1話【死を呼ぶバニラの香り ── 完璧な婚約者の招待状】
誰にでも、消し去りたい記憶や、埋められない孤独があるはずです。
もし、その空白に「完璧な存在」が滑り込んできたら。 運命という名の甘い香りに包まれた時、あなたはそれが「救済」か「破滅」かを見極めることができるでしょうか。
記憶を巡る、美しくも残酷な嘘の物語。 どうぞ、最後までお付き合いください。
八月の陽炎が、濡れたように光るアスファルトを揺らしている。
湘南の街路樹から、セミの鳴き声がまるで熱の塊のように容赦なく降り注いでいた。
湿った潮風は体温に張り付き、夕暮れ前の空気は、夏の残骸のような疲れた熱を閉じ込めている。
大手IT企業に勤める、藤崎彩花、28歳。
連日続くデスマーチで、体力は砂を噛むように底をつき、PCのブルーライトが網膜の奥をじりじりと焦がし続けていた。脳の芯には定位置となった鈍痛が宿り、肩はまるで石膏のように硬く重い。
今日もまた、企画書の修正に追われ、会社の椅子に縫い止められていたのは終電間際。
深い溜め息を一つ。吐き出したはずのそれは、息苦しいほどの現実に吸い込まれていった。
――何か、甘すぎるものでも食べれば、この疲弊した脳が少しは解放されるだろうか。
そんなささやかな、しかし切実な希望だけを心の支えに、私はオフィス街を抜け、海沿いに建つ築浅のデザイナーズマンションへと歩を進めた。湘南特有の、潮とアスファルトの焦げた匂いが鼻腔をくすぐる。
自宅のポストに鍵を差し込み、開けた瞬間――私の視界は、日常のすべてを拒否するかのように、一通の封筒に釘付けになった。
見慣れない、真っ白な高級コットン紙の封筒。
通常の手紙とは一線を画す異質な質感と、機械的なフォントで記された、たった一つの言葉。
差出人:「あなたの婚約者」
「…………は?」
喉の奥から、間の抜けた、声とも言えない空気が滑り出た。心臓が、突然、不協和音のような不吉なテンポで跳ね始める。
――婚約者? ――これは、例のニュースで見た、手の込んだ結婚詐欺だろうか?
嫌な予感が背筋を伝い、半信半疑と、微かな期待が混じったまま、私は封を切った。
ふわりと漂う、甘く濃厚なバニラの香り。
その瞬間、胸の奥で、遠い過去の記憶が柔らかくほどけた。幼いころ、疲れた母が、珍しく焼いてくれたクッキーの匂いだ。失われて久しい、無償の温もりの記憶。
私は無意識に、指先で髪の毛の先をいじっていた。不安をごまかす時に出る、長年の癖だった。
中に入っていたのは、同じく高級なペーパーに印刷された写真と、短いメッセージ。
写真に映る男性は、驚くほど整った、完璧すぎる顔立ちをしていた。彫りの深い輪郭、静謐な瞳。しかし、その艶やかさは、どこか人間の肌理ではなく、CGのように調整された違和感を伴っていた。
添えられた文章も妙にぎこちなく、感情を伴わない雛形を組み合わせて作ったような空虚な響きがあった。
「初めまして、藤崎彩花さん。 僕はあなたの婚約者、高杉涼太と申します――」
思わず、私は手紙を握りしめた。
「私の……婚約者?」
自分の声が、期待と疑念で震えているのが分かった。
二十八歳。仕事のストレスと孤独に追い詰められ、どこかで「運命」のような救済を渇望し始めている年齢だ。だから、こんな非現実的な手紙にも、心の一部が甘い誘惑を感じてしまう。そんな自分の弱さが、情けなかった。
けれど、知性が呼び覚ます疑念は消えない。
私は、リビングのデスクからペンを取り上げ、手紙の裏に返信を書き始めた。指先は、期待と恐怖でわずかに震えている。
「高杉涼太様。 突然のお手紙、大変驚きました。 お会いしても構いませんが、一つだけ条件があります。 ――あなたが、結婚詐欺師でないという決定的な証拠を示してください」
念のため、無表情な自分の顔写真も同封した。相手の反応、そして対応の「隙」で、本物かどうか、この非現実の誘いが本物の毒かどうか確かめるために。
投函する直前、私は数秒躊躇した。迷いはあった。
それでも結局、その返信は、ポストの暗闇へと吸い込まれていった。
胸の奥で、小さく、しかし確実に、日常という歯車が軋む音がした。
私は、抗いようのない運命のドアを、自ら開いてしまったのだ。
──そして数日後。
私は江の島のシーキャンドルを望む、海沿いのしゃれたホテルのラウンジに座っていた。窓の外では、相模湾がゆっくりと茜色の帳に染まり、遠くで寄せては返す波の音が、私の心臓の鼓動のように聞こえる。
深く柔らかい革張りのソファは、緊張で石のように固まった体をそっと包み込んでくれた。
指先が無意識に髪に触れる。不安をごまかす、長年の癖。
待つ時間は、どうしてこんなにも、過去の恋の残骸を呼び起こすのだろう。
拓海は、常に周囲の注目を浴びる太陽のような存在で、彼の笑顔に夢中だったが、私の視線が彼に届いているのかは分からなかった。いつも他の女の子たちの影が付きまとい、私は主役になれない脇役で、その影に押しつぶされそうだった。
翔太は、誠実で将来有望なエリートだったが、彼の世界の中心は常に仕事で、私は常に優先順位の二番目。
「私……今度こそ、誰かに一番に選ばれたい。 私だけを、大事にしてくれる人と――」
小さく、切実につぶやいた声は、潮風にさえぎられ、誰にも届かない。
その瞬間、涼太が到着した。
約束の時間、秒針が示す通りの完璧さ。
写真よりもさらに魅力的で、非の打ち所がない洗練された空気をまとっている。
深いチャコールグレーのスーツに、計算されたネイビーのネクタイ。光を鈍く反射するIWCの腕時計が、彼の品格を際立たせるが、同時に彼の人間的な体温を感じさせない冷たさも際立たせていた。その肌は、夏の夕焼けの中でさえ、熱を帯びた生身の質感ではなく、精巧な石膏のように見えた。
「藤崎彩花さんですね?」
低く、抑揚のない落ち着いたバリトンが、まるで決められた通りに私の名前を呼んだ。その声が、緊張で締め付けられた胸の奥に、静かに染み渡る。
「は、はい……そうです」
わずかに遅れた返事を、私は目を逸らさずに返す。安心感と同時に、その完璧さに対する理性の不信が、まだ胸の奥で息を潜めている。
「なぜ、私と結婚したいと思ったのですか?」
勇気を振り絞って、核心を尋ねた。詐欺師ならここで言葉に詰まるはずだ。
涼太は、一瞬だけ私を見つめ、作り物めいた穏やかな微笑みを浮かべた。
「それは――僕があなたと出会うために生きてきたからです」
「……え?」
その言葉はあまりに美しく、あまりに強烈だった。胸が一瞬、甘く痺れる。生まれて初めて、「運命」という甘美な言葉を信じそうになった。
けれど同時に、その甘さが、猛毒のサインであるかのように、私の心をざわつかせた。彼は、私の心の最も深い空白、誰にも言っていないはずの孤独の淵を、まるでデータベースから読み上げたかのように、完璧に言い当てていた。現実味が、どこにもない。
涼太はさらに、淀みなく言葉を続ける。
「人生は旅のようなものです。 出会いが僕たちを導き、導かれた場所に答えがある。 あなたとの出会いが、僕の道しるべになりました」
「……素敵な言葉ですね」
そう返しながらも、私の指先は冷え切っていく。 彼の言葉はあまりに完璧で、淀みがない。まるで名言サイトのトップページをそのまま音読したような、あるいは高性能なAIが「女性が喜ぶフレーズ」を計算して出力したような、血の通わない既視感。 それは、心からの告白というより、どこかで見聞きした「正解の雛形」を提示されているだけのような、奇妙な空虚さを伴っていた。
「孤独は、友達みたいなものですよ」
ふいに、涼太がそうつぶやき、茜色に染まる窓の外を見つめた。 その言葉は、唐突で、そして、私の心の最も暗い部分に突き刺さった。彼の静謐な瞳の奥に、一瞬、確かに影が宿ったように見えた。
「僕にとって、静寂の中にこそ本当の自分がいるんです」
その言葉に、私の胸はちくりと痛んだ。 彼は、私と同じ孤独を知っている――そう感じた瞬間、彼の完璧な壁がほんの少し崩れた気がした。そして、その触れられない距離に、私を惹きつける彼の秘密が漂っているように感じられたのだ。
理性を保とうとする知性と、孤独を共有したいという破滅的な渇望が、激しく綱引きを始めた。 ――その時、私は、孤独を分け合うための代償が、自分自身のすべてかもしれないという予感に、なぜか抗えなかった。
涼太がテーブル越しに、そっと私の手に自分の手を重ねてきた。 吸い付くような肌の質感。体温は確かにそこにあるはずなのに、彼の手が触れた場所だけ、まるで麻酔を打たれたかのように私の肌の感覚が死んでいく。
温かいのに、何も感じない。
私は、無意識に髪に触れる。 触れれば触れるほど、不安は静かに、しかし確実に膨らんでいく。
――彼の手が触れている感触だけが、どうしても思い出せないのだ。
初めまして、執筆者の108です。 本日から新連載『私を騙したあなたへ ――記憶を盗んだのは、あなたでした。』をスタートいたしました。
完璧な婚約者・涼太との出会い。 温かいのに何も感じないという、彩花が覚えた「物理的な違和感」の正体とは何なのか……。 物語はここから、甘い毒のように一気に加速していきます。
【今後の更新予定】
本作は、年末年始も休まず毎日更新いたします。
・本日(12/31)2話目:20:00 投稿予定
・明日(1/1)以降:10:00 / 18:00 の1日2回投稿
年越しのお供に、この不気味な愛の行方を見届けていただければ幸いです。
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それでは、今夜20時の第2話でお会いしましょう。




