目が覚めたら王太子殿下でした
「うわあああああああ!!!!」
豪奢な洗面台、鏡の前。
ズキズキと痛む頭に響くのも構わず、悲鳴が屋敷の一角に響き渡った。
後にバタバタと足音が近付いてきて、鏡に映ったのは数名の中世を思わせるメイド達が現れて更に混乱は広がっていく。
「どうかされましたか!?」
「目を覚まされたのですね、ご無事ですか!」
「「殿下!!」」
そう、そこの見た事もない様な鏡に映っていたのは、『私』ではなく、ある少年の姿だった。
私はどこにでもいる、ごく普通のOLだった…とりあえず過去形。
毎日の残業と激務、上司からの理不尽なパワハラセクハラ当たり前という、とんでもないブラック企業に勤めていた私は、精神的にも肉体的にもボロボロだった。
このままでは死ぬんじゃないかと思わせる程、負のオーラを纏う私を見兼ねた、学生時代の友達に勧められた乙女ゲーム。
私は所謂オタクで、漫画もアニメもゲームも大好きだった。…それも段々、アニメも漫画も追えない程の激務と心労で出来なくなっていったけど。
でも、その子に教えて貰ったゲームはスマホ用のアプリだったおかげで、隙間時間にプレイしていけるそれを夢中になってやっていた。それはもう水を得た魚の様に毎日飽きる事無くプレイしていたと思う。
勿論ヒロインである私は、様々な攻略対象のイケメンから優しくされ愛されて、それだけで泣いてしまう程には精神が参っていたのだ。
そんなある残業終わりの日。
いつもと同じくもうすぐ日付が変わりそうな時に駅のホームを歩いていると、狭いホームで人とぶつかり、細めのヒールが点字ブロックにつまづいて線路側に、ふわりと浮いた様な感覚がして。
…ああ、私落ちてる。
なんてどこか他人事の様に感じていた。
石だらけの地面に体を強く打ち付ける痛みに呻く事も出来ず、なんならあの悪夢の様な仕事からようやく解放されるのだと安堵して目を閉じた後、耳を劈く様な警報が鳴って……。
そこで記憶は途絶えている。
それで?目が覚めたら今この状況だ。
鏡に映るこの容姿に見覚えがあるどころか、最終攻略対象である王太子じゃないか。
金のブロンドの髪に緋色の瞳。年齢は…多分推定十歳程度。
というか十歳くらいでこの容姿!?輝きが過ぎるんだが!?
正に推し。
推しが目の前にいる。
なにこれ最高!
…問題は中身が私な事が、非常に残念な事だけど。
どうやら私は、プレイしていた乙女ゲームの中に転生してしまったらしい。
本当に転生する事なんかあるんだ!と口から漏れ出そうな歓喜の声を手で覆って堪える。
だって見た目が殿下だしね!ほら、周りのみんなも変な目でこっちを見ている…。
「殿下…?やはりご気分が…」
「だ、大丈夫。大丈夫だから…」
いや本当は全然大丈夫じゃないけどね!
私実は殿下じゃないんですと、言える訳もなく、支えようとしたメイドさんの手を制した。
…あれ?
遮ったメイドさんの手が、一瞬強張ったのは気のせいだろうか…?
その考えも、今発した声にまた歓喜してすぐに忘れてしまった。
だって殿下の変声期前なんて貴重過ぎる、こんなに供給過多でいいのだろうか!
中身は私なのは置いておいて。
ゲームの時に出会った王子はもっと凛とした声で、それでいて強くて少し冷たい…そんな、そんな推しの幼少期の王子の声が生で聞けるなんて!
ああでも、自分で発してる声と他人が聞いてる自分の声は違うからそこは惜しい。
録音機能がある機械とかないだろうか。…いや、無いだろうな。残念。
でも後で探そう。
駆け寄ってきてくれた二人のメイドさんはずっと私の後ろで待っていてくれていた。
多分私が動ける様になるまで待つつもりなんだろう。
けれど、何かおかしい。
まるで私に怯えているような感じが…。
「えっと、心配かけてごめんなさい。私はもう大丈夫だから、二人とも持ち前の仕事に戻って?」
そう言うとぽかんと表現するのが正しいと思うくらい目を丸くする二人。寧ろその反応に私が驚きだわ!
え、私何か間違えた?異世界転送物によくありがちな頭を打ったら変わってしまった系!?
…有り得る。
一人称が違う?二人称?もしかして対応全部…っ!?
あ、ありがちって知っているのは、このゲームがきっかけでトリップ物の漫画とか、そこから派生して異世界転生物にハマっちゃったからなんだよね。
ハマったと言っても、あの職場に居る時点でなかなか見れなかったけど、隙を見ては息抜きと称して見てたから多少の知識はあるよって話!
「か、畏まりました。お気遣い痛み入ります。それではこれにて下がらせて頂きます。何かありましたらお呼びください」
頭を下げたメイドさん二人は扉を閉める音も控えめに、去っていってくれた。
「……はぁーーーー……」
疲れた。本当に疲れた。
何が正解か分からない手探りの中、殿下らしい振る舞いをしなければならない。
幼少期の説明とか思い出を振り返るとか、そんな事ゲームの中じゃやらなかったもん。
…ていうか、ヒロインや悪役令嬢側ならまだしも殿下って…!
こんなのってないよと神様を恨んだ。
私だって綺麗なドレスとか着てみたかった!勿論殿下の身なりはすごく綺麗だけど…うう。
誰も居なくなった事でようやく力が抜けたのか、へなへなと腰から床にぺたりと座り込んだ。
あ、女の子座り方出来るのか、殿下って身体柔らかい。
ああもう何も考えたくない。
夢なら覚めてと現実逃避しても覚める訳もない。
それに覚めたら覚めたで私死んでるし!
暇を持て余してしまった私は、癖で無意識に殿下の頬に触れてしまった。
…え、ふわって!ふわってした!何これ至高…!そしてどこを触ってもすべすべ。
私は決して、決して!ショタコンじゃないけれど!ずっと触っていたくなるぅ…。
…って、そうじゃない!!気を確かに持て私!!
こんなところ見られたら絶対怪しがられる。自分の肌を撫でながら恍惚としてるなんて変態じゃん!
……でもこの、この柔らかさはこの時にしか触れられないのだ。
堪能したくなるのも仕方ない。
確か殿下は剣の達人で学園でもトップクラスの成績、そして殆ど余所行きの笑顔しか見せる事がないという。
きっと筋肉もあるであろう男のそれとは違う、今しか触れない殿下の幼少期の柔らかい体を堪能出来るなんて……!
……あれ?待てよ?トップクラス?
そうだよ!この殿下完璧なんだった!
容姿端麗頭脳明晰文武両道!なんかその他諸々!それが国を統べる王になる為だからと言っていた…気がする。
どうしよう、私勉強も苦手なら体育の成績だって下の中…いや上はいくかな…?ってくらいには何も出来ないのに!
容姿端麗は取り敢えず合ってるから良し!!
維持する為に日々のスキンケアを頑張ろう!
前世(?)じゃおざなりだったしね、徹底的に肌をうるつやにしてやる。
「これ、ヒロインとか悪役令嬢に転生した方がマシだったんじゃ…?」
このままではまずい、本当に。
だって私が、あの殿下の完璧さを私がこなさなければいけない。
はしゃぎ過ぎて全く考えていなかった。
私の転生先は、とんでもないところだったんだ…。
漸くこれはやばい事態だと飲み込めた…、というか無意識に考えないようにしてたのかもしれない…。ああ…、ほっぺ柔らかい…。
「あの、ケイト様…、大丈夫ですか…?」
子供の、女の子の声と、控えめなノックが聞こえた。
私はその声にびくっと反応して、頬を弄る手を離してしまった。
一瞬誰か分からなかったけど、殿下は十歳(推定)。
この時期にもう出会っている女の子といったら、多分あの子しかいない。
そう。殿下がヒロインと共に、卒業パーティーで婚約破棄を言い渡す相手。
両家の決めた、たった一人の殿下の婚約者。
リリーナ嬢しかいない。