十五万石
斬首より一刻が経った頃。下国家政の首は、腐らせぬために雪を詰めた木箱に納められた。あとは下国家の跡継ぎである師季を伴い、茂別館へ向かい開城させれば今回の騒動に蹴りがつく。当初の目的はタリコナを打ち倒し西部支配を磐石とし、館主らに蠣崎の力を見せ付けることだったが、下国の予想外の参戦と基広の予想外の馬鹿っぷりによって、結果的に茂別館を手中に収めることができそうである。
館主達だが、これ以上の引き止めは困難とみて既に居城に帰らせている。傘下の館主もそれぞれ跡継ぎなどに兵を預けて居城へ戻った。居城に戻った下国派の館主らが兵を挙げるなら叩き潰すまでのこと、ここで反乱の根を断ち切ってしまおうという考えだ。
御屋形様へ事の顛末を一方的に記した書状を認めた俺は、富田広定に今回の使者を命じた。当事者である基広を使者にするのはいかにも拙いし、館主らを今日まで引きとめてくれた広定であればのらりくらりの弁舌で怒りの矛先を逸らしてくれるのではという願いもある。
しかしこのタイミングで下国派の、特に河野氏が動くのではと俺は見ている。こちらの報告が終わり、正当だったと認めさせる前に奴等の使者が到着してしまうと、俺に不利な証言をされる可能性がある。
「重政、海に慣れた兵二百を選抜し、その者達を率いて海上を封鎖せよ。くれぐれもあやつらに先を越されてはならぬからな」
「承知! この時期の津軽海峡は荒れますからな。不幸な事故も起きるというものです」
津軽海峡で亡くなる船乗りは実に多い。冬になると特に荒れることから、龍が目覚める季節と言われることもあるし、津軽半島の最北端は龍飛崎と呼ばれているほどだ。ともあれ、他家の使者が抜け駆けしようとしたら舟ごと沈めてしまえばよい。重政も海上で二百の兵の指揮などしたことないだろうから良い経験になるし、例の研究にも役立つはずだ。
徳山館に備えの兵三百を残し、じいさんと親父に守将を任せて東進。半里(二km)程進んだところの覃部館には元からの守備兵百に加えて二百の兵を置く。ここが蠣崎の支配下の中で最東端であり、唯一味方以外と接する館であるから防御を疎かにはできない。
守将は小林良治。元は渡島十二館で最も東に位置する志苔館の館主の家系であったがこれをアイヌに落とされてより家臣となり、覃部館を任されるまでになった。跡継ぎの良道は富田広定と懇意だったらしく、使者に抜擢された広定を祝っているのを見かけた。
防備と海上封鎖に兵を割いたので、現在の兵数は八百にまで減ってしまった。とはいえ、一つの館で集められる最大兵力は五百人ほどだろうし、相手もわざわざ戦は望まないと思うので足りると思うが。
更に東へ進み、本日の宿とする穏内館に着いたのが夕刻のこと。館とは呼んでいるが、アイヌに攻め落とされてから再建されず、地名と勢力圏を示す名称に成り下がっている。館主であった蒋土家が男子に恵まれずに断絶したのが大きな理由であろう。
かつての家臣筋の者達がそれぞれに管理・運営しているといったところで、指揮系統もバラバラで隙が大きいように見えるが、外敵には団結して立ち向かうという厄介さも持ち合わせている。今回は特に揉め事を持ってきた訳でもないので、すんなりと寝床を確保できた。
翌日以降の行軍ルートであるが、海岸沿いに脇本館、中野館ときて茂別館がゴールとなる。脇本館は元々は南条氏が館主であったがこれまたアイヌに落とされて陥落、その地の豪族らによって再建はされたものの南条氏は戻らずに当家の家臣となる道を選んだ。中野館も同様で館主だった佐藤氏が当家に逃げ込んできて家臣となっているが、こちらは再建されていない。稲作ができぬ代わりに土地に縛られることも少ないというのは蝦夷の民の強みなのかもしれないな。
もはや分かりきったことであるが、独立して館主をしているものはほぼいないのが現状だ。この機会に渡島十二館について位置と館主をまとめてみよう。
渡島北西部から蠣崎家傘下が、花沢館・城代工藤祐致、比石館・館主厚谷重形、原口館・館主佐藤季連(元、中野館主)、禰保田館(廃城)・館主近藤季武、徳山館・館主蠣崎季広、勝山館・館主蠣崎高広(実質は南条守継(元、脇本館主))、覃部館・館主小林良治(元、志苔館主)となる。
次に当家に属さない館は、穏内館(廃城)・諸豪族、脇本館・諸豪族、中野館(廃城)・諸豪族、茂別館・館主下国師季(予定)、宇須岸館・館主偽河野家、志苔館(廃城)・諸豪族である。
圧倒的に蠣崎家の単独トップであると良く分かる。支配下の館は元の位置が悪かった禰保田館を除き全て再建が済んでおり、館主経験のある血筋の者に任せている。
館主の指揮に従って諸豪族が動くという形にしなければ、まとまった動きなど取れようはずもないのだ。下国のじいさんも渡島中部・東部の館主不在の現状を打破して味方に付けたいとは思いつつも、館を奪われた者たちが根こそぎ蠣崎家に逃げ込んでしまったために、館主に据えて納得を得られるような人材がいなかったというところだろうか。
なお禰保田館は以前、内陸部からの襲撃を警戒し防御性能を重視したことから、湊から離れた山に築かれていたのだがあえなく陥落、そのまま廃城とされていた。タリコナの脅威が無くなったのを機に経済拠点として湊付近に再建してやれば俺への忠誠も増すだろう。
三日後、蠣崎家八百の軍勢が目的地の茂別館に到着。道中の館は全て我関せずといった風で、歓迎はされなかったものの領内の通行と寝床の確保は認めてくれた。一戦もせず、一兵も脱落せずにたどり着けたのだから上首尾である。
茂別館は既にこちらが向かっているのを知っていたようで、兵を集めて門を固く閉ざしていた。
「広益頼む」
「ハッ」
まずはこちらが軍を率いてきた理由を述べねば始まらない。
「これなるは松前守護、蠣崎季広様の軍勢である。此度、茂別館主下国家政による謀反あり! 速やかに門を開けられよ!!」
現代では竜飛崎が一般的ですが、龍飛崎と書くこともあったようです。
津軽海峡横断したスイマー曰く、強風と荒波がまるで竜のようだったとか。