三十二万石
しずくを送り出してから早半年ほどが経ち、蝦夷の地の情勢は大きく変わった。
信広・下国師季両名ともに幼くして当主になった境遇からか、共感できる同年代の友達という雰囲気で頻繁に文のやり取りをしていたようであり、新しい環境での生活に慣れてきたというしずくからの文が一緒に届けられることもある。
師季くんからの文には愚痴も多分に含まれており、随分と家臣の取りまとめに苦労している様子がみえるという。彼の悩みの種はいまだに先代を殺された恨みに囚われすぎている者らであり、蠣崎家が掲げるアイヌとの共存共栄という方針にすらケチを付け、今まで通りのやり方で搾取しようという時代遅れの考えを持つ保守派である。彼らを上手いこと手懐けるなり粛清するなりして、家中を統制するのが師季君の直近の課題となろう。
信広には親父が付いていることで目立った家中の乱れは無く、中立だった穏内館・脇本館の豪族らもここに来てようやく傘下に加わることを決意したことで蠣崎家の勢力は拡大。それに伴い穏内館は再建が決まり菰土家の統治時代の重臣であった小山興重を館主に任命、彼の統治の正当性を周囲に認めさせるため将来的に婚姻を結ぶことが決まった。
脇本館の方は元々の館主であった南条氏を推す声が根強く、従兄弟の基広に近しい南条守継を任命、以前当主の座を狙った二人を自然な形で物理的に引き離すことができた。
勝山館主であり長いこと病に伏せていた叔父の高広は、南条氏の脇本館主復帰に伴って隠居を決意。家督と勝山館主の職を基広に譲ることにした。
その他の館に地縁のある豪族らについては地理的な問題から下国家の庇護下に入ったが、館の再建費用を捻出する余裕などあるのかは甚だ疑問だ。
なお、新たに二つの館が商圏に加わったことや、津軽地方西部(十三湊と能代湊の中間)の鯵ヶ沢湊を含むいくつかの座との取引が決まったこと、かねてより発注していた商船が納入され取引量を増やせたことで、南渡島会社の業績はうなぎ登りで嬉しい限り。
今日も厚岸からは、首長の舟に牡蠣が満載されてやってきた。この舟は一見通常の牡蠣輸送をしているだけなのだが、松前湊に到着すると人目の無いところまで入っていって南渡島会社の舟に荷を積み替える。そして南渡島会社の生牡蠣専用船が、人目の多い海域では快速の文字を大書した旗を掲げて取引先の湊へと全速力で突き進むのである。
各地の湊で生牡蠣ブームが巻き起こったのは当然の流れかもしれない。猛毒の魚を食うために調理師免許制を導入したり腐った豆を好んで食べたりする民族であるから、危険と言われていた生牡蠣を食うことの驚きが興味をそそり、自分で好きな調味料を垂らしてちゅるっとやるのが大うけしているらしい。
また各種矢羽根類とアイヌ刀、アットゥシは浪岡北畠家に納められたことで商品とそれを扱う南渡島会社の名を高める結果となった。蠣崎家配下のオタウシの集落では戦争の影響で男手が少なく狩りをするのも一苦労という状況であったために、女房衆の作るアットゥシの売り上げが馬鹿に出来ず頭が上がらないのだとか。ニシラケアイヌ首長からもいつでも注文を受けられると連絡が来た。
できるだけ領内での生産を優先したかったのだが、漁師たちの口コミで船上での作業着として需要が急増しているために外注の必要が生じてきているんだ。
これら諸々の事情から現在の渡島は今までにない好景気に沸き、各地から人が集まってきている。その中には南渡島会社が攫ってきたも同然の訳有り者や食い詰めた百姓らも含まれている。
彼らよそ者の流入数が当初の予測を大きく越えて増え続けると、既存の町や村での仕事の斡旋や住居の建設が間に合わず、彼らが暴徒と化すことを抑止すべく新たな土地の開発をする必要に迫られた。
土地の大部分が未だ未開拓である蝦夷。その無数にある候補地から選ばれたのは、北西部の工藤祐致が城代を務める花沢館のほど近く。アイヌの勢力下にある天ノ川より北を開拓してハシタイン族長率いる勢力との交流拠点を作ったのが事の始まりだった。
ここより先は、和人未踏の地である。
短いですが縁組や商売の結果をまとめたところで渡島二頭誕生編・完
という感じですね(まだ続きます)。
10/1修正完了
執筆なう。




