死滅の谷の唄
「グリフェ……愚かな真似はやめろ……ギャリオッツ帝国はやがて世界を制覇する大国だぞ。人口200万を超え、軍隊はおよそ3万5千……それに逆らうなど、狂気の沙汰と思え……」
地上10メートルを空中浮遊するルパート・エッガー大佐が傲慢な表情で見下ろす。
「確かに、まともにやりあったら敵わねえ……だけどよ、その3万5千の軍隊が一大佐のあんたが呼んだらすぐに駆けつけるのかい? ドラッケン将軍様の女漁りを邪魔する不届き者がここにおるぞよ! ってな……」
せせら笑うグリフェに、ルパート大佐は二の句が出ない。いくら帝国主義で他国を攻める軍事国家であっても、それなりの大義名分を用意しておかねばならない。ルパートが軍服でなく、私服で忍んで訪れたのは人目を気にしてのことだ。
「それによ、片眼鏡大佐殿はこのアンドレア誘拐の件を大事にしたくないんじゃあ……ないのかい?」
「ぐっ…………」
ルパートは血の気がひいていくのを感じた。グリフェは猛禽のごとき鋭い目で見抜いていた。ルパート・エッガー大佐たち秘密警察は軍服ではなく、私服できたのは、堂々と侯爵令嬢を連行することができないからだ。
中世の独裁国家ならいざ知らず、現代の他国地での話だ。ギャリオッツ帝国の戦略家として名高いギュンター・ドラッケン中将が、プラグセン王国の美女たちを愛人として集め、名花として名高いアンドレア侯爵令嬢をも、側室として差し出させたという話が他国にでも広がればちょっとしたスキャンダルである。
「そういや、少し前、クレッチマーの醜聞事件てのが、あったなあ……」
「…………」
4年前、ギャリオッツ西部に領地をもつクレッチマー准男爵という男がいた。息子に家督を譲り、首都の貴族街で悠々自適の生活をしていた。この男、表の顔は真面目な砲兵隊長なのだが、裏ではかなりの好色家であった。
従者頭の妻に横恋慕し、従者に用をいいつけ、その間に無理矢理関係をもった。その後も密通をばらされたくなければと関係を強要し続けた。
ある日の夕暮れ、従者頭が納屋の壁のスキマをのぞいている庭師と遭遇。男女の密通を覗き見しているという。興味を惹かれて従者頭も覗いてみると、女は自分の妻だった。逆上した従者頭は納屋に短剣をもって乗り込んだ。相手の男を切り刻んだが、その相手は自分の主人であるクレッチマーだと気がつき、慌てて逃げ出した。
しかし、パニック状態の准男爵は血だらけの半裸状態で、隣家の親戚の家に駆けこんだ。クレッチマーの親戚たちは、准男爵の人倫にもとる密通と、帝国軍人らしからぬ、あまりの浅ましい姿に呆れ果てた。衝動的に彼らはクレッチマーにトドメを刺して、彼は物取りに殺されたと、帝国警察に報告した。だが、その醜聞はのちに露見し、自国はおろか、他国にまで噂は広まってしまった。
いくら箝口令をしいても、人の口に戸は立てられない。もしくは、アルヴェイクやメルドキアの情報員や密偵が意図的に噂を広めたのかもしれない……かくて、ギャリオッツのクレッチマー准男爵家は失笑の対象となり、没落していった……
砲兵隊長の准男爵と戦略家の将軍伯爵では、受け止められ方も違うであろう。が、ルパートがドラッケンに不興を買うのは確実だ。それこそがルパートにとって、もっとも恐れることなのだ。
「……貴様だけは生かして帰さん……ボジョビーク! 『死滅の谷の唄』だ!」
憤怒の形相のゴーレム・ボジョビークが古代ジュラダ語で呪文詠唱をはじめた。それは聞く者を不安にさせる呪われた旋律を秘めていた。
グリフェは今までの戦いの経験から、これはとてつもなくヤバい事が起きると予兆した。呪文が完成する前に倒さねばならない。彼は装甲がひしゃげた工業用ロボット・マリウス2000の両腕を垂直に上げさせた。
そして、右手が前に、左手が後ろへゆっくり回転していく。上半身が180度回転し、まだ止まらず一周した。マリウスは下半身と頭部のを繋ぐ動力部以外の上半身を360度回転させる事ができる。さらに、上半身の回転は止まらないどころか、徐々にスピードが上がっていく。そして、呪いの旋律を奏でるゴーレムめがけて、白煙を吹きだして突進していった。マリウスが巨大な回転翼機と化して、ゴーレムに特攻をかける。
「くらえっ、大回転ダブルラリアット!」
ラリアットとは、南域の牧童が牛や羊を捕えるときに使う投げ縄打ちのことである。ある南域の力闘士が、見世物興業で片腕を横に突きだして、対戦者の胸部やのど元に叩きつける力闘士の技であり、これはその変形バージョンである。無論、人間には再現不可能だ。
「呪力砲――発射!」
しかし、ボジョビークの呪文詠唱のほうが早かった。ゴーレムの口腔内に青い陰火が点り、魔法陣が浮かび上がる。蒼白い光が広がっていき、突如、まばゆい光の粒子が束となって放出された。それは蒸気式機械巨人の上半身に覆いかぶさり、蒼白い光輝で包んでいく。
やがて、巨大ロボット・マリウス2000の装甲は赤茶けた色彩に覆われていく――装甲の金属が電子を失ってイオン化。鉄が大気中の酸素・水分と酸化還元反応――すなわち腐食を始めたのだ。鋼の巨人はたちまち赤錆に浸食されていき、歩みを止めて崩れていった。装甲だけでなく、なかの鉄骨や制御装置、蒸気機関まで赤褐色の粉末になり、ボロボロと剥がれ落ちていった。これが、ギャリオッツ帝国魔術省が開発に成功した最新魔導兵器――呪力砲『死滅の谷の唄』である。
科学文明の発達したメルドキア共和国の機械化装甲師団の主力戦車、自走砲、ミサイル車両を無効化すべく開発中の魔導兵器のひとつであった。やがては量産され、メルドキアにとって、大いなる脅威となるだろう。
「見たか、呪力砲『死滅の谷の唄』の威力を……ふふふふふ……もっとも、グリフェもすでに赤錆の粉のなかで骸となっていようがな……」
秘密警察室長はゴーレムの肩の手すりにつかまってひとりごちる。念動力の使い過ぎで、もう魔力値はゼロに近い。
「よくもマリウスをスクラップにしてくれたなっ!」
ルパート大佐はギョッとして声のした方角を凝視。空中に大きな鳥影があった――いや、グリフェだ。グリフェのロングコートの背中から翼長4メートルにもなる黒褐色の羽根が生えていた。
彼はこんな異形の人間は今まで見た事がない。いや、記憶の検索機能が翼の生えた人間についての情報を探り得た。
8年前に地上から消え去った滅亡国家・クロウカシス王国――そこに所属した特殊部隊――かつて、ギャリオッツ軍が〈悪魔〉と呼び、恐れおののいた化合人間部隊――通称〈キマイラ〉だ。
フリッツ・ラング監督の「死滅の谷」って、今では「死神の谷」という名でリリースされていたのね……
まあ、確かに死神の話だけどさ……なんか一字違いで情緒がかけるような気がするなあ……