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二十八万石

 本州と蝦夷を繋ぐ流通拠点として栄え、日本十大港湾とされる三津七湊さんしんしちそうにも名を連ねる十三湊は、湊の大きさに比例してか町の中にも潮の香りが色濃く漂っている。


 そんな中にあって、俺の居る座の寄合所の一室ではひときわ磯臭さが強く漂っていた。今も座衆の一人が耐えかねて、部屋の仕切りを開放して空気を入れ替えようと試みている。


厚岸あっけし産の牡蠣かきに御座いマス! ご賞味クダサイ!」


 部屋に戻ってきたアクが腕に抱えるざるには、これでもかという程に牡蠣が積まれている。事前に教えた通りのセリフもつっかえずに言えたようでなによりだ。良い役者になれるぞきっと。


「おお、これは良いですな! それでは早速火を用意させますので、みなで外に出ましょうか。焼きたてをすぐ食べるのが一番旨いでしょう」


 口に出さずとも、内心では部屋にこもる臭気に閉口していたとみえる田元屋の発言である。とはいえ、部屋の仕切りを開放したことの効果はすぐに現れたようで既ににおいはある程度分散していたのだから、焼き牡蠣を美味しく食べたいという素直な言葉だったのだろう。


 しかし――


「それには及びませぬぞ田元屋さん」


 そう告げると、ざるに盛られた牡蠣の山のてっぺんから一杯を取り上げる。食糧を扱う商売柄、牡蠣は加熱して食わねば腹を壊すと経験から知っているのだろう。田元屋ははて? と困惑顔である。


「牡蠣はこうして食うのが……」


 懐に手をやって領内で作らせた愛用のナイフを取り出すと、上下の殻の間に突きいれて貝柱の上端を切り、そのままテコの原理で蓋をこじ開ける。続いて貝柱の下端を切り、殻を傾けてちゅるっと一息に吸い込む。

 そして気持ち程度に噛んでやりその身のプリプリ感とミルキーさを堪能したら、名残惜しい気持ちを振り切って、ごくりと飲み込む。


「……旨い!!」


 いつもとさして変わらぬ日中に、衆目の中で誰が止める間も無く行われた凶行。それを目撃した座衆達は目を丸くしている。


 この時代の牡蠣といえば、焼いて食うのが当然とされていた。もちろん理由は腹を壊すからなのだが、それは鮮度の問題なのかと言えばまるで違う。世間では知られていないことだが、産地の厚岸に住むアイヌ達もまた、牡蠣は焼いて食うのである。



 事の発端は数年前、たまたま松前湊に牡蠣を売りに来たアイヌ人を見かけて俺自ら声を掛けたことだった。ふと前世で食ったことがあるのを懐かしくなった俺が、生食用か? と訊ねると、その男はなにを馬鹿なこと言っているんだという視線を返してきたのだ。そして辛抱強く話す内に(後から考えれば相手の方が辛抱していたはずだが)、生食用の牡蠣などというものがその産地にすら無いことを初めて知った俺は、前世で見たニュース番組かなにかの特集を思い出した。


 牡蠣は海のミルクと呼ばれる他に別の名がある。それが、海の掃除屋だ。牡蠣は日に数百リットルもの水をろ過することからそう呼ばれ、海の汚れの一種である生活排水も一身に受け止める。そうやって汚れを溜め込んだ牡蠣を生で食えば、どれだけ鮮度が良くても一発で腹を壊すことになる。

 一時期問題となって毎日のように耳にしたノロウイルスは汚れの代表格であり、人が生活する中で出る汚水が海に流れ、ノロウイルスを吸収した牡蠣がそのままノロウイルスを食卓へ運んでしまうと言っていたはずだ。


 その厚岸から来たというアイヌ人に対し、俺は身分を明かした上でありったけの情熱をそそいで安全な牡蠣の収穫を依頼した。普段の彼らの集落に程近い漁場ではなく、なるべく人里から離れた海で収穫すること。収穫に当たっては決してその近辺で糞尿を垂れ流さないことを約束させ、それが成功した暁には相場の倍の値で買い取るとまで言った。


 一月後に再びやってきた男と約束通りに牡蠣と代金を交換し、生牡蠣を二十年以上振りに食った感動は今でも忘れられなかった。一日経っても腹を壊す兆候すら無かったことから安全と判断した俺は増産を求めたが、正直者のアイヌ人が言うにはやはり新たな漁場が集落から遠いことと、作業時間中に近場で用を足せないというのはかなり厳しい制約になってしまっているようでなかなか増産はされず、増産出来たとしても今度は輸送の問題もあった。男の集落の者が手伝って増やした分の牡蠣についても、数年の間俺や親しい者の間だけの密かな楽しみにすぎなかったのだ。


 しかし、近頃は事情が変わった。俺が太平洋側の海を自由に動くニシラケアイヌ首長との繋がりを得たからだ。その伝手を使い、生食用牡蠣の収穫についてのノウハウ提供と引き換えに、最低でも三年間はニシラケアイヌ首長がその漁師及び漁師の村を支配する族長に対して部下と舟を貸してくれる運びとなったのである。

 当然ながら村の漁師と首長の部下では格が違うのだが、厚岸というのは首長の広大な行動可能範囲の中ほどにはあるものの、その支配下からは外れている。そこであくまでも生食用牡蠣に関する業務においては漁師の指示に従うというところで両者が合意に達した訳だ。偉大なる首長の名に誓って漁場で用を足さないという約束を、誇り高いアイヌの戦士達が守ることを切に願う。


 これにて増産及び輸送の目処が立ち、汚染されていない牡蠣をまとまった量で仕入れられることになったら、鮮度というのはそこまで過剰に気にする必要は無い。腐らない限りにおいて、腹を壊す心配は(多分)無くなったのだから。



 どうやらみんな、驚きのあまり俺に声を掛けるタイミングを失ってしまったようだな。


「この牡蠣は生で食すことが出来、もちろん腹を下すこともありません。なぜなら――」


 周囲から、はっと息を飲む音が聞こえてくる。


 知りたいか? 


 教えてやろう。


「私共の舟が全力を挙げ、今までに類を見ないほど鮮度が良い状態で運んで来たからです」


 他の商家に真似をされてたまるか。


 今まで牡蠣の販売を手掛けていた者の中から、真似をしようと考えるやつらが出てくるのは想像にかたくない。そいつらは必死こいて舟を漕ぎ、今までと同じ漁場で獲れた牡蠣を生食用牡蠣として速達するだろう。そして当然腹を壊す消費者が続出して信用は地に落ちる。


 間違いなく食品業界への大打撃になるだろう。


 我が社が既存牡蠣業界を駆逐し、新生牡蠣業界のトップに君臨する日は近いはずだ。

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