第45話 アイビー
薄暗くひどい臭いの充満する地下街の一角に、檻がいくつも並べられていた。
檻の中にはさまざまな種族の人間が閉じ込められ、檻にそれぞれ値札が貼り付けられている。
その中のひとつ。
ひときわ小さな檻に、ボサボサの緑髪に襤褸を纏った、幼い少女が入っていた。
その瞳に光はなく、ただいずれ訪れる未来に絶望しているようだった。
値段は他の〝商品〟よりも安く、身体には鞭打ちの痕があり扱いは劣悪であった。
――この世に希望などありはしない。
少女は諦めていた。
――何を?
全てを。
ここは闇市。違法薬物や希少生物や人身売買がここでは行われる。
もちろん合法ではない。
ただ、国が簡単には手を出せない程度には大きな影響力を持つ裏社会の要であった。
少女は、ここで『嗜好品』として売られていた。
――異界の神と、この世界の守護神との決戦から十数年。
『勇者』と呼ばれたとある男の忘れ形見である娘。
本来ならば、その赤子は勇者の子として故郷にて貴族の養子として育てられるはずだった。
しかし、当の勇者亡き現状に既得権益を優先する貴族により『勇者に子供がいた』という事実を隠蔽される。
母は秘密裏に殺害され、乳母と共に逃げた先ではマフィアに捕まってしまう。
そして乳母はそのまま見世物として魔物に食い殺され、彼女は奴隷として売られてしまった。
勇者の娘――とはいえ、彼女には何の力もない。ただの幼い少女でしかない。
勇者の力に目覚めるなど都合のいい事など起きることもなく。
何もできず、何も成せず、ただこの救いのない現実から目を背けることすら許されず、絶望する他ない。
希望などない。
けれど、それでも――
「うぎゃああああっ、やめろ来るな来るな来るな来るなああああ!!!!」
ドチャッ
血飛沫が舞い、人の四肢が赤い糸のようなものを引いて引きちぎれる。
それを、真っ黒な怪物がぐちゃぐちゃに咀嚼して飲み込んだ。
「クソっ! まさか売りもんの黒絡新婦の拘束が外れちまうとは……! おいそこの売れ残りのゴミ! ヤツの気を引いてオレらが逃げる時間を稼げ!」
「う、あ……」
主従契約には逆らえない。
少女の身体は半ば強制的に、黒い怪物へと駆け出していった。
――死にたくない。
希望なんかなくても、絶望しかなくても。
それでも、死にたくない。
〝死〟が迫りくる。
死にたくない
〝死〟はもう眼前にあった。
死にたくない
死にたくない――
迫る〝死〟から目を逸らすために、瞼を閉じた。もう開くことはないであろう瞼を。
けれど、一向に〝死〟はやってこなかった。
「やっと見つけた」
誰かの声がして、少女は瞼を開く。
そこには――
「遅くなってすまない」
空色の髪の、彼女とそう歳も変わらない少女が動かなくなった蜘蛛の怪物の上に立っていた。
「だ、れ……?」
「我は青龍。迎えに来たぞ、アイビー」
それが、アイビーと青龍の出会いだった。
†
そこは年中花が咲き誇り、他に誰もいない天空の楽園だった。
青龍の住まいであるこの空島には、どうやらアイビーの父親が遺した何かがあるらしい。
が、それ以上のことは教えてはくれなかった。
青龍と言葉を交わし人として共に暮らせたのは、それからの数百年と比べると僅かな間だった。
言葉を失い、人の姿を失い、ついには自我さえ失い。
獣となって尚、青龍はアイビーの側にいた。
そんな青龍が、たどたどしくはあるものの言葉を取り戻しつつある。
近いうちに人の姿も戻ってくるかもしれない。
かつてのように隣で笑っていられる日々がもうすぐ戻ってくるかもしれない。
――セイさまと共に、地上を旅してみたい。何百年できなかったぶんだけ語らいたい。
そんな未来にアイビーは頬を緩ませる。
――トスッ
ふと、背中から胸にかけて何か冷たい感触が走った。
「えっ……?」
自分の胸から、銀色の切っ先が飛び出しているのが見える。
そして次の瞬間に襲ってくる、強烈な熱と痛み――
「ぜ、ぜいざまっ……ごぼっ」
喉の奥から熱くて鉄臭い液体が溢れ、まるで水中で溺れてしまったかのように呼吸もままならなくなる。
「〝蝕め、瘴禍刀〟」
その男がそう呟くと、アイビーの体内にひどく冷たく恐ろしい感触がひたひたと触れるように広がって行く。
「たす……け……せい、ま――」
それはやがてアイビーの肌にまで現れる。
赤黒いアザのような、あるいは膿のような何かがじぐじぐと広がって行く。
迫り来る数百年ぶりの感覚。
〝死〟
――希望は、あっという間に消えてなくなってしまう。あとちょっとで手が届くというところで、ぜんぶ取り上げられてしまう。
命を冒す瘴気がアイビーの全身を蝕むのに、そう時間はかからない。
(セイさま……セ、イ……さま――)
最期の時までアイビーの脳裏にあったのは、敬愛する最愛の女神の笑顔だった。
†
「うんうん、これがこの武器の効果か。呪いが伝染していくなんてなかなか面白いね」
その少年は動かなくなったアイビーの骸から乱雑に刀を引き抜くと、そのまま骸を蹴り飛ばし花畑へと転がしてゆく。
「シュートぉ!! よっしゃゴール!!!」
花畑の中心にあった大岩へと、黒く変色したアイビーの遺体が叩きつけられる。
そのまま少年はアイビーへの興味を失うと、次はこの花畑そのものへと切先を向けた。
「〝蝕め〟」
真っ黒な一閃が、天空の島を一文字に迸る。
咲き誇る花たちが、どす黒い瘴気に呑み込まれてゆく。
その時――
『アイビー!』
蒼き龍が天を裂いて現れた。
最愛の少女を心配するその声は明瞭で、ハッキリとした意思をもって発せられたものだった。
「おっ、来たね。ランリバーさんの【神託】通りだ」
青龍はまっすぐ迷うことなく突き進む。
少年は青龍を迎撃すべく構え向き合うが――
しかし青龍は少年を無視してアイビーの亡骸へと飛び込んだ。
「アイビー……」
アイビーの骸を抱える青龍の姿は、『龍』ではなくなっていた。
――空色の髪の、幼い少女。
かつてアイビーと語らい隣で笑い合っていた、あの時の姿であった。
雨が降る。
雲もないのに煌めく雨が降る。
黒く染まりつつある空島を、アイビーの亡骸を、煌めく雨が濡らす。
「嫌だアイビー……置いていかないで……」
けれども瘴気を祓うことはできず。
青龍は、ただただアイビーの骸を抱き抱えたまま立ち尽くしていた。
「は? 何ボクのこと無視してくれてんの?」
少年は青龍の背中へ刃を向ける。
青龍は一切反応を示すこともないまま、アイビーの骸を抱えてうつ向いていた。
「無視してんじゃねーよ!」
少年は無慈悲に無邪気に刀を振るった。
青龍とはいえ、無抵抗の状態で食らえば致命的な一撃だった。
「あ?」
しかし、少年の一撃が青龍へ届くことはなかった。
「おれの友達を……よくもっ!!!!」
その一撃を剣で受け止め、強い眼光を宿し少年を睨み付ける。
かつての〝勇者〟を想起させるその者の名。
それは〝ジン〟であった。




