社会で生き抜くための正しい勉強とは。
勉強というのは一体何なのだろうか。この問いに対する明確な答えは、私の中ではまだ見つかっていません。
ですが、今の日本の学校教育が正しいとも思いません。私の考える正しい教育というのは、社会に出た時に活躍する人材を育成することです。
しかし、現在の日本の学校教育では、社会に出た時に活躍する人材を育成するのは不可能に近いです。なぜなら、基礎学力を身につけさせるのに必死で、もっと重要な課題を見失っているからです。社会に出た時に会社が欲しがる人材とはどのようなものなのか。その答えは、圧倒的に思考力と表現力を持った人材です。思考力とは、自分の力で思考を巡らし、正解へと辿り着くための道筋を立てる考える力のことで、表現力とは自分の考えを他者へ伝えたり、どのようなものなのかを説明する能力です。このような力が求められる背景には、やはり技術の大幅な進歩、競争社会といったものが関係しているのだと思います。
例えば、何か物をつくる会社であれば、必要なのは世の中に認めてもらえる新商品をつくることです。厳しい競争下に置かれている現代社会では、常に新しい商品を考え、つくっていかなければ競争に勝つことができず、生き残っていくことが難しいでしょう。そんな現代だからこそ、思考力と表現力のある人材が求められているのではないでしょうか。
これに対して、現代の日本の学校教育は、基礎学力を身につけ、社会の基本的ルールを学ぶことを目標としています。これらのことが不要だとは言いませんが、思考力と表現力が必要とされている現代において、やはりそれだけでは不十分だと言えます。思考力や表現力を身につけさせるためには、先生による一方的な講義型授業ではなく、生徒たちに考えさせる授業というのが必要になってきます。
また、知性というのは七つに分けられると言われています。言語的知性、論理数学的知性、空間的知性、身体的運動知性、音楽的知性、対人知性、心内知性。これらのうち、今の学校で測られる知性、すなわち学力として相当しているものは、言語的知性と論理数学的知性の二つだけです。つまり、どれだけ他の知性が優れていても成績が良いというふうにはならないのです。そういった意味では偏った評価であるといえるでしょう。
では、なぜ現代の日本の教育制度は偏った評価の仕方をとっているのか。その答えは、明治時代に遡ります。
明治時代といえば、数々の教育制度が完成した時代でもあります。実は、今私たちが受けている教育というのも、明治政府の考えた教育制度を修正したカリキュラムに則ったものなのです。このことについて、私の読んだ本では、学びというのは、「知恵」と「知識」と「スキル」に分けることができ、現代の学校教育では、そのほとんどが知識であると書かれていました。そして、その筆者は、今の勉強は、記憶力のトレーニングであり、あまり意味がないと言っていました。その本から少し引用してくると『意味がない勉強を何も考えずにやるトレーニングが、今の教育の本質です。それは、工場長や軍隊の命令に背かず、我慢して作業に没頭できる人材を大量生産するという、明治政府の意図に遡ります。』(10代にしておきたい17のこと 本田健 より引用)
ここから、日本の教育制度は時代の変化に対応しきれていないことが分かります。
本来、勉強というのは、生じた疑問を解決するための行為です。しかし、それがいつの日にか、基礎学力の向上を目指し、どの生徒も同じことを学習するというものに変わってしまったのです。当然、そんなことでは多くの人が勉強に対して不満を持ってしまうでしょう。今の日本に必要なのは、学習したことが将来どのように役立つのかを教えることです。そして、それを受けてなぜ勉強をするのかを考える。このサイクルが社会を発展させていくために必要なことだと私は思います。ただ言われた通りに動いて、言われたことをするだけの操り人形が必要なのではありません。自分で考えて、行動する。時代の変化に対応することができる人間が必要なのです。
このような人間を育成するには正しい勉強が必要です。ただ教えられる勉強ではない、本来の勉強。今の私たちの生活が昔に比べて充実しているのは、私たちよりも遥か昔の人間が正しい勉強をした結果でしょう。考えるという行為が、社会を発展させてきたのです。したがって、これからも社会を発展させていくためには、当然考えるということが必須条件になってきます。そうなると、正しい勉強というのは、考えるということなのかもしれません。