第一話 リチャードの出征
ローランド公国のほぼ中央部を流れる川は、その流域の長さと言い、下流域の川幅と言い、大陸西部を代表する。その川の河口近くは、低湿地と言って良い程海抜の低い平野部が広がっている。そこから、やや上流側になると草原と言って良い地形になっていて、その地形を利用した羊の放牧が盛んだ。
エングリオは、現在のローランド公領から傭兵として白い島に渡り活躍して領地を得た戦士の子孫が勢力を拡大し遂には建国した国だ。従って、ローランド公領の民は、制圧者であった東リーベル王国以上にエングリオに親近感を抱いていた。ましてや、今や三か国に分裂してしまってはいるが、その元になる巨大なリーベル王国を建国したリーベル人とは違う部族であっただけに猶更だ。過去幾度となく反乱を起こして来た歴史が語る様に、言語、習慣、風俗といった文化の違いは大きく、ましてや宗教の違いは大きかった。ただ、年月を経て改宗が進み、そしてエングリオが東リーベルと婚姻外交を進めた結果、かなり緩和されてはきていた。しかし、それは貴族階級同士の付き合いだけで、支配者階層と一般民衆にはやはり乖離があった。また、それらは、旧西リーベル王国領であった川の西側地域においては関係が無かった。リチャードが公国領とした土地は、その様な歴史的背景がある。
一方のリチャードは、先年の戦争を中断させる一因ともなった西リーベル海岸部における疫病の蔓延対策にいち早く取り組んだ。魔法水の効果を知っていたからだ。その点、魔法に疎く、魔法水の使い方すらよく分っていなかった西リーベル側の対応とは明らかに異なった。結果、民衆は、先祖を同じくし、他部族の支配者階級を追い払い、民衆の疫病対策に積極的に取り組んだリチャードを、言わば郷土の英雄の様に扱い、その人気は絶大なものがあった。昨年晩秋の頃、東リーベル南西部の貴族が王家に対して反乱を起こした時、セルディック王率いるエングリオ王国軍と共に川を上ろうとするリチャードを、民衆は歓声を上げて見送った。そして、ほぼ損害がない状態で年内に解決してしまって凱旋した時は、さらに大きな歓声をもって迎えたのだった。
そのローランド公国領の川の港に、エングリオ軍が続々と軍船を送り込んで来た。東リーベル本軍及び南西部の諸貴族との連合軍との連携を取っての事だ。敵は西リーベルであり、恐らくは西リーベル国王が直接率いて来る。疫病の蔓延が終息に向かいつつあることもあり、大きな戦になる事が予想された。
今回のエングリオの出兵は、無論セルディック王の指示によるものだ。しかし、当のセルディック王は、国内に残って魔王軍対策をやっている。そして、軍の重鎮であるモーティマー辺境伯は、留守居部隊と共に居残っている。兵の指揮を執るのはローランド公リチャードである事は明白だ。それだけに、川の西側……つまり、旧西リーベル領だった土地の者は、西リーベル時代に自分達に圧政を布いた西リーベル貴族を憎悪している……先年の戦争の時の様に、リチャードが活躍して西リーベル軍を蹴散らしてくれるものと期待していた。
「リチャード様、エングリオ軍の野営地への入営は概ね終わった様です」
報告を受けた公国宰相が声を掛けた時、ゲルマニア公リチャードは、川沿いにある砦の広間にいた。今回の東西リーベルの争いでは、ローランド=エングリオ連合軍凡そ三万弱を率いる事になる。
「そうか。じゃあ、そろそろ皆が集まって来るかな」
「左様ですな。早速、軍議を行いますか?」
「そうだね。皆の顔と名前くらいは憶えておかないとね」
「左様ですな。今回は、セルディック王の直属を始めとして、馴染の無い者達も多く参加しておりますからな。リチャード様が自分の名前と顔を覚えてらっしゃるとなれば奮いましょう」
「まあ、名前と顔が一致しなくても何とかなるけどね」
「リチャード様!」
「冗談だよ。冗談」
エングリオから出征して来た兵士は、セルディック王の直属軍、モーティマー辺境伯軍、そして、軍役の代わりに金銭を支払った貴族が増えた結果エングリオ国内に組織された多くの傭兵団が多くを占めていた。無論、幾人かの名の知れた貴族も兵を率いて来ているが、エングリオ東部の兵を率いていたリチャードにとっては、あまり馴染の無い連中だった。
そう言った実態を知っている東リーベル貴族の一部では、寄せ集め集団と陰口を叩く者もいたが、リチャードは平気だった。
(さて、三万近い兵士がいたら、兵をまとめ士気を維持するのが大変だ。こちらの指示通りに動いて貰わないとな。そのためには、どこで実入りを増やしてやるかだ)
騎行……。西リーベル軍を引き付け、あわよくば二分させる。そのために、どこを通り、どこを荒し、どこで決戦をするか。
リチャード自身の考えはすでにまとまっていた。後は、エングリオ軍の幹部が承諾するかだろう。
「リチャード様、おっしゃられた事はよく分かりますが、少々危険ではないですかな?」
エングリオ軍を率いて来た大貴族が、リチャードの説明した作戦に異を唱えた。エングリオで最も戦が上手いのはセルディック王、次にモーティマー辺境伯とされている。その二人の陰に隠れがちではあるが、発言した大貴族は堅実な戦に定評のある男だった。大崩れしない。それだけに慎重だった。
「危険か?」
リチャードは、微笑みながら聞いてやった。一旦相手の意見を全て引き出してやるべきだからだ。
「はい。何故かと申しますと……」
リチャードの作戦は、先年の戦で騎行を行った経路のよりも北、つまり西リーベルの北部海岸部近くを襲撃しつつ西へ進むというもので、その先には、西リーベル王都がある。敵の本軍が迎撃に出てきかねない経路だった。リチャードは、敵の軍勢がこちらに向かって来たら、わざと追尾させてどこかで迎撃戦を行う。特に相手が本軍の場合は、東リーベル軍と連携を取って味方が有利な地におびき寄せる。囮部隊としての役割を機動に含めていた。それはそれで成立するだろう。しかし、応援……つまり、余り被害を出したくない……としてエングリオから来た大貴族としては、東西リーベル本軍が対峙した時に、西リーベル軍の背後を断つべく側背を機動した方が良いと言うのだ。正論だろう。堅実なだけあって、被害も少なく、かつ有効な戦術と言えた。
「しかし、それでは略奪するものが少ないぞ。食料はどうする?」
「河川の便を持って補いましょう」
「我が軍の海軍では無理だ。元々の兵数が違うからな。とても賄いきれん」
今回の兵数の割合で行くと、ローランドは全軍で一万程度だから、守備兵を残せば外征軍は七、八千程度になる。無論全てを運ぶだけの船は無い。元々、部族が違っていただけに外征軍用の船舶数が少ない。
「リチャード様、エングリオ海軍は兵をここまで運ぶだけではありませんぞ」
「兵站の輸送を請け負って貰えるのか?」
「当然の事、セルディック王からは、リチャード様の助けになるようにとの指示を受けております。ましてやリチャード様はエングリオの王太子。何の遠慮が要りましょうや」
「では、貴公は、どの様に機動するのが良いと思う。俺が思うに、東リーベル本軍よりも先に我らが動いた方が、牽制の効果が高いと思うが」
「左様ですな。では卒爾ながら……」
そう言って派遣されてきた大貴族が示したのは海岸部に沿っての機動では無く、逆の内陸部への機動だった。ローランド公国を出た後は、南西部へ大きく左回りに回る様に騎行し、途中変針して、そのまま出発点に帰る経路だった。もし、西リーベル本軍が大軍を差し向けて来ても、真っ直ぐ東へ走れば国境を越えて川に出る。その川はローランド公国領の真ん中を流れる川だから、エングリオ海軍の輸送力が生かせるわけだ。
実は、この経路は、リチャードが最初に思いついた経路と似ていた。先年の戦争時と同じだ。違う点は、前回は内陸部を南西方向に向かって長いだ円形に機動して出発点に戻ったのだが、今回は海岸部から南西方向に向かって長い楕円の機動をする事だ。それだけ、西リーベル本軍とは遠くなる。問題は、農村部なので実入りが少ない。食料は手に入るが、兵士の厭戦気分が高くなりやすい。リチャードはその点を再度指摘した。略奪する事により兵士が一時的なボーナスを得る事は、公然の事実であり、特に傭兵達においてそれは顕著だった。
「これはリチャード様の言葉とは思えませぬ。我が軍は確かに軍制度の変更によって傭兵が多うございます。しかし、彼らとて軍制が変更になる前は歴とした騎士。規律は正しいですぞ」
憤然として言い放った大貴族に対して、リチャードは内心ほくそ笑んだ。これで、援軍は嫌でも少ない実入りを受け入れざるを得ない。士気は連戦連勝を重ねる事によって高める事になるが、その点については自信があった。なにせ、敵兵力が大した事ないのだ。
「済まない。俺の目が曇っていた様だ。謝ろう」
「分って下されば。では、先ほど私めが申し上げた機動でよろしいか?」
「ああ、そうしよう。ただし、出発点と後半部分を修正したい」
「出発点と後半部分ですか?」
「そうだ。出発点はエングリオ海軍の輸送力を使って少し上流に上がってからとしたい」
「出発点は、森の只中になりませんか?」
国境地帯は大陸西部域でも有数の森林地帯になっている。
「正確には森の北の端だ。狭いが街道がある。兵力を隠す事も出来るから、兵站の輸送に使いたい。こちらの森には魔獣がいないからな。安全だぞ」
「なるほど。そして、後半部分は、東西の決戦に間に合う範囲ですな」
「その通りだ。つまり、全軍が元には戻らぬ。今回は東西リーベルの本軍が対峙する可能性が高い。そうなった場合に備えて、我が軍は遊軍として西リーベル軍の北に位置したい」
「こぞって決戦に参加なさるお積りで」
「そうだ。出来れば決定的な役割を果たして、東リーベル王の勝利に貢献したい。そのためには、全軍がまとまった動きをする必要がある。エングリオ軍の指揮権が必要だ」
ふむ、と大貴族は考えた。
ローランド公リチャードは、先の東西リーベルの戦争と、昨年秋のセルディック王との共同作戦において見事な手腕を見せた。今や、戦立てにおいては父王を上回るのではないかとの評価を得つつある。ここで無碍に自分が反対し、略奪しただけで戦が終わってしまっては自分が足を引っ張ったと噂されるだろう。軍規律についての話は、恐らくはこちらの内情を確認したかっただけだ。ならば前半部分についての意見を汲んで貰っただけで良い。決戦が東の負けになったら、それは東リーベル王の責任だ。もし勝ってこちらが決戦に参加していなければ、自分が敵味方に臆病のそしりを受けるかも知れない。しかも、リチャード様のおっしゃる様に遊軍には一体となった進退が必要だ。リチャード様の言い分では、東側が森林地帯で周辺部にも小さな森が幾つかあるから、伏兵を配置しやすい。つまり、兵数に劣っても戦える。ここは戦上手のリチャード様に任せるか。
そこまで考えを巡らせた後、リチャードの顔を見た。
「分かりました」
「俺にエングリオ軍の指揮を任せて貰えるか」
「はい。お任せします」
「恩に着る」
こうしてリチャードは、副将となる援軍を率いて来た男の面目を保ちつつ、エングリオ軍の指揮権を手に入れた。
六月の半ば、エングリオ軍を含めた三万弱の軍勢を率いたリチャードが出撃した。河口近くの港から船に乗っての出撃だ。出撃に当たっては、川の沿岸の住民が大挙押し寄せた。
「昨年の秋もそうでしたが、今回も素晴らしい光景ですな」
副将格に任ぜられてエングリオ軍の大貴族は、上機嫌で歓声を上げる群衆を見た。隣にはリチャードがいる。つまり、副将として、住民への顔見世が行われている様なものだ。歓声の大半は、リチャードの名を呼ぶものだが、時折、大貴族の名が呼ばれた。リチャードを頼むと言うのだ。
「貴公も有名になったな」
「いやはや、気恥ずかしいものですな」
「この地は、我が王家の、そして貴公の先祖の地だ」
「はい。この様な歓声を受けると、感慨深いものがあります」
サクラではないか? 大貴族はそう思いもしたが口にはしなかった、例えそうであれ、その様にリチャードが気遣ったのであれば、それはそれで来た甲斐があったと言うものだ。なんと言っても、リチャードは時期エングリオ国王なのだ。自分に対しての気遣いが不利に働くわけが無い。
「今回の戦いは、東リーベル王を何とかして勝たせたい」
「左様ですな」
実現すれば、ローランド公リチャードの名は轟き、同時にエングリオは今以上に強力な東リーベルの支援を受ける事が出来るだろう。不幸な事に、エングリオ北部には、小国セルトリアに老齢とは言え戦の天才が二人もいる。事実、東へは領土を拡大出来たのに、北では何度も煮え湯をのまされているのだ。当代国王と王弟も侮れない。その二人と結束を結んでいるジェームズをはじめとする各国の王太子達もだ。エングリオには東リーベルと言う後ろ盾が必要だ。大貴族は、そう思っていた。
「力を貸してくれ」
「ご遠慮なきように」
「頼んだぞ」
リチャードは、父親であるセルディック王がエングリオ軍を率いる将としてこの男を選んでくれた事に感謝した。最初は、モーティマー辺境伯が来ると思っていた。しかし、そうでは無かった。名前を聞いた時、本当に覚えが無かった。思わず、公国宰相に、誰だと聞いたくらいだ。
「爺、誰だ、こいつは?」
「こいつは、とはまた失礼ですな」
「済まん、済まん。本当に覚えがないのだ」
爺は盛大なため息をついた。
「ボルツ卿は、エングリオ初代国王に付き従った者の血を引く名家の出ですぞ」
「そうだったのか」
「ええ、分家ですから目立ちはしませんが。セルディック王が指揮した二度の北征に参加しております。セルディック王陛下が格別に目をかけていた将のお一人です」
「ほほお。その様な男がおったのだな」
「はい。先の戦争後の軍制の改革で、直属軍から抜擢されて一軍の将になりました。彼は兎に角、堅実でしてな。レグネンテスでの敗戦時の殿を任されていたくらいです」
「良くも生き延びたものだな」
「いぶし銀の戦巧者です。此度の戦でも必ずや力になりますぞ」
「分った。よく覚えておく」
父上が見込んだ子飼いの将か。お手並み拝見だな。
リチャードは、やや頬を紅潮させて歓声を上げる住民に向かって手を振るボルツ卿の横顔を見て、そう思った。




