十八万石
二十八歳となった春、ようやく落ち着きを見せ始めた津軽海峡を渡って、主家から派遣された検分役が到着したらしい。らしいというのはまだ会ってもいないからだ。
主家に使いに出した富田広定の帰還後、当初の約定通り茂別館に連れてきた兵の半数と海上封鎖させていた厚谷重政の隊を回収して徳山館へと戻った俺達だったが、そこで待っていたのは祖父の訃報であった。
聞けば先のタリコナ戦でアイヌ弓兵を見事に率いて壮健と見えた光広じいさんは、俺達が茂別館に向かって間もなくしてみるみる内に衰弱し、自らの子と孫(家臣に嫁いでいる俺の妹達)、曾孫達に看取られて亡くなったという。
明らかに戦が老体に堪えたと見えるが、一生をアイヌとの戦に捧げた老将は最後の戦を終えて満足したのか、穏やかな顔を浮かべて八十年の生涯を終えたそうだ。
盛大な葬儀をしようという話になっていたらしいが、俺の帰りと同じくして蠣崎家の菩提寺である法源寺の僧が祖父の遺言書を携えてやってきた。読んでみれば「全て当主の差配次第」との簡潔な遺言であったから、悪いと思いつつもありがたく従うこととして、葬儀を内々に済ませた。
そしてそろそろ海を安全に渡れるとなって検分役が来ると思われた頃に、改めて表向きの葬儀の用意を始め、検分役らしき者が湊に着いたとの知らせを受けるや、ようやく祖父の死を内外に知らせた。それから五十日間は喪に服するから誰も通すなと言い放って現在に至るまで引きこもっている。
当然のことながら検分役が来ようとも、当主の指示がなければ軍は動かない。冬というのは毎年蓄えておいた食料が減る一方なのだが、今年ばかりは茂別館に肩代わりさせているから、漁が本格化する時期まではごく潰し達をそのまま置いておきたかったのだ。
冬の間に暇をしていたかといえばそうではない。浮いた金を足しにして西の禰保田館再建の為に縄張り(設計)作りをさせて春になってからは普請に入らせたり、近場のアイヌを自陣に引き込むために人材交流をしてみたりとやることはやっていた。
人材交流はこちらから送るのは人当たりが良く力自慢の屈強な武者であり、アイヌの生活や狩りの手伝いをしながら彼らの文化を学ばせに行ったのに対し、こちらで引き受けるのはまだ若く狩りについていけないような少年少女たちだ。冬だけでもこちらに預ければ我が子が少しはマシな環境で過ごせるとあって倍率は高かったらしい。
少年達には極簡単な読み書きと計算を教えるとともに、冬の間船を動かせずに暇を持て余していた花沢館方面の商人に頼んで身近な商品の相場を勉強させた(本州の商人の中には蝦夷で冬を越すために適当な家を持っている者も多い)。アイヌに相場を教えれば商人相手に騙されずに済むから恩を売れるだろうと思って始めたことであったが、春になるとこの商人達から面白い話が聞けた。
ハシタイン族長との同盟条件であった取引所の監視であったが、これを花沢館城代の工藤祐致は律儀に守った。なおかつ人材交流に来ていた少年達が近頃の生活必需品の相場情報を集落に持ち帰った結果として阿漕な商売をしていた者達は利益を得られずに他の湊へと流れ、この際だからアイヌとも公平に取引してみようかという善良な商人だけが花沢館に残ることとなった。
残った商人たちは取引当たりの利益率は下がったが、競合商人の数が減ったことで取引量が莫大となった為に商船の増産や従業員の雇用・教育で大忙しになったものの、予想されていたほどの利益減少は無かったらしい。
話を聞いた俺はこのやり方をもっと広げるべきなのではないかと思った。正直なところを言えば儲けの減った商人達は全て撤退して、領主が自前の船を増やして交易を拡大しなくてはならない事態になるかと思っていただけに、善良な商人がいたことに対して道徳的に感心したということもあるし、和人とアイヌが対等に取引することで将来的にでも仲間と呼べるようになる下地が作れるのではと考えたからだ。
そして各館主達に市場と取引相場の監視を命じたところ、一部領主からの猛反発を受けた。当家の館主達の実入りは個人的に細々と行っている商取引と商人からの運上金であるから、命令に従えばそのどちらもが減ってしまうことになるからだ。反発が少なかったのは既に実施している花沢館、義父の治める比石館、俺の本拠徳山館、再建を約束している禰保田館だった。
不満たらたらの原口館主と覃部館主を喪に服する中に呼び寄せて、居城を追われたお前達が館主に返り咲いたのは誰のおかげか。その先々代の最後の頼みであったのだぞと言って時間を掛けて説き伏せた。後半は部屋の外で鎧の擦れるような音が聞こえる度にビクビクしていたようだが知らぬ。忠実な執事衆が部屋の護衛をしていただけだろう。
三月頃からは徐々に雪が無くなり商船の往来が増えるため、毎年多くのアイヌが湊に訪れる。この時期に持ってくるのは保存の利く干鮭で、人材交流から戻った男達によれば彼らは九月から十一月下旬に掛けて丸木船に乗りマレプと呼ばれる銛・鉤一体となった道具を巧みに操って百尾単位で大量に獲る。漁は夜間にも行われ、良く燃えるマカバ(木)の皮で作られた松明を水面に近づけたり離したりして鮭の動きを鈍らせて獲るのだそうだ。
松明持ちがノロマなやつだと火がゆっくり動き、鮭もつられてノロくなるから大漁だと言われているらしいが実際は分からない。もしかしたら普段は役立たずと言われるような者にも仕事を任せることで、集落に居場所を作ってあげているのかもしれない。
アイヌは鮭を神の魚と呼び、アシリチェプノミと呼ばれる儀式を執り行い感謝を表した後、自分たちがすぐに食べる分と冬の保存食、春の交易用に分ける。保存食と交易に用いるのは、もっぱら十一月に獲れる産卵を終えて脂の少ない鮭で、これを冬の期間に三枚におろすか丸ごとそのままで一月以上寒干ししたものが干鮭と呼ばれる。
例年であればこの干鮭百尾と米一俵の物々交換となるところであるが、これを蠣崎家の領内では思い切って干鮭五十尾と米一俵の交換とするようにと触れを出した。商人の儲けは大幅に減るものの、元々が一度の交易で二十倍も儲けていたというから、原価率が五%から十%になったと考えれば今までが異常だったというだけのことだ。もっと安く設定してやりたいくらいだが、本格的に商人がいなくなるとちと厳しいので手始めにこのくらいでいいだろう。
子供の頃に大人が米俵を運ぶ光景を見ていて違和感を覚えたのだが、蝦夷での取引に使われる米俵は通常用いられる俵の半分の大きさで、蝦夷俵と呼ばれているものだった。米俵といえば大人が肩に担いでいるイメージだったのにここでは脇に抱えて軽々と運んでいたから不自然極まりなかったのだ。
ともあれ、これにより花沢館から流れてきた商人に加えて領内全域の善意の欠片も無い商人共が軒並み渡島半島中・東部へと流れていくことになる。蠣崎家の領内まで足を伸ばせば干鮭が倍の値で売れるともなればアイヌが遠くからも売りにきて結果的に儲かるはず。薄利多売で集客力向上と生活改善を目指すのだ。
家族で共に過ごして検分役を放置しているうちに過ごしやすい気候となり、祖父が亡くなってから(表向き)五十日が過ぎた。いよいよ対面せねばならぬな。
大役を任じられるほどであるから甘い男ではないと思うがどうか……。
ちょっとボリューム増えました。しかし代償として台詞無しに……。




