第32話 巨大樹の森
今でもときどき夢にみる。
大切なものが、この手からこぼれ落ちていってしまう。
たった独り残されていってしまう。
そんな悪夢を。
もしもまた、失ってしまうのなら。
いつか失ってしまうくらいなら。
いっそのこと――
「カ……ニャ……」
「ん……にゃ?」
「カリニャン、起きて。痛い」
「にゃ……?」
悪夢から目が覚めると、カリニャンは何か甘く温かく、それでいて柔らかいものが口の中にあるのを感じた。
これは……
「お姉さま!?」
そして気づいた。
自らが、寝ぼけてコハクの肩に噛みついていたことに。
慌てて離すと、コハクの肩には大きな歯形ができうっすら血が滲んでいた。
「ごめんなさいお姉さま!!」
「びっくりしたけど、いいよ? わざとじゃないし」
必死に土下座するカリニャンに、コハクは大したことではないと扱う。この世界にも土下座文化ってあるんだなぁ等と思いながら言うあたり、本当に軽く考えているようだった。
事実、再生能力持ちのコハクにとっては多少の部位欠損程度まではかすり傷に等しいのだ。
「で、でも……」
「それに僕、カリニャンになら貪り食べられちゃってもいいと思ってるしね?」
「お、お姉さま!? 駄目ですよそんな……そんな事言ったら、いつか本当に食べてしまいますよ?」
「それじゃあその日を楽しみに待ってるよ」
半ば冗談のつもりだが、半分は本気である。
もしカリニャンが衝動に抗えずにコハクの身を喰らおうとしてきたなら、抵抗せずにその体を差し出そうとすら思っているのだ。
コハクは己を勘定に含めない。大切な人のためならば、自分が死んでもいいとすら思っている。
「お姉さま……。気持ちは受けとります。けれど、もっと自分を大事にしてください! お姉さまが傷ついたら私、すっごく悲しいんですからね!!」
「カリニャン……」
コハクは、地球での人生で自分を顧みたことがない。
横暴な母親の影響か、自分の望みは叶わないものだと無意識に思っていたのだ。
けれど、それでも、『カリニャンと一緒にいたい』という想いだけはあって。
それがきっかけでコハク……古波蔵尊は、殺されてしまったのだが。
「わかったよ、あまり自分自身を大事にすることってわからないけど、それでも……努力してみる。だから……今は――」
コハクはそっと背伸びをして、屈んでいるカリニャンの頬に顔を近づける。
そしてその毛皮の上に、優しく小さな口づけをした。
それが、今のコハクがカリニャンにしたかった事。
「お、おねっ、おね……おねぇさまぁ!?」
悪戯っ子のように笑うコハクの身体を、ぎゅっと抱き締めるカリニャン。
その小さく細い身体は、今にも壊れてしまいそうで。
「ふふふ、毛皮の上なのに顔が紅いよ?」
「おねぇさまがそんなことするからですよっ! けど……嬉しい、です……!」
「いつかカリニャンと、何のしがらみもなく生きられる日が来たら。
その時は、もっとこの先の事をしよう?」
「はいっ! ふ、ふつつかものですがおねがいしますっ!!」
〝自分を顧みる〟
〝自分のやりたいことを優先する〟
自分に嘘をつかないコハクは、欲張りだ。
二人が笑い合い幸せに生きられるその日には、コハクはもっともっとたくさんの欲張りになっているだろう。
それはそれとして、コハクにはカリニャンに食べられてみたいという願望もあるのであった。
カリニャンはそれをまだ知らない、が。
*
「もぐもぐ……」
ヒスイは無心でオムライスを頬張っていた。
ログインしたら、なぜか上機嫌なカリニャンが満面の笑みでオムライスを用意してくれたのだ。
一体何があったのか気になるが、コハクの様子もなんだかいつもと違うので二人の関係に何らかの進展があったのだろうと推測する。
故に、あえて聞くことはしなかった。
「しかしカリニャンちゃんの作る料理は美味いな」
「お姉さまのお口に合わせるために頑張ったんです~!」
「街のお店でもやってける味だぜこりゃ」
「そうですか~? それならいつかお姉さまとお店を開いて暮らすのもよさそうですね」
もしもプレイヤーから狙われる心配がなくなったら。
そんな希望をカリニャンは語る。
そんなささやかな願いを叶えるための一助とするために、一行はこの先の迷宮へ向かっているのだ。
「さて。このペースなら今日中に着きそうだな」
「うん。魔物ともあまり遭遇してないし順調だね」
道行きは順調らしい。
そもそも平均レベル250以上のプレイヤーが徒党を組んでいるのだ。いくら魔境最難関といえど、だいぶ余裕があった。
何より、強力なレイドボスであるカリニャンもいるのだ。長年の猛者たる魔物ほど、むしろ弁えて近寄ろうとはしないのである。
「……あの、アイリスさんってどんな方なんですか?」
「どんな人か……。不思議な人だね。普段はよくしゃべるのに、時折不自然に静かになる」
「怪しい人なんですね……」
「悪い人ではないと思うんだけど、こればっかりは会えばわかるかな」
「あと、のじゃロリ属性だな」
「のじゃろ……?」
「こらヒスイ? カリニャンに変なこと吹き込まないでくれる?」
和気あいあいと、三人はこの世界最凶の危険地帯をピクニックのように歩いてゆく。
「あれ、あんなところにお花畑がありますね?」
「げっ、マジか。あそこに近づいちゃダメだよ、カリニャン」
「何かあるんですか?」
樹海の奥に少し開け、陽の光が射し込む空間ができていた。
そこに、白と紅の源平色の小さな花が群生している。
一見綺麗な光景だが、一点だけ異様な箇所があった。
「なに、あれ……?」
花畑のあちらこちらに、白い石膏のような魔物の形の像が点在している。
その不気味さもあり、カリニャンはコハクに言われた通り花畑へ近寄るのをやめた。
「あの花は〝静骸花〟といって、超がつくほどの強力な幻覚作用と石化効果の猛毒があるんだ」
「しかもな、その毒は空気に溶け込むんだぜ。風で遠くまで流れてくんだ。
おまけにたちの悪い事にいい匂いまでするから、魔物がうっかり近寄っては吸い込んで我を忘れて気がつきゃ……あそこの像の仲間入りだ」
「なんですかそれ……恐ろしい花ですね」
静骸花は生きながら像となった魔物から魔力と生気を吸い取り生きている。吸い尽くされた魔物は用済みとばかりに石化が解け、間もなく衰弱して死亡する。
そしてその骸は朽ちて静骸花の栄養になるのだ。
更に恐ろしいことに、この花の毒には麻薬のような作用がある。風に乗ったこの毒を僅かにでも吸ってしまった者は、静骸花の畑を求め自ら探しに出てしまうのだ。
おまけに、静骸花は種子でも地下茎でも蔓でも繁殖する。極めて高い繁殖能力と適応力、更に再生力まで備えている。
それは葉っぱ1枚でも地面にあれば、そこから再生して気がつけば花畑ができあがってしまうほどだ。
魔境の外でも稀に発生し、ある国を一月ほどで滅ぼしてしまったという伝説も残っている。
故に静骸花は、〝世界一美しい災禍〟とも呼ばれている。
「ただ、貴重な秘薬の材料にもなるから、害だけではなかったりもするんだよね」
「害の方がはるかに大きい気もしますけど……」
「百害あって0.1利くらいだな」
三人は静骸花の花畑の風上から横目に通り抜け、先を急ぐ。
いくら世界一美しい災禍と呼ばれる静骸花といえど、魔境で生息域を広げる事は極めて難しい。
魔境は植物相も魔境なのだ。
だからあの1ヶ所の畑だけで留まっているのである。
「あの小山を越えたら目的地だよ」
「ついにですか!」
「あの山の中に目的の迷宮があるんだ。気を引き締めてけよ」
迷宮。
それは、大規模な遺跡だったり、広大な洞窟だったり、魔物の巣穴だったり、巨大な生物の体内だったりと、とにかく人が探索できるほどの構造物の呼び名である。
そして恐らくは、この世界で最難関の迷宮がここにはある。
「ついたよ」
「ここ……? 何もないじゃないですか?」
そこは小山の脇にある小さな崖だった。
一見何もないように見えるが、コハクはここが目的地だと言う。
「まあ見てろって。破邪――」
ヒスイがある場所に触れてスキルを発動させる。すると――
「扉が現れた!?」
「見えないように隠されてたんだ」
金色の荘厳な門が突然そこに現れた。
龍の意匠が散りばめられた、とても美しく大きな門だ。
まるで岩山に張り付くようにあるその門を、コハクは手で押して開けた。
「入るよ?」
「は、はい!!」
――――
【封じられし邪龍の宮】
推奨Lv:240
――――
このダンジョンは、本来ならばコハクとヒスイがふたりがかりで辛うじて攻略できたほどの鬼畜難易度であった。
罠や強力な魔獣に複雑に入り組む道など、侵入者を拒む要素がこれでもかとあったのだ。
だがしかし、今回は――
「これは……歓迎されてるね」
扉を開けてみたところ、短い一本道とその奥にもうひとつの扉があった。
最奥の間の扉だ。
どうやらコハクたちは、このダンジョンの主であるアイリスに歓迎されているようだ。
「……いくぞ」
ヒスイが最奥の扉に手をかける。
すると、押してもいないのに扉が勝手に開いていった。
「なんですか……ここ?」
その空間は小さな町が収まるほどの広さと高さはある、円形の部屋であった。
床や壁や天井は、灯りもないのに不思議な玉虫色の光を放っている。
神々しく神秘的なその空間の中心に、小さな何かが佇んでいた。
「久しぶり、アイリス」
コハクが広大な部屋の中央へ駆け寄って、〝それ〟に声をかける。
〝それ〟の正体は――
『2年ぶりじゃな。ヒスイ、コハク。よく来てくれたのぅ』
白い襤褸を纏った、腰ほどはある金髪の幼い少女だった。
その頭からは銀色の二本の角が伸び、臀部からは太い金色の龍の尻尾が生えていた。
一見すると竜人の子供……しかしカリニャンは、本能で察していた。
あの少女が、カリニャンよりもコハクよりも遥かに強大な力を持つ、人智の及ばぬ存在であると。
すると少女は、カリニャンの方を向いて無垢に微笑みながら声を出した。
「ほう。我が眷属の末裔か。はじめましてじゃな」
「は、はじめまして……! カリニャンです! コハクお姉さまのメイドをやってます!!」
「元気のよい娘じゃな。妾はアイリス。かつては神などと呼ばれていたモノの成れの果てじゃ。今はさしずめ、ぷれいやぁたちには〝黄龍〟とでも呼ばれておるのかの」
黄龍は自嘲気味に笑いながら、そう呟いた。
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