが自分の身を守る――彼は、そう信じるようになったのだと思います。 詐欺行為は…歪んだ形とはいえ、彼なりの『偽りのペルソナ(影武者)を演じきる』という“生き抜くための手段”だったのかもしれません」
探偵はそこで一度言葉を切り、窓の外の遠い空を眺めた。その瞳には、一瞬だけ個人的な感傷が混じった、深い沈黙が宿った。
(――あいつも、こういう救われない連鎖を断ち切るために、命を削っていた。それなのに、あいつが遺したものが、皮肉にもこの男を呼び寄せる餌になるとは……)
探偵は心の中でだけそう呟き、目の前に座る私にその激しい感情を悟られないよう、すぐにいつもの冷徹な仮面をかぶり直した。
「……奥野様。あくまで調査の結果から推測できる、彼の『背景』に過ぎませんが」
その語り口は静かで、どこか哀しげだった。
その言葉に胸が震え、気づけば涙が頬を伝っていた。
「憎しみ」は、彼の孤独な過去を知ることで、ゆっくりと「哀れみ」に変わる。 そして、どうしようもないほどの――「愛おしさ」へと変わっていく。
「それでも…私は、まだ彼を愛している」
心の奥底で、小さな声がそう囁いた。 それは、理性を超えた衝動だった。
私は、この気持ちが正しいのか分からない。 それでも、「孤独な詐欺師」という真の立花翔を完全に捨て去ることなどできなかった。
彼を救いたい。この暗い人生から引き戻したい。
そして――叶わぬ夢だと分かっていても、いつか偽りではない愛を築き、もう一度彼と歩きたい。
そんな悲劇的な救済願望が胸を締め付ける中、私は彼の心の闇へと再び深く落ち込んでいった。
探偵は、私の揺れる心を読み取ったのか、ただ静かに見守っていた。そして、重い沈黙の後、初めて強い口調で告げた。
「奥野様、警告させていただきます。彼の孤独に愛を見出すのは、非常に危険なことです。もし彼が本当に組織の『駒』だとしたら、あなたのその愛こそが、彼の『キング』を追う上で、あなた自身の命取りになります」
その目は、私の愛がこの危険な探求の唯一のエンジンであることを理解しているようだった。
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