第一話 プライモルディアからの使者
セルトリア王都域は北方が海に面しているのだが、王都は内陸にある。
そのせいで海鮮物の料理が、平民の食卓に上がる事は無かった。
魔法を使った冷蔵技術はあるのだが、その分値が張るからだ。
海岸地帯との物流は川を上り下りする川船が主体なのだが、氷室のような大型の冷蔵施設を載せられるわけもなく、運ばれて来る物は既に火が通っているものか、陽に干した干し魚や塩漬けであった。
凍り漬けにした物もあるにはあるが、値が張る割には水っぽく味が悪いと、ほんのごく僅かだった。
それが値段が安くなったらしい。
王宮勤めの役人が固まって住む区画。その奥まったた所に居を構えた男が、妻が作った海魚の料理を見て驚いた。
「これは、海の魚では無いのか?」
「ええ。今日から市場に出たのです。生魚を初めて買ってきました。まだ値段は高いですが、珍しいのか買っている人が結構いましたよ」
妻は普段は市場に行かないのだが、今日は公休日とあって使用人と一緒に買い物に行ってきたらしい。
「これもあの川船の効果かな?」
「その様ですね。今まで翌日にならないと着かなかったのが、三時間少々で着く様になったそうですよ。夜明け前に積んだ荷が、朝市には間に合うそうです。大量に運べる分単価も安くなったのでしょう」
一家の主が聞くと、黒髪の妻が答えた。
「ジャンヌの嘴号だったかな?」
男が可笑しそうに笑う。
「そうですね。名前の持ち主が発明したわけでは無いそうですが、縁はある様ですよ」
「こういう所でも耳にするのだから、大した神官だな」
「本当に。今日はお義母様とも一緒に市場へ行ったのですが、同じ物を買っていました。きっと、今頃は私達と同じ様な会話を交わしていますわ」
夫婦は顔を見合わせて笑うと、使用人を含めた家族皆がテーブルに着いたのを見て、手を組み食前の祈りを始めた。
翌日の王宮は海魚の話で持ちきりだった。
そこかしこで、食べた、食べない、の話が出ていた。
家族持ちは市場で買った物を、独り身は食堂で。
値段は川魚の三倍はするが、今までは料理したての新鮮な海魚など、出回る事すら無かったのだ。
夏季攻勢も期待された成果を上げ、王都の景気も良くなってきている。
魔王を討伐する日も近いのではないか、皆楽観的になってきて、秋の実りと併せて、華やいだ雰囲気に町が包まれてきた。
そういった明るい雰囲気は、王宮の謁見の間控室でも同様だった。
国王、国家宰相に、王国軍兵団総長、王宮警護官長といったいつもの顔ぶれに加え、帽子脱いで話す事の出来る仲間が一人加わっていた。
「久しぶりだな。ジョーンズ。どうだ、中の原は?」
国王が衛兵隊の制服を着た男に声を掛ける。
「なかなか楽しいぞ。あの町は毎日が発見だ」
ジョーンズは愉快そうに笑い、ビールに口をつけた。
「あなたの作ったジャンヌの嘴号のお陰で、海の魚が比較的簡単に食べられるようになりましたよ。今回伝えて頂いた硝石の作り方と言い、お礼を言わないといけませんね」
宰相も楽しそうだ。海岸の漁村の経済に大きな貢献がある新しい技術を大いに歓迎していた。大漁でも大半が加工に回されてしまう。もちろん、それでも金は落ちるのだが、鮮魚ともなれば値段が違う。それが王都ともなると飛ぶように売れるのだ。
今や、河口の村は漁船が獲れた魚を降ろす拠点として、発展が期待されている。
硝石については、まだ結果が出ていないが、なにせ精霊の言う事だ。間違いない、と信じていた。
「嘴は俺が作ったんじゃない。手直しを手伝っただけだ。元はマルセロ商会のパウル殿だ。だから、名前の由来がジャンヌ神官なのさ。お前達も良く知っているだろう?」
その場にいるものから笑みがこぼれる。ジョーンズの言う様に、彼らはその名の人物を良く知っていた。
「しかし、ジョーンズ。何故あの船はジャンヌの嘴と呼ばれているんですか?」
ジョーンズが宰相に理由を答えると、その場が笑いに包まれた。
普段表情を変えないヒューズ王宮警護官長も笑っている。
「何にせよ。ジャンヌは皆に慕われておる、という事だな」
兵団総長がビールを飲み干すと、ここでも人気ですからね、と宰相がお代わりを渡す。兵団総長は、すまんなと頭を下げながら、一息に半分ほど飲み干し、エヴァンスの冷やしたビールが一番だな、と言った。
「ジャンヌは、今や中の原と東の原の猟兵隊の守り神だぞ」
「いや、それ以上にこの国の国王陛下の愚痴の聞き役ですからね。そういう意味では、我々にとっても守り神かも知れませんよ」
兵団総長と宰相がニヤニヤすると、国王が王宮警護官長を見る。ジャンヌとよく話す様になった彼に、救いを求めたのだろう。
王宮警護官長は二度深く頷き、それを見た国王は肩をすくめるしかなかった。。
「ハリスはまだ帰って来んのか?」
ひとしきり国王をいじった後、兵団総長が話題を変えた。
「ああ、今しばらくかかるとの連絡が来た」
国王が答えると、兵団総長の表情が暗くなる。
「つまり、何か見つけた、という事か」
「恐らくな。メディオランド王からの親書には、国を挙げて調査をする、と書いてあった。もしかしたら、ハリスが言っていたとおりになるかも知れん」
「失われた古代の魔法とその儀式か。気が重いな」
彼らの手に余る問題だ。いや、教会の神官でさえ対処できないだろう。
「そう難しく考えなくても良いのではないですか? なにせメディオランド王と王太子殿下が関わっているのですよ。何か分かってもお任せすれば良いのですから」
「そうだ。ビクター。我らだけで背負う荷では無い。そう思い詰めるな」
国王と宰相に慰められた兵団総長は目を丸くした。
「なんじゃ、お前達の心労を考えておったのだが、そう深刻に考えんでも良かったのか?」
「すみません、ビクター。私も深刻に受け止めていました。でも、我らの王陛下に良い事を聞いたのですよ」
「なんじゃ、一体?」
「結果について思い悩むのでは無くて、出来る事だけを考えろと。心を静めてなんとかなると楽観視して、今出来る事に一生懸命取り組むのです。少なくとも精神的には楽ですね」
「なるほどの」
国王を見ると、手を振っている。
「いや、俺では無い。ジャンヌ神官が普段から心がけているのだそうだ。孤児院では時に深刻に将来を悩む子供達がいる。その時には、一緒に何をすれば良いかを考えて、思い悩まぬように導くそうだ」
「考え付かなかった時は、思いつくまで待てば良いと。それまでは、なんとかなる。大丈夫。と十回唱えて伸びをすると良いそうですよ」
二人して、クスクスと笑っている。
兵団総長は、首を傾げた。
まるで、彼が年少の時に母親に言われた様な事だ。
「なんじゃ。ジャンヌ神官は、国王やヒューズだけでは無く、エヴァンスの護り神でもあったんだな」
兵団総長が言うと、ジョーンズがヒューズにビールの入ったコップを渡し、自分のコップを掲げた。
「将来の事を深刻に考えて絶望するくらいなら、酒を飲んでその時を楽しんだ方がマシだ。ジャンヌ神官に乾杯」
「ジャンヌ神官に乾杯」
皆が杯を掲げた。
皆笑顔がこぼれている。
このように穏やかな、そしてある意味、無責任で気楽な言葉を聞くのは、いつ以来の事だろう。
「誰か来る」
扉横に腰かけた警護官長の言葉に、皆慌てて居ずまいを正す。
ジョーンズは、警護官長の持ったコップを受け取り、宰相に渡すと、警護官長の横に佇立した。
彼は、表向き警護官長の腹心ではあるが、つまりは部下であり、国王や宰相達と同じソファに座る資格が無い。
いざ、となれば身を隠す場所もあるのであるが、そこまでは良い、と国王に留められた。
扉をノックする音がすると、警護官長は皆が帽子を被っている事を確認し、二重の鍵を開けると、扉を開いた。
そこには、日頃から公私ともに国王の取次ぎを行っている使用人が立っていた。
「陛下。西の端の猟師から届け物が届いております」
猟師からの届け物とはつまり、潜入していた密偵が来たという事で、西の端とはこの島の西の端、つまりプライモルディアから来た、という事だ。別室で会わないといけない。
「分かった。王妃に伝えよ。ヒューズ、エヴァンス、先に行っておいてくれ。ビクターとジョーンズはまだ聞きたい事があるから、ここに残ってくれ」
支持を出し宰相と警護官長を見送った後で、王妃が来ると、王は控えの間を出て行った。
兵団総長が立ち上がってビール樽の所にジョーンズを誘い、立ち話を始める。今はジョーンズがソファに腰かけるわけにはいかないからだ。
「プライモルディアから情報か。ジョーンズ、何か知っておるか」
「分からんな。また、エングリオが難癖をつけてきたのではないか?」
「あの国の王は、先代王の弟君であったな」
「ああ。先代王が戦争中にみまかられたからな。王太子が幼かったので弟君が跡を継いだ」
「勇敢な方であった。ご立派な最後だったときいておる」
二人してコップを掲げ、先代プライモルディア王に捧げた。
「ところでジョーンズ。今のプライモルディアは大丈夫なのか?」
そう言いながら、兵団総長は、いつもビールを冷やしてくれる宰相がいないので、氷室の氷を取り出してグラスに放り込もうとしている。
「弟君はなによりも血脈を途絶えさせる事を恐れている。頃合いを見て、先代の御長男に譲られるかもしれんな」
ジョーンズは特別警護官と呼ばれる、国王直属の斥候で情報通だ。今は中の原教会との情報交換を担当していた。
教会は教会同士の国境を越えた連絡網がある。セルトリアは国教会として国内の教会の運営を支援しているので、内部に情報提供者を持っている。
そのジョーンズが、兵団総長の仕草を見て、フリーズの魔法でビールを冷やしてやった。
加減が難しいが、何とかなったようだ。
「悪くない。ありがとう」
兵団総長が確かめるように一口飲んで礼を言う。
「先代王は大貴族の力を削ごうともしていたな」
「そうだ。メディオランドを見習って、国王直属の常備軍を拡充し、貴族の兵役を傭兵を雇う金を支払う様に替えようとしていたが、今の国王には理解出来ないようだ。補佐する者もそう大した人物はいないのだろう。それだけに未だ大貴族が幅を利かせている」
「脆いな」
「まあな」
二人が他国の事について、あれこれ、と話をしていると、国王が帰ってきた。
あまり穏やかな様子では無い。
扉に鍵が閉じられ、皆が帽子を脱ぐ。
「ビクター、ジョーンズ。プライモルディアの使者が伝えてきた事だが、少々面倒な事になりそうだ」
国王が内容を話すと、兵団総長の眉間に皺が寄った。
「エングリオが駐屯軍を春までに倍に増やしたいと……」
「そうだ。今五百いるのを千にしたいそうだ。要求を呑まなければ、どうなるかは分からんと」
「プライモルディアの常備軍は二千ほどだったか?」
兵団総長が警護官長を見ると、頷いている。
「春になって、国境の砦を越えて、一万ほどが攻めてきたら、到底もたんな」
「ああ。メディオランドから嫁いでいかれた先代王妃がいらっしゃるから滅ぼされる事は無いだろうが、傀儡になって乗っ取られるかも知れん」
「そうなると、次はレグネンテスか」
「レグネンテスの次は我が国だな」
レグネンテスが落ちると、セルトリアは西と南の二方向で国境を接する事になる。補給や略奪の容易な陸上の進軍路が二方向に出来るのだ。未だ発展途上とは言え、海上輸送力も無視出来ない。海路を加えると三方向になる。
「この事、メディオランドには?」
「プライモルディアからいっているだろうが、念のためロバーツに連絡する予定だ」
「春にはいよいよ攻め込むつもりか。やはりあの砦は障害になったな」
皆一様に黙り込む。
エングリオがプライモルディアとレグネンテスを攻略する時間……一年はもつだろう。しかし、二年もつ保証は無い。
「大丈夫」
日頃口数の少ない警護官長が口を開いた。
皆一斉に警護官長を見ると、軽く微笑んでいる。
「なんとかなる。大丈夫」
十回唱えて、大きく伸びをした。
国王を始め、微笑みとも苦笑ともいえない表情が広がる。
「そうですね。心を落ち着けましょう。まずは、ビールでもいかがですか?」
宰相がにこやかに言うと、皆一斉に空のコップを差し出した。