二十三万石
隠居及び謹慎が始まって十日あまりが過ぎた頃になっても、徳山館では重臣達の熱い議論が連日行われていた。というよりも各派閥間で次の当主をどうするかで紛糾していた。
「全く、こっちは静かに隠居しとるのに外は騒がしいのう。おゆきさんや、話し合いの様子はどうだったかね」
「ほほ、相変わらず殿方達は騒ぐのがお好きなようですね。近藤様を筆頭に大半の御領主は慣例通りに嫡男の信広を当主にと仰ってくれているようですよ」
隠居のじいさん口調を意識してみたのにスルーされてしまったので、二度とやらないと決意した。
「ほう? 近藤が声を上げるとはまた珍しいことだな。ようやく館主としての自覚がでてきたか?」
「いえいえ、三つ子の魂百までと申しますからね。あの方は禰保田館の再建の話が頓挫するのを恐れていらっしゃるのではと思いますよ。はい、お茶を淹れましたからどうぞ」
御覧の通り、俺は騒ぎに加わらず徳山館の一室にて静かに謹慎中である。
「なるほど、信広が継げば俺が始めた禰保田館再建が滞らずに進むであろうという算段であるな」
ありがとうと言って茶をすする。夫婦の間でも礼の心を忘れないのが円満の秘訣だ。
「そういうことでしょうね。次に大きな声を上げておられたのが南条様です。元服前の信広ではなく、あなた様の従兄弟の基広殿を当主に推すとのことでした。出世を望む若い衆を多く味方に付けておられるようですね」
「基広を当主にな……確かに戦場での勇猛さはみなが知るところであるが、南条の操り人形になるのは明白であるし、当主となるにはおつむが足りなかろうに。と、俺が言っても笑われるか」
「そんなことはないですよ。短い間にアイヌとの戦、同盟に交易の改善と、これだけ成したのですから十分ではありませんか」
世辞が上手くなったなと笑みがこぼれる。ゆきが幼くして徳山館に落ち延びてきた頃は、周囲の大人への不審感を隠しもしない攻撃的な性格であったのが、随分と丸くなったものだ。
「そうそう、親父もなにやらこそこそと動き始めていると風の噂で聞いたが」
「耳の早い風だこと。それで義父上ですか……。もっぱら、厚谷様と共に動いておられるようですよ。とはいえ当主に返り咲くつもりはないようですから、次の当主が信広でも基広殿でも軽んじられないように、というところでしょうか?」
「うぅむ。重形殿は親父と旧知の仲であるし、揃いも揃って戦馬鹿ときた。しかしいまだ家中では親父を慕っておるものが多いゆえそこを纏め上げ、家督相続後の家中の乱れが起こらぬように抑え込むつもりなのだろう」
俺としては我が子可愛さもあって、信広が当主に相応しいとは思う。だが、当主は当主で面倒も多いし、何かあれば責任を取らねばならない立場でもある。そのくせ特段贅沢が出来る訳でもないので、いっそ基広に譲ってしまってもいいのかもしれない。
どちらが継ぐにしても、親父が裏で家中を取りまとめてくれるならこの事で蠣崎家が分裂・弱体化するという大事にはならないはずだ。
ところで、と前置きをしてゆきが上目遣いになった。
「商人からアットゥシを全て買い戻したと聞きましたよ? あなた様のことです、もちろん能代の湊で銭に換えてこられたのでしょう?」
「うっ、いや。おいおい話そうとは思っていたのだぞ? このところ、隠居だの謹慎だのでその時間が無かっただけで――」
「隠居だの謹慎だのしておられる方は暇を持て余していらっしゃるものでしょう?」
「……まあそのなんだ、数着は売れたぞ。あちらの民も金が有り余っておる訳では無いから仕方あるまい」
俺が御屋形様に裁かれていたとき、能代湊に残された船に積まれたアットゥシを売りさばくようにと、富田広定に命じてあった。彼の売り口上は大したもので曰く、蝦夷ではいま大流行の着物である。当主も重臣も、その地の民の多くもが愛用し、厳しい寒さにうってつけであるとのたまったそうだ。
俺達は押し付けられたから着ているし、その地の民すなわちアイヌが愛用しているのも事実であるし、その性能のアピールまで的確にこなしている。
と、中々の売り文句だったのだが売れたのは両の手で数えられる程でしかなかった。
「そうでしたか……なにが良くなかったのでしょう? 確かにそれなりの値でしたけれど、質は良いし新品ですし、無地とはいえ風合いも独特で素敵でしたのに」
「なんというかだな、その独特というのが一般受けしないのではないか? それに見たことの無い生地で作られた見慣れない服に、ポンっと大金を出せるものでもあるまいよ」
それに言っても詮無きことだが、新品というのも良くなかっただろう。この時代、庶民の服は大抵が古着であり、新品の衣服ともなればそれなりの金持ち以上の連中しか買えないのだから最初から見向きもされない。
そうなると本当に全て売り払いたかったなら、下手に縫い直して新品扱いせずに汚れだけ落として古着として販売すればもっと買い手がついたのかもしれないが――。
「ふむ。おゆき、やはりあれは従来品の古着と同じ値で売ろう。いや、苦労して丁寧に仕立ててくれたのは分かっておるが、余裕の無い者でもせめて衣服だけは綺麗なものを着れるというのは幸せなことではないか?」
「そうですねぇ、このままですと蔵から私の懐に銭が流れただけになりましょうし」
困り顔でそう言ったゆきだが、それは違う。実際は俺の懐から流れていったんだが、今更言うのも気恥ずかしいからだんまりを通す。
「そもそもイアンパヌは金儲けの為に作り始めたのではあるまい。この間のニシラケアイヌ殿の一行も、アットゥシが売り物になるとはゆめゆめ思っておらなんだようだし、多少安くとも売り物になると知れば大量に作って持ってくるのではないかな」
話に一段落ついて会話が途切れると、何が自分にとって最善だろうかと考えてしまっていた自分に嫌気が差す。
取引出来る物品が増えればアイヌが喜び、みなが新しい服を着られれば和人が喜ぶ、か。
蝦夷の民の笑顔――俺は今まで気にしたことがあったのだろうか?
下国師季の目には、大人なら誰しも少しは抱えているはずの濁りとでもいうような欲の欠片も見えなかった。代わりにそこにあったのは自分の周囲を笑顔にさせたいという強い願いだ。
それが幼さゆえの甘さなのか、父を早くに亡くし厳しく教育されてきたという彼の生い立ちによって育っていった、領主としての自己の責務を果たそうとする使命感なのかは判断が付かない。
それに対して、俺の欲望のなんと自分勝手なことか。蝦夷の民を幸せにすると口ではいっておきながら、親父もじい様も民も望むどころか考えてもいなかった南進をしようなどとは。
「俺の夢はこの地の民の為にならぬのだろうか……」
正面に座るゆきが、不思議そうな顔で俺を見ていた。そして雪のような色の、美しく整った顔を傾ける。
「なにをたわけたことをおっしゃっているのです? あなた様とてこの地に住まう民に違いありませんよ。あなた様に夢がお有りなら、それを叶えるは民の夢を叶えると同じにございましょう? それを民の為と言わずしてなんと言いますやら。そのような下らぬ事をああでもないこうでもないと悩むほど、隠居生活で腑抜けてしまわれたのですか?」
雷に打たれたような衝撃、というのはこういうことか。隠居させられて憂鬱となっていた俺にとって、後からそう思いかえすこととなる程に衝撃的な言葉だった。
「まだ夢を追って良いのだな、俺は。……文を書く用意をしてくれ」
俺の決断を祝福するように、はい、と笑顔で答える妻の姿は、陽の光を反射してきらめく雪のようにまぶしく輝いて見えた。
なんとか主人公が野心を捨てずに前に進むようでなによりです。
「こうして獅子は牙を抜かれたエンド」を回避しました。




