①バニラ香る嘘のラブレター
8月の陽炎がアスファルトを揺らし、セミの鳴き声が容赦なく降り注ぐ湘南の街。
大手IT企業で働く私は、藤崎彩花、28歳。
連日のデスマーチで疲れ果て、PCのブルーライトで目がチカチカする。
今日だって、企画書の修正に追われ、終電間際まで会社に残っていた。
はぁ…ため息が出る。
甘いものでも食べたら少しは元気が出るかな、なんて考えながら、オフィス街を抜けて、海沿いの築浅デザイナーズマンションへと向かう。
ポストを開けると、一通の見慣れない封筒が目に飛び込んできた。
差出人は「あなたの婚約者」。
「……は?」思わず声が出る。
心臓が嫌なリズムを刻み始める。
結婚詐欺?
最近ニュースで見た、IT社長を騙した事件が頭をよぎる。
私も、そんなことに巻き込まれるの?
半信半疑で手紙を開封すると、ふわりとバニラの香りが鼻をくすぐった。
幼い頃、母が作ってくれたクッキーの甘い香り――懐かしさに胸が締めつけられる。
ふと、髪の毛を無意識に触ってしまう癖が出た。
中には、高級そうなコットンペーパーに印刷された写真と、短いメッセージ。
写真には、吸い込まれそうなほど端正な顔立ちの男性が写っていた。
彫りが深くて、瞳が印象的…でも、どこか違和感がある。
顔の輪郭がなめらかすぎて、不自然。
手紙の内容もどこかぎこちない。
「初めまして、藤崎彩花さん。僕はあなたの婚約者、高杉涼太と申します…」
一読して思わず眉をひそめた。
この文、まるで定型文の羅列だ。
「僕の…婚約者?」
つぶやきながら、胸の奥に淡い期待が生まれるのを感じた。
30歳を目前に控え、結婚を意識し始めているせいか、こういうロマンチックな展開に少しだけ心が揺れるのも、仕方ないのかもしれない。
「高杉涼太様。
突然のお手紙、大変驚きました。
お会いしてもよろしいですが、一つだけ条件があります。
あなたが結婚詐欺師でないという証拠を見せてください」
思い切って、返信を書いてみた。
自分の顔写真を同封して、彼が本物かどうかを確かめるために。
でも、こんなこと、現実にあるのかな?
私の手は、返信をポストに投函する直前、少しだけ躊躇したけど…結局、その手紙はポストの中に消えていった。
数日後、私は指定された江の島のシーキャンドルが見える、海沿いの瀟洒なホテルのラウンジで、高杉涼太を待っていた。
窓の外には、茜色に染まる相模湾が広がっている。
波の音を聞きながら、革張りのソファに身を沈め、私は自然と髪を触っていた。
こうして待っていると、どうしても過去の恋愛が頭をよぎる。
大学時代の彼、拓海。
サッカー部のエースで、いつもみんなの中心にいた。
私も彼の笑顔にすっかり夢中になっていたけど、彼はいつも私だけを見ていなかった。
どこか影のように他の女の子が付きまとっていた。
社会人になってからの彼、翔太。
仕事熱心で将来有望なエリートだった。
彼の誠実さに惹かれたけれど、彼はいつも仕事優先で、私のことを後回しにしていた。
結局、私はまた振り回されただけだった。
「私、今度こそ幸せになりたい。
私を大切にしてくれる人と……」
小さくつぶやきながら、手元に置いたカフェラテのカップを見つめる。
約束の時間ぴったりに、涼太が現れた。
写真よりもさらに魅力的で、洗練された雰囲気をまとっている。
グレーのスーツにネイビーのネクタイ、そしてさりげなく輝く高級感漂うIWCの腕時計。
「藤崎彩花さんですね?」
涼太は、落ち着いたバリトンで静かに名前を呼んだ。
その声に、私は不思議と安心感を覚えた。
「はい、そうです……」
少し緊張して、返事が遅れてしまう。
言葉を選びながら、何とか涼太の目を見て答える。
彼の声が心地よい分、その完璧さに対する疑念が消えない。
「なぜ、私と結婚したいと思ったのですか?」
少し声が上ずりながらも、私は聞いた。
涼太は一瞬間を置き、私の目を見つめて微笑んだ。
「それは、僕があなたと出会うために生きてきたからです」
「え……?」思わず息をのむ。
その言葉はとても美しくて、まるで恋愛小説の一節のようだった。
それなのに、どこか現実離れした感覚が胸をざわつかせる。
嘘だとは思いたくないけど……。
涼太は、続けて落ち着いたトーンで話し始めた。
「人生は旅のようなもので、出会いが僕たちを導く。
あなたとの出会いが、僕の道しるべになったんです」
「……素敵な言葉ですね」
でも、心の中の疑念はまだ消えない。
過去の経験が、私の心に植え付けた不信感が根強いからだ。
「どうしてこんなに完璧なんだろう……?」
彼の一挙一動が理想そのものであるがゆえに、まるで誰かが書いた台本を彼が演じているような、作り物の感覚が拭えない。
それに気づかれないように、私はまた髪をそっと触った。
「孤独は、友達みたいなものですよ」
涼太は、ふと窓の外を見ながらつぶやく。
彼の瞳は、茜色の空を映し出し、その中には確かに孤独の影が見えた。
「僕にとって、静寂の中にこそ本当の自分があるんです」
その言葉に、私の胸が少し痛んだ。
彼の言葉は美しく、だけど私には触れられない何かを感じる。
私は涼太の真実を知りたい。
彼が本当に私を大切にしてくれるのか、それとも……?
涼太が本物かどうか、この先の時間がすべてを教えてくれるのだろう。
ホテルを出ると、私は足早に自宅へと向かった。
ふとした瞬間に髪を指先で触りながら、心の中は複雑な感情で揺れていた。
涼太さんとの時間が夢のように感じつつも、その完璧すぎる言葉が頭から離れない。
玄関のドアを開け、MacBookを立ち上げると、何気なく検索窓に「結婚詐欺 手口」「結婚詐欺 見分け方」と打ち込んでしまった。
画面には、結婚詐欺の被害者たちの体験談や詐欺師の特徴がずらりと並んでいる。
「もしかして、私も騙されているの…?」
私は呟きながらも、心の奥底でその可能性を認めたくない気持ちが渦巻いていた。
だって、涼太さんは私の好きなことを知り尽くしていた。
甘いものの話をした時も、「実は、僕もスイーツ巡りが趣味なんです」と微笑みながら答えてくれた。
まるで、私が大好きなカフェで過ごす日々を共有してくれるかのように、会話が広がっていった。
それに、あの夕暮れの湘南の風景。
茜色の空を背景に、波の音が静かに耳に届く。
あの瞬間、私たちは二人だけの特別な世界にいた。
「でも、涼太さんは、私のことをあまりに知りすぎている…」
そう考えると、再び不安が胸を締めつける。
彼が私の出身大学や趣味について話していた時、どうしてそこまで知っているのか、少し疑問に思ったけれど、気づかないふりをしていた。
彼の優しい笑顔と、あの独特な甘いバニラの香りに、いつも心が和んでしまっていたから。
でも、こうして冷静に考えてみると、彼が私に見せる姿はまるで、誰かが私の理想を演じているかのように思えてくる。
私は髪を軽く触りながら、日記帳を開く。
「涼太さん、あなたは一体何者なの…?」という疑問が、頭の中をぐるぐると回り続ける。
「高杉涼太。もしかしたら、結婚詐欺師かもしれない。
でも、彼に惹かれている自分がいる。
こんな気持ち、初めてだ…」
彼との出会いは、まるで恋愛小説の中の一節のようだった。
甘くて、どこか夢のような。
でも、現実はもっと厳しいかもしれない。
それでも、彼に対する気持ちが揺れ動くのは事実だ。
涼太さんの言葉、「あなたと出会うための人生だった」、その言葉は、まるで私の人生を知っているかのような響きを持っていた。
これまでの私の恋愛は、いつも嘘や曖昧な関係に悩まされてきた。
だけど、今度こそ誠実な人に巡り会いたいと思っていたのに…。
彼が本物であってほしい、という願いと、もし彼が偽物だったらどうしよう、という恐怖。
この二つの感情の狭間で、私は揺れていた。
「甘いバニラの香り…」それは、幼い頃に感じた幸せな記憶を呼び起こす。
まるで、これからの未来にも同じような幸せが訪れるかのように。
でも、それが真実なのか、それともただの幻想なのか、私はまだ決められないでいた。
今、この瞬間、私は高杉涼太という男に対して抱いている疑念と恋心の狭間で揺れ動いている。
彼が私の人生を変えるかもしれないという期待と、裏切られるかもしれないという恐れ。
どちらにしても、運命の選択を迫られているのは間違いない。
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