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貴方の物語

作者:


はじめに



 人にはそれぞれ物語りがあります。貴方も今まで物語を作ってみえました。

記憶に無い赤ちゃんの時から、少年少女の思い出、物語の主人公はもちろん貴方です。

周りにはお父さんお母さんを始め、多くのご家族とご友人方が登場された事でしょう。

様々な場面で色々な事に喜び、悩み、躓くことがあっても、休憩しながらでも努力を重ね、歩いてみえた事でしょう


 この物語は、貴方の物語です。目を閉じてお読み下さい・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思い出してください。

よろしければペンを取り書き記して下さい。


また、ご家族にもお話をしてさし上げて下さい。

貴方の物語を・・・そしてご家族の物語も聞いてさし上げて下さい。



この本が、貴方の物語を語るお手伝いができれば幸いです。












赤ちゃんの頃の写真はお持ちですか?


お手元にあれば、一度ご覧になってみて下さい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


どんな表情ですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


目は開いていますか?何を見ていたのでしょうか?




誰と写っていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一緒に写っている方は、貴方と一緒に写真に入り誇らしげな笑顔でしょう。


誰に抱かれていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

抱いている方はカメラの方ではなく、貴方の方を向いていませんか?

抱く手はぎこちなくはないですか?






今の手からは比べようもない程の、小さな手、さわるのがこわい程の小いさな小いさな指、ほんのり乳の香りのする柔らかな、透き通る様な肌、それが貴方です。


たとえ小さくても、家族にどれ程大きな幸せをもたらした事でしょう。


たとえ小さくても、どれだけ大きな希望を持たれていた事でしょう。






貴方が生まれた時、お父さん、お母さんはどれだけ喜ばれたでしょう。


その頃のお話は伺った事はありますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




お父さんは仕事場から駆けつけられた事でしょう。

お母さんも、きっとその日の事は生涯忘れられないことでしょう。


お腹にいる時はどうでしたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お母さんは、アワビは召上りましたか?

ご両親は、お腹の中の貴方にどんな言葉を掛けられましたか?






貴方のお名前は、ご両親から貴方への最初の贈り物でした。

その贈り物を貴方に贈る日を、ご両親はどれ程楽しみに待ってみえた事でしょう。


どんなお名前ですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


どんな思いが込められていますか・・・・・・・・・・・・・・


貴方はご自分の名前は好きですか?

大切にして下さい。





 私の名は父が付けてくれたそうです。昭和生まれなので昭の字を入れるかどうかで、祖父ともめたという話しを後になって聞きました。


父にとっても初めての子供であり、祖父にとっては待望の初孫ということもあり、お互い譲り合うことが無かったそうで、私が生まれてから数日間は双方の考えた名前を、なんとか付けてしまいたいという攻防があった様です。


 いかに自分の考えた名前が良いかを母や祖母に力説し、父は自分の子だから自分で決めると譲らず、祖父はとにかく姓名判断の先生に診てもらった事を拠り所にし、どっちの名前がこの子を幸せに出来るかと互いに一歩も譲る事は無かった様です。終いには、自分の考えた名を看護婦さんや祝いに来る人に披露したそうです。

 看護婦さん達は、各々聞かされた名前で私を呼ぶ様になってしまい、「どっちが本当の名前なの?」と母に尋ね・・・・混乱を呼びました。



二つの名を持つ我が子を、母はどう思った事でしょう?


当時の母の気持ちを尋ねた事があります。

母は「私はもう一つ別の名前を考えていたけど、結局言い出せなかった。」と言い、淳と書いてジュンと読む名を考えていた事を、これなら男でも、女でもおかしくないので、妊娠中に両様の名前を考えておいた事を明かしました。

「どっちが出て来るか分かんないからね。両方に使える方が良いでしょ。」

母らしい言い分でした。

「名前なんて慣れだから何でも一緒、どんな名前でも母さんが産んだ事には変わりないんだから。」

 産んだ者の余裕でしょう。

父や祖父は名前を付ける事で、私の誕生に参加したいと言う気持ちが有ったのでしょうか・・・・


ともあれ、父と祖父のそんな二人の対決に終止符を打ったのは祖母だったようです。祖母の提案で私に二つの名を呼んで聞かせ、反応の良かった方にしようと言うことになったそうで、父の考えてくれた名に決まったそうです。


後で聞くと実はそれは祖母の作戦勝ちだった様で、

祖母自身は祖父の考えた名よりも父の考えた名の方が気に入っていたため、私に名を呼んで聞かせる時にこんな作戦に出たそうです。


 二つの名で呼び掛ける時に、祖父の考えた名は祖父自身に呼ばせて、父の考えた名は母に呼ばせたそうです。

しかも私が乳を飲んでいるときに・・・・・

 どちらが勝つかは明らかで、結果祖母の思いの名に落ち着いたという経緯の様です。


 そんな家族の思い出の詰まった名前ですが、私自身幼い頃は、名前をよく読み間違えられるので嫌でした。

特に病院で違う読み方で名前を呼ばれた時など、返事をして良いものか、何故だか恥ずかしさがこみあげてきたものです。もちろん「読み方が違います」などと言えるはずもなく。

ただ恥ずかしそうに下を向いて受付に突進していったのを覚えています。


 しかし大人になるにつれ、いつからか、間違えられる名前にも慣れ、今ではその名前にも自然に反応できるようになりました。名前を聞かれたときなど漢字を説明するのに自分からもう一つの名前を言うこともあります。



パソコンで自分の名を書く時なども、もう一つの名で入力する癖が付いています。





今貴方の名前を呼んでくれる方は、あなたの周りに何人みえますか?


私たちは大人になると、互いを名字で呼び合います。


幼稚園の頃、小学校の頃・・・何と呼ばれていましたか・・・・・


中学の頃、親しい友達からは名前で呼ばれていましたか・・・・




子供の頃は頻繁に呼ばれたあなたの名前も、今はもう数える程しか・・・・


いつからでしょう名前をあまり呼ばれなくなったのは?


以前は名前で呼び合っていた親しい友人さえも、いつしか苗字で呼び合うような関係になり・・・・・・・・







今はもうご家族から、お父さん・お母さんと呼ばれることの方が多いですか?


いずれはおじいちゃん・おばあちゃんと呼ばれるのでしょうか・・・・・・


貴方は、どんな赤ちゃんでしたか・・・・・・・・・・・・・・・


よく泣きましたか?

お乳はよく飲みましたか?

病気はしませんでしたか?


ベッドの上で回っていたガラガラは覚えていますか?







 ひとたび貴方が泣きだすと、お父さんはドキドキされ

お母さんは優しく、貴方を抱き上げられました。

貴方は幸福のゆりかごの中で再び眠りについた事でしょう。





 貴方の毎日の食事はお母さんのお乳でしたね。

オムツを替えてもらい、身体を洗ってもらい。

泣いた時には、優しく抱き上げてもらったでしょう。


 想像できますか?

貴方自身が赤ちゃんだった時の事を。

創造してみて下さい、貴方が抱上げられ、負ぶって貰っている姿を・・・・・・



 私の生まれた頃、我が家では初孫の誕生に沸き返っていました。

母は実家が遠く、結局里帰りせずに私を産んだ為、私は病院を出るとすぐに家に入りました。そして昼間は母と祖母に、夜には父も加わり奮闘してくれた様です。

 母は乳の出も良く、私もよく呑み、よく寝、よく泣いたそうです。

乳の沐浴の腕も上がり、毎晩の沐浴は乳の役目でした。


ただそんな中、祖父だけは無関心を装い、私を抱き上げることもほとんど無かったそうです。

昔気質の祖父にとって、孫にデレデレする姿を家族とはいえども、家族だからこそ見せることに抵抗があったのでしょう。



 そんなある日、母と祖母が別の部屋でくつろいでいると、なにやら私の寝ている部屋で物音がしたらしく、怪訝に思った二人が顔を見合わせ様子を見に行くと、そこには誰もいないことを確認した祖父が嬉しそうに私を抱き上げ、小さい声で「おじいちゃんですよ」と話しかけていたそうです。それは嬉しそうで。


普段、仏頂面のそんな祖父の顔は、二人とも今まで見たことも無かったそうです。

二人は面白がり、普段の仕返しとばかりにニヤニヤしながら祖父に声を掛けたそうです。


「かわいいでしょう」


その時の祖父の顔は紅葉し、おたおたして大変な慌てぶりだったそうです。

終いには、「何で一人にしとくんだ。何かあったらどうするのだ。」と怒りだしてしまったそうです。


今でもこの話をする時の母は大変楽しそうで、その時の奇襲の成功ぶりが伺えます。

祖父は言うとその件以来ふっきれたように、私を可愛がり、一旦抱き上げると一時間は離さなかったそうです。



 初めて立ち上がり、初めてしゃべった時、きっとご家族にとって忘れられない出来事だったに違いありません。




おじいさん、おばあさんは目を細め

いつ転んでもいいようにと貴方の後を追われた事でしょう。


貴方は両手を広げバランスをとりながら、一歩一歩、ゆっくりと歩を進め始めました。




その頃のお話を一度伺ってみて下さい。

照れくさいかも知れませんが聞いてみて下さい。

きっと、遠い日の温かい思い出を語って下さる事でしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





家には私が鏡餅を両手で抱えて立ち上がり、一歩を踏み出す瞬間をおさめた写真が残っています。

この地方では昔からの風習で、子供が歩き始めると餅を持たせる風習があったらしく、その写真もそんな一コマとして残っています。



 写真の中の私は顔よりも大きな鏡餅を、両手でしっかりと抱き上げて、正面に座る祖母に向かって歩いています。

 正面に座る祖母の横では、大きく両手を広げた祖父が、こっちにおいでとばかりに身を乗り出している様子が残っています。カメラマンは父だったそうで、そういえば私の幼い頃の写真には気の毒なほど父は登場しません。昔はカメラも扱いにくく、どの家でも犠牲者はお父さんだったのでしょう。



その後に撮られた祖父とのツーショットでは、祖父の膝の上で嬉しそうに菓子を食べている私の笑顔が残っています。祖父は本当に優しそうな目をしており、父の言うような頑固な昔気質の様子はみじんも見られません。



実は私は祖父と遊んだ記憶が無く、この写真の祖父が唯一の二人で写った写真となってしまいました。


ある時祖母がポツリと漏らしました。

「私だけ二人の孫に囲まれて、おじいさんに申し訳ない。」

本当に申し訳なさそうにつぶやいた、小さな背中を覚えています。




お宮参りの写真はご覧になったことがありますか?

写真の真ん中にはご家族の宝物が写っているはずです。



一緒に写ってみえるご家族はどんな笑顔をしてみえますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・


どんな事を思ってみえたのでしょう?






小さい頃、ご両親からは何と呼ばれていましたか?


・・・・ちゃん?

・・・・くん?




今でもそう呼ばれる事がありますか?


ひょっとしたらご両親の中では、貴方はいつまでもその頃のままの貴方なのかもしれません。





妹も何年か前に母親となり、その幼い孫の名を呼ぶときに。

母はたまに「あきちゃん」といいます。

実はそれは妹の名前です。



私がその事を指摘すると、母は決まって「そんな事言ってないよ。」とにやけて言いますが、その後で

「子供はいつまでたっても子供だから間違えたってしかたないのよ。」と言い訳をします。


母にとっては、妹はいつまでたっても、幼かったあの頃のままなのでしょう。

妹は年を取ってからの子供だったせいか、また今はたまにしか実家に来られないせいか、一番可愛かった頃の印象が強く思い出されるのでしょうか



 今はたまにしか顔を見せない妹ですが、たまにやって来ると、父も母も実に嬉しそうにします。

 初めは孫を連れて来るから、孫に会えるから嬉しいのだろうと思っていましたが、どうやら孫が可愛いだけでなく、妹にも会いたい顔を見たいという思いも強い様です。


 嫁いで行き、普段は会えない妹が元気にしているか、幸せにしているかという想いがあり、彼女が家にいた頃よりもむしろ今の方が、両親は妹の事を子供扱いしているように思われる事があります。

 

 

 


その頃の貴方の家の様子は覚えていますか?


どんな部屋で寝起きしていましたか?


今でもその家は、部屋は残っていますか?




 





一番のお気に入りの物は何でしたか?

いつも、どこに行くにも持っていたものはありましたか?

覚えてみえますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



おしゃぶり?

人形?



小さい貴方にとってそれはお母さんの代わりだったに違いありません。









 私の一番のお気に入りは毛糸で編んだ帽子だったそうです。

母が私のために、私がお腹の中にいた頃に編んでいてくれた帽子だそうで。


古い写真の中の私は帽子を手で握りしめ、その端を口に含んで幸せそうに微笑んでいます。

きっと母のにおいに包まれて、幸せに包まれているのでしょう。



寝るときも、外に出かけるときもその帽子だけは握って離さなかったそうです。

その帽子を取り上げると私は火のついたようにぐずり、泣いたそうです。

幼稚園に上がるまで私はその帽子を手放すことは無かったそうです。

そんな私のために、母は私が寝付くのを待って、毎日帽子を手洗いしてくれていたそうです。


 私の記憶にも薄ピンクの色あせた帽子があります。

ただ母に聞くとそれは薄い青色だったそうで。

しかも聞く度に、薄い黄色だったとか、白色だったとかずいぶん言い分が変わります。

父に聞くと覚えていないとのことで。当然弟は知る由もなく。


残念なことに、その帽子を握った写真は白黒で、色の謎は迷宮入りとなっています。


どんな方にかわいがってもらいましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




おじいさん、おばあさん・・・・・・・・・・・・・・



おもちゃ、お菓子はもらいましたか・・・・・・・・・・・・・



どんな物でしたか?



どこで買ってもらいましたか?



その頃の品物は何か残っていますか?



その頃の思い出にある風景は、今も町の中にありますか?


当時は町内におもちゃ屋さんがあり、クリスマスが近くなった頃から毎日通っていました。何をしていたかと言うと、毎日キャラクターの付いたバケツを見に行っていたのです。

 それは母が「サンタさんはちゃんと欲しいプレゼントを持ってきてくれるよ。」の一言でした。私はサンタさんに思いが伝わるように、毎日毎日バケツを見に行っていたのです。


「こんにちは。」「おもちゃ見せてください。」

そう言って毎日訪れていたそうで、町内で顔も見知った玩具屋のおばさんは

「いらっしゃい。」

と言って迎え入れ、たまにお菓子を頂いたものです。


 私は決まって店内を一周し、まるで新しい商品はないか確認するように、ゆっくりゆっくりと見て回ったそうで、その後で決まって入り口近くの定位置に立ち止まり、じっと棚の上を見上げていたそうです。


私はバケツをじっと見つめ、このバケツがもらえますようにとお願いしていました。


 その日のお願いが終わると

「見せてくれてありがとう。」「さようなら。」

と奥にいるおばさんに挨拶して返りました。


ある時おばさんが

「クリスマスまで無くならないように、ちゃんと奥に一つ取ってあるからね。

心配いらないよ。」と私に声をかけると

「サンタさんはここで買うの?」と聞き返したことがあったらしく、その時はそうとう困ったそうです。

「ずいぶん頭の回転の速い子だね。」と後日母に世間話のついでに漏らされたそうです。




家では新聞広告の裏に、赤いキャラクターバケツの絵を毎日の様に描き、何とかサンタさんに願いが届く様にと頑張りました。


 後で聞いた話しではサンタさんはもっと高い物をくれようと臣っていたそうで、ただ私が余りにもバケツを毎日見に行っている事を、おもちゃ屋のおばさんから聞いたサンタさんはバケツに変更してしまったそうです。



クリスマスの翌日、朝起きると枕元に赤いバケツが置いてあり、私はうれしくてうれしくて、急いで母と祖母に見せるために階段を駆け下りました。

 その日から何日かは食事の時も、お風呂の時も、寝る時もバケツをわきに置いて生活しました。

 次第にキャラクターの絵もひび割れてきて、それでも大事に持って歩きました。

きっと半年近くはずっと持っていたのではないでしょうか。

 最後の記憶は、お風呂で渡し専用のバケツとして活躍していた姿です。その頃はキャラクターはほとんどはがれ落ち、父に黒のマジックでキャラクターの名前を書き足してもらい使っていました。





 何と数年前、庭の倉庫を整理したところ、出てきました。

キャラクターのプリントはひび割れはがれ落ち、父に書いてもらったマジックの字も薄く茶色に変色して、取手の無くなった赤いバケツが。

私の思い出より随分と小さくなってしまった赤いバケツでした。

今の値段で言えば、数百円で買える様なバケツですが、大事にとっておく事にし、綺麗に洗ってしまってあります。



 十年経ったらまた見ようと・・・・・・


幼い頃、どんな物をねだりましたか?



買い物に行ったとき?



誰にねだりましたか?

お母さん?

おばあちゃん?




 スーパーなどでたまにお菓子をねだっている子供を見ることがあります。

必死でしがみ付き、大声で泣き、時には床に倒れこんで駄々をこねている姿は

何十年か前の貴方の姿かもしれません。



覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



想いが通じなければ泣けば良かったあの頃を

例え想いどおりにならなくても、大声で泣いた後はけろっとしていたあの頃の事を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








幼い私は欲しい物があると、おばあちゃんにねだる知恵を付けていました。

父や母は誕生日くらいしかおもちゃは買ってはくれず、おばあちゃんなら何でも買ってくれるような、何でも許してくれるような気がしたのです。


ある時などは当時出始めの人生ゲームをねだり、妹と二人で大事に使う約束で手に入れたことがあります。

それは当時の私にとっては誕生日のプレゼントのレベルを超える程の玩具でした。買って帰った時には父や母に見付からない様にと、こっそり押入れの中にしまっておきました。


その夜のことです、私は父に呼ばれ何故こんな高価な物を父に無断で買ってもらったのかを糾弾されました。

私はまだ一度も遊んでいないゲームを、封さえ切っていないゲームを前に、大粒の涙を流したものです。

と同時に、祖母に迷惑が掛かるのではないか、自分がねだった為に祖母も叱られるのではないかと胸が痛みました。


 当時、父に叱られると言う事は私にとって一番怖いことであり、私の為に祖母が叱られてると思うと申し訳なく、また祖母が私のようにビンタをされていると思い、祖母が可哀想でたまりませんでした。





 大人になり、その話を父にすると、「あんな怖いお母ちゃん(祖母)を叱れる分けないだろう」と笑いながら、懐かしそうな顔をします。


 どうやら祖母は子供(父たち)にとっては厳しい母親だったようです。



遊びには連れて行ってもらいましたか・・・・・・・・・・・・・・


どこへ行きましたか?

海?

山?

遊園地?



お昼は何を食べましたか?



泊まった宿の部屋は今でも思い出せますか?





旅行に行く前日の思い出は何かありまか・・・・・・・・・・・・・・

旅行先でねだったお菓子は?おもちゃは?




写真の中の貴方は楽しそうですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・






鳥羽に家族旅行に行った時の事ですが

最初はバスに乗りたがる私に会わせてバスで移動していましたが、夕方になりバスも混みだし、幼い妹もいたためタクシーに乗ることになりました。

タクシーを嫌がる私は無理矢理抱きかかえられてタクシーに乗せられました。


私は変な思い込みをしており、よその人の運転する車に乗るとその人の子供として貰われていってしまうと思っており、弟の方が大事だから私は捨てられるのかと思い大声で泣いたのを覚えています。

その思い込みの原因になったのは当時、児童の誘拐事件があり、よく母から「よその人の車に乗ると、もう家に帰れなくなるよ。」「お父さんの車以外は絶対に乗っちゃ駄目よ。」と言われていた事が影響したのではないかと思います。

私は言いつけを守り、友達の家に遊びに行った時、急に大雨になって傘も持っていない私に「車で送ってあげるよ。」と言う言葉を掛けてくれたおばさんの言葉に背を向けて、雨の中走って帰った事もありました。



タクシーの中の私は、お昼に食べたお寿司の中の玉子を弟にあげなかったことや、お伊勢さんでお参りをした時にふざけてクスクス笑っていたこと、朝出かけるときに帽子を被るのを嫌がったこと。

子供会では、まだ小学校に上がっていない妹がついてくる事が何故か気恥ずかしく、ついて来る事を嫌がり、母を困らせた事。着いてきた妹に、配られるお菓子を分けてやらなかった事、後悔が頭の中を巡りました。

「もうわがままは言わないから、お父さんの子供のままがいい」と訴えた事を覚えています。



大きくなってから、その話しを母にすると「あんたは昔から頭の固い、思い込みの激しい子だったからね。」と笑われました。





 成人した頃に、この鳥羽へ行った時の写真を目にすることがあり、何枚かの写真を見ました。良く見てみると、当事にしては随分と立派なホテルで、綺麗な部屋に泊まっていた事が伺えました。

 部屋は写真で見る限りでは、二間続きの、露天風呂つきの和室でした。

確かに今思えば、宿はいつも綺麗で、広く、料理は食べきれない程の料理が所狭しと並んでいた事を覚えています。


 別に我が家は特に裕福という訳ではなく、ごくごく一般的な家庭でした。

しかしその割には随分と良い宿に泊まったものだと父に尋ねた事がありました。


 すると私の予想どおり、随分と良い宿に泊まっていたそうで、それには訳があり・・・・・・・・・

 父は柔らかな表情で語ってくれました。


宿泊の資金は祖母が助けてくれていた事。

それは当時すでに亡くなっていた祖父の思いだった事。


 祖父は父が幼い頃にあまり一緒に居てやれず、随分と寂しい思いをさせたという気持ちがあった様で、私が生まれてからはその分も私達を可愛がりたいという想いが強かったそうです。


 ただ甘やかすために、贅沢をさせるために宿代を助けてくれたのではなく、家族揃って旅行に行けるのも数えるほどしか無いだろうと、私達が大きくなればもう友達と旅行に行ってしまい、家族で揃ってなどという機会は本当に数える程だろうという事もあり、一回一回の旅行を少しでも大切に、楽しんで欲しいという想いだったそうです。


 事実我が家では年に一回の旅行が定番でしたが、家族揃っての旅行は私が中学に上がった頃から次第に無くなりました。部活やら何やらで私の都合も付かなくなり、特に妹が中学に上がってからは四人揃っての旅行には行かなくなりました。

数えてみれば祖父の予想どおり、十回程度の旅行でした。


 今となっては四人で旅行に行くことは難しいでしょう。

私にも妹にも家庭があり、四人だけでの旅行は考えられません。


 皆で集まり会食したり、妹夫婦が子供を連れて泊まりに来ることはあっても、四人だけで食事をする事はもう無いでしょう。

 上手くは言えませんが、祖父はこうなる事を予想して、今だけ味わえる幸せを大切にさせてやりたいと思ってくれていたのでしょう。


おじいさんやおばあさんに、叱られたことはりますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お父さんに叱られるのとはチョッと違った感じは覚えていますか?



つないだ手の感触、おぶってもらった背中の温かさは記憶に残っていますか・・・・・・・



お父さん、お母さんとも違った安心感があった事でしょう。


今もご健在ですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





おじいさん、おばあさんとの思い出は何がありますか?

幼稚園の頃・・・・・・・・・・

小学校の頃・・・・・・・・・・



一緒に写った写真は何枚ありますか?

久しぶりにその頃の写真を探してみてはどうでしょう



写真の中にはどんな世界が広がっていますか?



私が小学校の頃、祖母と名古屋のデパートへ買い物に行ったときのことです。当時の私にとっては、年に何回か連れて行ってもらえる名古屋駅周辺は一番の都会で、駅周辺の地下街や大きな大きな百貨店は、まるで夢の国の様に思われました。よそ行きの服を着て、真新しい帽子を被り出かけたものです。


その日は当時まだ残っていた路面電車に乗り、駅から少し離れた場所にあった百貨店へ行きました。お昼近くに出かけたため、百貨店に付いた頃にはもう十二時をまわっていたと思います。

私達は展望レストランにと急ぎ、何とか空席を見つけることが出来ました。


ところで私はレストランで子供用の椅子に座るのが楽しみでした。

大きな店に行くと、背丈の低い子供がテーブルに届きやすいようにと子供用の高い椅子が置いてありました。

 そんな私ですか、小学校に上がり背も高くなり、もう椅子の世話になる事は無くなっていました。

「普通の椅子でいいの?」と尋ねる祖母に、胸を張って頷いた事を覚えています。



 テーブルにメニューが置かれ、喜び勇んだ私はメニューの中に没頭しました。

幼い頃はメニューの写真を見るだけでわくわくドキドキしたものです。


しばらく悩んだ後、お子さまランチを勧める祖母に反抗して、カレーライスを頼みました。いつまでもお子さまじゃないという意識と、写真にあるカレールーがご飯とは別の容器に入っていて自分でカレーをすくい掛けるスタイルが目新しくハイカラに映り、祖母の「辛いから止めなさい」と言う忠告を聞かずに注文してしまいました。



 運ばれてきたカレーは家で食べるカレーとは全く別の食べ物に写りました。

銀色の変わった容器に入ったカレールー

その容器には一人用のおたまの様な物が入れてあり

また、お皿の中央には綺麗に盛り付けられた白いご飯


私はどうやって食べれば良いのか悩みました。

全部一度にかけてしまった方が良いのか・・・・

それとも少しずつかけた方がよいのか・・・・


祖母はルーを一杯すくい、ご飯にかけてくれました。

「少しずつお食べ、辛いから全部かけちゃわない方がいいよ。」


一口食べたカレーは辛く、苦いほどでした。

私は大人のカレーを口に運びながら、祖母をちらちら見ました。

 


 祖母なら私の代わりに食べてくれるだろう。

いつもならこんな時は、そろそろ交換してくれる。

祖母の頼んだうどん

私は半分ほど食べたところでスプーンを置き待ちました。



しかしその日の祖母は「自分で頼んだのだからちゃんと頂きなさい」と

いつもの様な救いの無い事に少なからずショックを受けた私は、しぶしぶ我慢して口に運んだ物です。


そしてしばらくすると、祖母は自分のうどんを分けてくれました。そして「お店の人に残してすいませんと誤りなさい。」と優しく言って聞かせてくれました。その時何故祖母が、私の残してしまったカレーを食べてくれないか少し不安になりました。やっぱり祖母は怒っているのか、もう私を連れてきてくれないかもと。



幼い頃デパートに行った時は楽しかったでしょう・・・・・・・・

どこのデパートだったか覚えていますか?




どんな事を覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・



レストランで食べたお子様ランチは覚えていますか?


子供用の椅子に座って?



帰りには何か買って帰りましたか?

お菓子?

夕飯のおかず?



どなたと行きましたか・・・・・・・・・・・・・・





まだそのデパートは残っていますか?

昼食が終わると、祖母は私を連れ子供服売り場へ訪れました。

「暖かそうな上着がないかねぇ」と店員さんに何点かのジャンパーを見せてもらっていました。


私はもうすぐ春なので、ジャンパーではなく運動靴が欲しかったのですが。

お昼を食べに行く途中通りかかったフロアーで、当時お気に入りのキャラクター付きの靴が目に付き、何か買ってもらえるならこの靴をおねだりしようと心に決めていたのです。


「もう暖かくなるし・・あんまりジャンパーは着ないと思うよ。」

「靴が小さくなったから靴は?」

見上げる私に祖母は

「靴もいいけどすぐ小さくなっちやうからね・・・ジャンパーなら大きいの買っても袖を曲げて着れるし」

先程祖母の言うことを聞かずにカレーを注文した手前、黙って大きめのジャンパーを試着しました。


それは胸にワッペンの付いた、青い色のジャンパーでした。

裏地がふわふわで、表地も手触りがよく、羽織ってみるとその軽さに驚きました。子供の目にもいかにも高価な物だという事が分かりました。

「かっこいいけど、これ高そうだよ・・・・」


「そんな事心配しなくていいの、似合うし暖かそうだからそれにしたら。」

祖母は優しく微笑み



「遠慮する程大きくなったんだね・・・・」

まるで赤ん坊の頃の私を懐かしむかのように、私の頭を撫でてくれました。




手が出ない程長い袖を高く挙げて祖母に見せると、祖母は「今は少し大きいけど、今度の冬やその次の冬には丁度よくなるよ。」

「寒い時はこのジャンパーを着てね、風邪をひかないようにね。」

と私の手を握りました。


祖母はジャンパーの入った紙袋を受け取りながら

「靴欲しかったのでしょ、三階だったかな?」

私は二つも買ってもらう事に遠慮して

「今度で良いから」「また来ようね。」と繋いだ祖母の手を握り返しました。


「何かお菓子か、夕飯のおかず見ていこうか?」

祖母は私の手を引いてエレベータへ向かいました。



 帰りの電車の中では取り留めの無い話を・・・・・・・・・・・

学校はたのしい?  大きくなったら何になりたい?

お友達とは仲良くしてる?

電車の窓からは夕暮れが見え

「今日は楽しかった・・ありがとね」と微笑んだ祖母が印象的でした。



 後で知ったのですが、祖母が昼食の時に、私の残したカレーを食べてくれなかったのには訳があり。

祖母は胃の病気が悪化していたらしく、それでも入院前にどうしても私とデパートへ行きたいと・・・・・・・・


その日の三日後に入院した祖母に、私はジャンパーを着る姿を見てはもらえませんでした。



 祖母は亡くなる前に母にお金を渡して、私に靴を買ってやって欲しいと頼んだそうです。


お兄さん、お姉さん・・・・・・・・・・・・・・


けんかはよくしましたか・・・・・・・・・・・・・・・・


どんな事でけんかしましたか・・・・・・・・・・・・・


よく泣きましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・


弟、妹はかわいがりましたか・・・・・・・・・・・





兄弟でどんな話をしましたか・・・・・・・・・・・・・


おもちゃの事、お菓子の事?


遊びに行く相談?


勉強の事?


夢?






両親は共働きでした。

普段は母が二時過ぎには帰ってきて、私達をむかえてくれるのですが、どうやらその日は、仕事が急に長引いたようで、私も知らされていませんでした。

妹が小学校一年生の頃だと思います。


ある日私が学校から帰ると、妹はガレージで寒そうに座り込んでいました。

私も鍵を預かってはおらず、家に入る術はありませんでした。

当時の我が家のガレージは、家の横に立てたシャッターを、開けっ放しにした倉庫の様なプレハブ造りの物でした。


季節は初冬か晩秋だったと思います。

寒そうにしている妹を見かね、どこか窓の鍵が開いていないものかと、家の周りを回ってみましたが、どこも重たく閉まっていました。

テレビでよく見る様に、植木鉢の下に鍵が無いものかと探しましたが、テレビの様にはいきません。

二階の窓ならひょっとしてと思い、ガレージ横の塀に登り、そこからガレージの屋根へと、そして二階の窓に近づきました。


 全てが無駄に終わりガレージに戻ると、「大丈夫?」と声を掛ける妹の手は寒そうに強く握られ少し震えて見えました。

 塀に登りガレージの屋根に登る私を、心配そうに見上げていた赤い頬が印象的でした。

 

 私と違い身体が小さく、色の白い妹はよく風邪を引き

幼い頃の彼女の印象は、少し身体の弱い子供でした。

 妹が風邪をひくと決まって高い熱をだし、苦しそうに横になっている姿を見るのは辛く、彼女が風邪をひくと私はいつも氷枕を作ってやり、母は暖かい卵酒を私の分も作ってくれました。


私は座って寒そうにしている妹に「もうすぐお母さんも帰ってくるからね」と元気づけて励ましたものです。


妹の背負っていた大きすぎる程のランドセルを下ろしてやり、スカートから剥き出しの足をさすってやりました。


足は冷たく、かさついた足は細く、小さく感じました。

近くにあった古いカーテンで弟を包んでやると「暖かいけど少し臭い」と笑い、初めて笑顔を見せました。

私はもっと何か暖かくする術は無いものかと辺りを探し始めそして、コンクリートに直に座っている妹を座らせてやれる物を探しました。


近くにあった灯油缶に座らせようと思い灯油缶を引きづって、壁の近くまで移動させました。中には半分ほどの灯油が残っており、灯油独特の匂いが手に染み込んで来ます。

それでも何とかこの上に座らせてやればと思った私は、お尻が汚れないように、少しでも温かいようにと、来ていたジャンパーを座布団代わりに掛けて座らせる事にしました。


ちょこんと座る妹は、暖かさよりも私が面倒をみてくれている事に安心したのでしょう、私に寄り添い静かに微笑みました。




それから間もなくして帰った母が、目に涙を溜めて「ごめんね、ごめんね」と声をかけてくれた事を覚えています。


そして「大事にしてたのに、もう着れないかもしれないね・・」

と、灯油が染みてしまったジャンパーを見つめていました。


祖母に買って貰ったジャンパーでした。


ご両親とは、ご兄弟とは、いつまで一緒にお風呂に入りましたか・・・・・・・・・・・・・・


いつまで同じ布団で寝ましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


早く寝なさいと言われたことはありますか?


私は毎日のように言われていました。


寝るときには電気は消しましたか?




私はスモールライトが点いていないと恐くて眠れませんでした。

ある時ライトが切れて、真っ暗な中で寝なければならなくなった時には、布団の中に懐中電灯を持ち込もうとして母に叱られたものです。

 高いところも平気で、ゴキブリも恐れなかった私ですが、唯一幽霊だけは怖く。

見たことはありませんが、絶対にいると思っていました。

 幼稚園の頃でしょうか、‘寝ない子はだれかな’という絵本を読んだことがあります。夜遅くまで起きているとお化けが出てきて、お化けの世界に連れて行ってしまうといったストーリーだった様に記憶しています。

その絵本には白いシーツを頭からスッポリト被った、黒く大きな目をした西洋のお化けが描かれていて、小さな女の子がさらわれて行く様子が印象的でした。

私はその絵本を読んで以来、とにかく暗い所、お化けや幽霊の話が大の苦手でした。夜遅くおしっこをしたくなった時など最悪で、とても一人ではトイレに行けず、父や母の寝室まで独りで行くことも出来ず、隣に寝ている妹を起こすのは忍びなく、結局泣きながら一人でトイレに駆け込み、目をつむって用を足したものです。

 なにせ便器の中から手が出てくるような気がして・・・・・





どんな夢をみましたか?


空を飛ぶ夢?


何かに追いかけられて逃げる夢?


おしっこをしている夢?

おねしょをするのは、決まっておしっこの夢を見たときでした。




私だけかもしれませんが、子供のころにはよく空を飛ぶ夢を見たものです。

でもふと考えてみると、大人になってからはあまり見た記憶がありません。

飛べるわけが無い、飛べる筈が無いという既成概念が強く働くためでしょうか?


 できる事なら夢の中にいる時くらいは子供の頃に戻りたいものです。





朝起きる時にはちゃんと起きられましたか?


遅刻せずに学校に行けましたか?



私は寝起きは良い方でした。

ただ妹はいつまでもぐずって、毎日泣きながら起きていました。

幼稚園も遅刻が多く、小学校に上がってからも毎日母を困らせていました。


今でも母が妹を子供扱いするのは、このころの印象が強いからかもしれません。






こんな話を聞いたことがあります。


子供の頃に未来の夢を見ることがあると。


私自身は経験も心当たりもありませんが


貴方はいかがですか?

幼い頃に今のご自分の夢をご覧になったことはありますか?



妹も幼い頃、食堂で働く夢をよく見たそうです。

事実私も、妹からその夢の話しを何度か聞かされたことを覚えています。

大量のパンを焼いたり、沢山のゆで卵を作る夢や、沢山の人に順番に水を注いでまわる夢だったそうです。

 そんな夢を見た翌日は、よくままごとにつき合わされました。

家の庭には私の幼い頃からの砂場(畳半畳程のプラスチックの容器に砂を入れたもの)があり、そこで砂のご飯や味噌汁を食べました。

 私はあまりままごと遊びはしませんでした。むしろトンネルを作ったり、山を作ったり、砂の中に玩具を埋めたりと、家庭的な方では無かったのでしょう。

そんな私とは違い、彼女は器用に砂と水を混ぜ、型にはめてトーストやゆで卵も作って見せました。お母さんにもらった要らなくなった食器を使い、彼女の砂遊びは本格的なものへと進化し続けていきました。

 また夕飯の時などは、私達のコップにお茶を上手に注いでまわったこともありました。



今、彼女は夫婦で喫茶店を経営しています。

田舎のちょっと大きめな喫茶店です。近くには清洲城というお城があり、休みの日には観光客も訪れるようです。

彼女は朝早くから自家製のパンを焼き、コーヒーの香りの立ち込める店内で忙しくしています。

昼には自家製のホワイトソースを使った看板メニューで好評を博しています。



彼女のよくみた夢は正夢だったのでしょうか?


こんな経験を持つ彼女を、少し羨ましく思う私がいます。

 


ご家族以外ではどんな方との思い出がありますか?


親戚の方・・・・・・・・・・・・・・


近所の方・・・・・・・・・・・・・・


今でも近くにみえますか・・・・・・


お会いする機会はありますか・・・・・


幼い頃の貴方を知る方は、今でもきっと貴方のことを大切に思って下さっている事でしょう。





お友達のお母さんは、貴方の目にはどんな風に映りましたか・・・・・・・・・・・・


うらやましかったですか・・・・・・・・・・・・・・・・


でも、自分のお母さんが一番だった事でしょう。






近所にいつも野菜を下さるおばさんがいました。年齢も母と近かった様で、よく母と立ち話をしたり時には食事に行っていたようです。理由は知りませんでしたが、結婚はされていないようで、子供もいなかった彼女は私を本当にかわいがってくれました。おむつを替えてもらった事や、お風呂に入れてもらった事を母から聞きました。小学校の頃までは、たまに家にも遊びに行って、おやつをもらったり、夕飯を一緒に食べたりもしました。


ただ、中学にあがる頃から次第に私の方が疎遠になり、道で会って挨拶する程度になっていました。

おばさんは母に、「大きくなると、学校が忙しくてだんだん顔が見れなくなるね・・・」と寂しそうに言ったことがあったそうです。

その頃の私は部活動や友達との遊びに夢中でした。


そしてそんな頃に彼女が亡くなりました。


実は心臓に何かあったらしく、そのせいで結婚もされなかった様です。

そんな彼女にとって、私は実の子供のように思えたのかも知れません。


しかし入院の話を聞いた時も、最後に母に一緒に見舞いに行こうと誘われた時も、私は友達との約束を優先させてしまいました。


なぜあの時、一緒に見舞いに行けなかったのか、今思うと悔しくてたまりません。決して彼女の事を嫌いになった訳ではなく、親に逆らう様な子供でもなかったのですが、何故か気が進まず、何故か気恥ずかしい様な気持ちになってしまい、結局一度も顔を見せることがありませんでした。本当に本当に残念です。

今では、たまに彼女のお墓に花を添える事しかできません。


私が花を添えている事は母も知らないと思っていましたが、最近になって、母に「今度行く時、遺書につれて行って。」と言われました。

今度一緒に行こうかと思います。


幼い頃に二人でおばさんの家を訪ねた時の様に・・・・・・・


初めてよその家にお邪魔したのはいつですか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


見慣れた家とは全く違う様子に戸惑ったり、ドキドキしたり・・・・・・・・・・・・・・・・


よそでお泊りした時など、いつもと違う布団と枕がみょうに居心地が悪く、でもわくわくし

あまり寝付けなかった事でしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・





私は母の実家に泊まりに行くのが楽しみでした。特に夏に泊まりに行くと、夜は蚊帳を吊ってくれました。今はもうほとんど見ることがなくなりましたが、緑色の大きな大きな蚊帳の中は全く別の空間のように思え、何故か心が躍り興奮して寝られなかった事を覚えています。


 夜になりお風呂から出ると、祖母と母が布団をくっつけて敷き始めます。敷き布団の上にはバスタオルを敷き、蕎麦の実の枕が四つ並び終えるといよいよ蚊帳の登場です。天井から吊るし四隅を止め次第に夏の夜の空間が出来上がってきます。

 その空間に入るには幾つかの決まり事がありました。

・素早く入る

・かがんで、姿勢を低くして入る

・一度入ったら出たり入ったりを繰り返さず静かに寝る




私たちはどれも守ることはありませんでした。トイレに行くと言っては出入りをし、入るときに立ったままの姿勢で、蚊帳を両手で大きく持ち上げては何度も何度も出入りを繰り返しました。

祖母は笑いながら蚊取り線香を炊いてくれたものです。


 蚊帳の中に入った私たちは更に興奮し、敷いてあったバスタオルが捲れ上がる程に暴れまくりました。

枕から蕎麦の実が飛び出たこともありました。笑いながら、はしゃぎ疲れて眠る私達に目を細め、祖母は何を考えていたのでしょう・・・・。

 

 あれ程の興奮を与えてくれた空間も、不思議と朝になるとその効果は消えてしまっていました。朝見る蚊帳はただの網にしか見えませんでした。朝日がまぶしすぎるのか、昨晩あれ程大きく見えた空間は狭く、魅力のない物にしか映らなくなっていました。






 夜の蚊帳と、朝の蚊帳。

一日の終わりと、一日の始まり。

名残を惜しむ空間と、外に広がる新しい一日。

そんな毎日を幾度となく繰り返し、私達の夏休みは過ぎていきました。










貴方にとって夏休みの終わりを告げる物は何かありましたか?






迷子になった事はありますか・・・・・・・・・・・・・・・


貴方はもうお母さんに会えないかと思いひたすら泣いた事でしょう。





 迷子にはこんな定義があると思いませんか。

迷子になった子供が、自分が迷子になったと認識しなければその子は迷子とは言えないのではないでしょうか。お母さんを捜したり心細く思わなければ、独りぼっちで知らない場所を歩いていても迷子にはなっていないんじゃないでしょうか。

 先日もテレビで迷子を捜して動転した様子で迷子センターに飛び込む母親を見ました。対して当の男の子はニコニコしながら係員と遊んでいました。

 


 私自身は迷子になったことはありませんが、小学六年の頃に潮干狩りに行った時、妹が迷子になった事があります。最初は二人、母にくっついていたのですが、砂浜を走り回る弟と一心にアサリを掘り続ける母との狭間で私は弟を見失ってしまいました。「お母さんはアサリとるから見ていてね」と言われた手前、母に言うことがためらわれ、一人でトボトボと捜し回りました。やがて半泣きになりながら砂浜を歩く私が迷子に見えたのでしょう、知らないおばさんが私を迷子センターに連れて行ってくれました。私は自分は迷子じゃないと言おうとおもいましたが、センターに行けば妹がいるかも知れないと思いそのままセンターに連れて行ってもらう事にしました。

 センターに着いた私は歳と名前、母の名を聞かれ私の名は砂浜に響き渡りました。その時の私は気恥ずかしさより早く妹が見つかるようにと思っていました。



 しばらくすると私の名を聞いた妹が、近くにいた人に訳を話してセンターまで連れてきてもらった様で、再会する事が出来ました。私はセンターの人にお礼を言って妹を連れて母のいるであろう場所まで戻りました。

 母はと言うと私の名が呼ばれたのは知っていた様ですが、六年にもなって迷子はないだろうと気にもしなかつたそうで、家に帰ると父に、迷子になった私を妹が迎えに行ったなどとあまりにも不名誉な報告をしていました。



 今でも私は迷子になり妹に迎えに来られたというレッテルが貼られたままです。

でもあの時、本当に迷子になったのは私だったのかも知れません。最近ふとそう思います。




今はもう迷子にならないと思います、でももし迷子になったら

でも誰かに側にいて欲しくなったら・・・・・

寂しくて、不安になって・・・・・・

誰かを探して・・・・・・・


そんな時は、ご両親がご健在なら迎えに来てもらってはどうでしょう。




セピア色の写真は何枚ありますか?・・・・・・・・・・・・・・


写真の中の貴方は笑っていますか?

何が貴方を笑顔にしたのでしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



しかめっ面ですか?

しかめっ面の貴方は手を硬く握り緊張していたんでしょうか、何に緊張したんですか・・・・・・・

それとも恥ずかしかったのでしょうか?何に恥ずかしかったのでしょうか・・・・・・・・・・・・



手には何を持っていますか・・・・・・・・・・・・・

大切に持っているものは貴方にとって宝物だった事でしょう。

手にしているのは、物ではなく人の手じゃありませんか?

大切な人の手を握り締めて・・・・・・・・・・・・



一緒に写っているのは誰ですか・・・・・・・・・・・

一緒に写っている方もまた、セピア色の時代だった事でしょう。



写真の中の貴方は何を夢みて、何を思っていた事でしょう・・・・・・・・・・・・・・・・





私の幼い頃の写真にはいつも乗り物が一緒に写っています。


乳母車に始まり三輪車、当時では珍しい足こぎの車、小学校に上がった頃からは補助輪付きの自転車が隣にあります。



私は乗り物が好きで近くに行くにも三輪車や自伝車に乗っていたそうです。ある時などスーパーの買い物に三輪車で付いていった私はそのまま店内に乗り入れようとして母に叱られた事があったそうです。


そしてふて腐れた私は三輪車でどこかに行ってしまい、母はどこに行ったか心配になり、買い物もそこそに家に帰り私を待ったそうで、途中私の行きそうな公園や神社も覗きながら家に帰った母は、いつまで待っても帰らない私を捜して再びスーパーへと向かったそうです。



その頃私は母のいなくなったスーパーに三輪車で乗り込み店の人に補導されていました。私の微かな記憶では、スーパーの駐車場で母が出て行ったのを確認し、喜々としてスーパーに乗り込んだ事を覚えています。そしてすぐにスーパーのおばさんに捕まり・・・・・母に叱られた事を覚えています。


初めて幼稚園に行った日の事は覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・


写真には、精一杯の笑顔の貴方が写っていますか?

お友達と写っていますか?


若いお母さんは一番のおめかしをして、写真を撮っていたのはお父さんでしょうか・・・・


私が幼稚園の頃の思い出に運動会があります。

運動会は市の体育館で行われ、沢山の父母の見守る中始まりました。

障害物競走で平均台を怖がって泣き出す園児や、大玉転がしで大玉の前に回り込み潰されそうになる園児などハプニングの連続だったようです。

 昼には母と祖母と一緒に鮭のおにぎりを食べた事を食べた事を覚えています。

当時の私は梅干が嫌いで、おにぎりはいつも鮭の塩焼きをほぐしたものでした。

その日は気温が高く暑かったようで、汗だくの私は昼に一度着替えさせられてしまいました。

周りの園児が運動着なのに自分だけ普段着のTシャツになってしまった私は、恥ずかしがって

「もう出たくない・・家に帰る」と泣いたそうです。

泣き顔の私を真ん中に、左右に母と祖母の笑顔の写真が今も残っています。


 結局はその後も運動会に参加した私は、最後の出し物のかけっこに出場しました。

今では足の遅い私ですが、幼稚園の頃は他の園児より身体が大きく走るのも早かったようで、トップで走ってきたようです。

記憶の中の私は、スタートした後走りながら母を捜し、ゴール手前の観客席に母を見つけました。

母は嬉しそうに手で“おいで、おいで”をしました。

母は早くゴールしなさいと言う意味で“おいで、おいで”をしたのだそうで・・・

しかし“おいで、おいで”をされた私は、ゴール手前でコースから逸れて、一目散に母の胸に飛び込んで行きました。

 今でも母は「生涯でたった一度の一着のチャンスだったのに」と笑います。


幼稚園の頃の思い出は何がありますか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


お絵かきはしましたか?

貴方の描いたお母さんの絵は、いつも笑顔だった事でしょう。


泣かされたことはありましたか・・・・・・・・・・・

泣いて帰った貴方は家でどんな言葉をかけてもらいましたか・・・・・・・・・


お遊戯はうまくできましたか・・・・・・・・・・・・


お友達はできましたか・・・・・・・・・・・・・・

お友達の名前は覚えていますか?

近所の子ですか?

お友達のお母さんの顔は?

 

 

 当時は近所には同い年の子がいなかったため、幼稚園で初めて同じ年の子と遊ぶ機会を得た私は、幼稚園が楽しくて仕方ありませんでした。ある時など、日曜なのに幼稚園に行くといって駄々をこねたそうです。私の幼稚園好きはそれに留まらず、家に帰ってからも再度幼稚園に行き滑り台やジャングルジムなどの遊具で遊んでいたそうです。

 


 あの頃一緒に遊んだ子供たちは、今どうしているのだろう・・・・・


 あの頃祖母と一緒に夕方まで遊ぶ私たちを、幼稚園のベンチで見守ってくれていたお母さんたちは

お元気だろうか・・・・・・


 あの頃私の周りにいた人たちにはもう逢うことは出来ないのだろうか・・・・・・・・


お迎えのお母さんを、貴方はどんな気持ちで待っていましたか・・・・・・・・・・・・

お母さんが見えた時、きっとうれしくてしかたなかった事でしょう。



雨の日に持つた小さな傘

小さな長靴


小さな麦藁帽




走っては、よく転んでいたあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ひざ小僧はいつも傷がありましたか?

赤チンは塗りましたか?

一人で起き上がりましたか?




たまに ”おねしょ” をしたあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

叱られましたか?

隠したりしませんでしたか?




砂遊びが好きだったあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

トンネルを掘りましたね。

山を作りましたね。

壊すのは好きでしたか?寂しかったですか?



当時はどんなテレビ番組を見ていましたか?

今でも記憶に残っている番組はありますか?


 父と公園に行った時だけ、ジャングルジムの天辺まで登ることが出来ました。

もし落ちても父が助けてくれると思うと安心できたのでしょう。

普段は天辺近くまでは登っても、旗の立った頂に登るのは怖かったのを覚えています。

 私の父は今思えばそれ程背が高くはなく、むしろ小さい方だったのですが、当時の私にとっては大きく、ジャングルジムの旗に捕まって天辺に立った時だけ私は父の背丈を追い越すことが出来ました。

そして、とんでもなく高い所に立った気持ちに、自分が大きくなった気分になったものです。

 

 



ジャングルジムは好きでしたか?

幼い貴方にとってジャングルジムはどんなに高く思えましたか・・・・・・・・・・・




ジャングルジムの天辺まで登れなかったあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大きく大きく思えたジャングルジムは、今見ると小さく見え

無性に寂しい感じがするのは私だけでは無い筈です。


あんなに大きかったのに、今は自分の方が大きくなってしまった。

できればいつまでも、いつまでも自分よりも大きくあって欲しかったジャングルジム

いまはこんなに小さく思えるジャングルジム




 出来ることならいつまでも自分より大きくあって欲しかった・・・・・・・・・・




小さい頃の貴方は毎日のように、”じゃんけん”をしていた事でしょう。

最近 ”じゃんけん”をした事はありますか?・・・・・・・・・・・・・・・・






いつから、”じゃんけん”をあまりしなくなったのでしょう・・・・・・・・・・・・


一人で頭を洗えるようになった頃?


夜中に、一人でトイレに行けるようになった頃?


自転車の補助輪のとれた頃?


ランドセルを持たなっくなった頃?



”じゃんけん”で、何でも決める事ができた頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



出来る事なら”じゃんけん”で決めてしまえればどんなに楽かと思う事がありませんか?

仕事のこと・・・・・

家庭のこと・・・・・

恋人のこと・・・・・


話し合い、考えに考えなければ解決できない様な事も”じゃんけん”ならどんなに楽に決めることが出来るでしょう・・・・

あまりにも明快な、あまりにも公平な結論の出せたあの日々を、ふと懐かしく思うのは私だけでしょうか・・・・


誰と”じゃんけん”をしましたか・・・・・・・・・・・・・・


”じゃんけん”で何を決めましたか・・・・・・・・・・・・・


”じゃんけん”は強かったですか・・・・・・・・・・・・・・


貴方は小さな手でグー、チョキ、パーを毎日つくり、何を思ったことでしょう・・・・・・・・・・






 父と私の毎日の日課に”じゃんけん”がありました。配達されるコーヒー牛乳をどちらが先に飲むかを決める朝のイベントです。一本だけ取っていた父親用のコーヒー牛乳を、”じゃんけん”に勝てば先に一口飲ませて貰えるのです。負けたら父が先に飲み、残してくれた分を後から飲むのですが、何時しか私はコーヒー牛乳よりも、父との”じゃんけん”を楽しみにしていました。

 私の小さな手で作ったチョキが、父の大きな分厚い手のひらに勝った時の爽快感が何とも言えず。

毎朝の対決を心待ちにしていました。

 母は面白がって、私の勝った日はカレンダーに花丸を付けてくれました。

花丸が二三日続いた時などは嬉しくて嬉しくて、負けても父に先を譲り有頂天になったこともありました。



小さなグーでも、大きなチョキに勝てた喜び


分厚いパーに、小さなチョキで勝った時の快感


小さなグーでも、大きなグーに決して負けなかった頃



 妹とした”じゃんけん”は、時として後味の悪いこともありました。


まだ幼かった妹は”じゃんけん”のルールに甘んじることが出来ず、負けても権利を主張することがよくあり、その度に私は譲るかどうかを良心と相談しました。


 ある時は食べたかったショートケーキのイチゴを譲り、またある時はテレビのチャンネルを譲りました。でもどうしても私の見たい番組の時などは、テレビのチャンネルを外して隠しておき、彼女が変えられない様にした事もあります。当時の我が家のテレビはチャンネルや、スイッチボタン、音量チャンネルが引っ張ると簡単に外れるタイプでした。チャンネルを隠しておけば妹は負けた時は素直に引き下がり、勝った時は必死でチャンネルを探します。無論彼女が勝った時には、私も一緒に探す振りをして彼女の目に付く所にそっと置いてやりました。



 多くの場合は”じゃんけん”に関わらず妹に譲ることの多かった私ですが、祖母にもらった見たことのない果物の時だけは、頑として譲らず、二つに切り分けられた大きい方を自分の物にしてしまいました。

その時の妹は大きいほうが貰えなかった為と言うよりも、私に譲って貰えなかった事の悲しさと思い道理にならなかった事の悔しさから大泣きして、自分の果物にも手を付けない程でした。

 見かねた母が台所から除いた時には、きっと私に譲るように言うものだと確信しましたが、母は「じゃんけんで負けたんだから泣いていても駄目だよ。」と言いました。

 更に泣き続ける妹をよそにほお張った果物は甘くもなく、酸っぱくもなく、ただ粘土のような食感でとても不味かったのを覚えています。ただその時は意地になり、まるで胸の奥の罪悪感を噛み潰すように、飲み込むように、無理して美味しそうにほお張りながら妹の泣き顔を見ないようにしていた私でした。

 「美味しかった?」と聞く母に

「うん・・」と答えた事までは覚えています。


 今でもスーパーで、当事では本当に珍しかったあの果物を目にするたびに、当事の苦い”じゃんけん”を思い出します。


ランドセルは重くはなかったですか?



初めて勉強机に座った日のことを覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・



小学校の先生の名前は覚えていますか・・・・・・・・・・・・・



どんな先生でしたか・・・・・・・・・・

男の先生?

女の先生?


こわかったですか?

優しかったですか?




どんな教室でしたか・・・・・・・・・・覚えていますか?

木造でしたか?

机はどんな机でしたか?



壁には何が貼ってありましたか?



初めて自分の掻いた絵が貼ってもらえたときの事は覚えていますか・・・・・・・






 私は絵を描くことが好きな子供でした。

大好きな乗り物や、おもちゃの絵を描くときなどは、絵に描いたものがまるで自分物になるかのように思えました。海やプールの絵を描くときは、自分を中に登場させれば、絵に描いた場所に実際に来ているような気持ちになりました。幼稚園の頃は毎日の様に、クレヨンで色々な絵を描いて遊んでいたことを覚えています。


そんな私が小学校に入って初めて水彩画のセットを手に入れた時には、うれしくてうれしくて、セットの中にある3本の絵筆を持ったままお風呂に入り、石けんを絵の具代わりにお風呂の壁に大きな絵を描いたものです。

 学校では図工の時間が楽しみで、少しでも沢山絵を描きたい私は、配られた画用紙に絵を描き終えてしまい、その画用紙の裏面がまだ白紙であることに目を付けました。

 今思えば無謀な挑戦ですが、当時の私は迷わず画用紙を裏向けて新しいキャンパスに向かいました。


それは恐らく水彩画の経験が浅く、クレヨンや色鉛筆でのお絵かきに慣れていたためでしょう。

紙の表裏に絵を描く事に対して何の戸惑いもありませんでした。


しばらくして裏側にも絵を描いて満足した私が、画用紙取ろうとした時、初めて異変に気づきました。

最初私は、何が起こっているか理解できませんでした。画用紙はしっかりと机に張り付き、無理をすると絵が破れてしまう事は幼い私にも十分理解できました。


先生から絵を前に持って来るように言われた時は、目の前が真っ暗になる思いでした。

意を決した私は、思い切って剥がし・・・・・・・

以来私はクレヨンでも、色鉛筆でも裏側に絵を描くことはなくなりました。


 最後に絵を描いたのは何年前でしょうか?

今週の日曜は久しぶりに絵を描いてみようかと思います。

学校では新しいお友達はできましたか・・・・・・・


喧嘩はよくしましたか?


何をして遊びましたか?




学校は遠くありませんでしたか?


学校の帰りは貴方にとって毎日が冒険だったかも知れません。






その頃の洋服はまだ残っていますか?


その頃の教科書は、ノートは、まだとってありますか?


ページをめくると何十年か前の貴方自身が顔を覗かせるかも知れません。

 まだ入学して間もない頃、一人で家に帰ろうとした私は道に迷ってしまったことがありました。

家から学校までの道のりは、さほど遠いものではありませんでしたが当時の私にとっては学校のあった地域は行動エリヤの外であり、なじみの商店街もなく、やっと覚えた通学路だけが便りでした。


 ただその日は何故か通学路とは別の道で帰ろうと思い立ち、大きすぎるランドセルを背負い冒険に出たのです。

 この角を右に曲がれば通学路のとおりに帰れると言う場所をあえて真っ直ぐに進み、私の冒険が始まりました。

 

 やがて始めてみる神社が右手に見え、神社の中に入って行くと、そこには幼稚園がありました。

私の知らない幼稚園、見た事のない遊具が並び私を誘惑しました。

 ランドセルを背負ったままの私は、タイヤで作られたブランコに乗り、初めて乗るブランコに興奮を覚え、上下に揺れる見慣れない景色を楽しみました。


 しばらくして回りに見慣れない子供たちがいるのに気づいた私は、急に居心地の悪さを感じて逃げるように幼稚園を出て、神社の境内に戻りました。そこは先ほど通った境内とは様子が違い何か寂しげで、怖い感じがしました。

 急ぎ足で神社を出た私は急に家が恋しくなり、いそいで家の方向に歩き出しました。

その時はもう、見慣れない商店街に興奮を覚えることはなく、道行く人が皆私を見ている様な気がして、駆け抜けるようにして家路を急ぎました。


私が家の方向に延びていると思った道は、右に大きく曲がり、次第に家の方向からづれて行った様で、行けども行けども馴染みの道には出る事がありませんでした。


しばらくして私は見慣れない学校に出てしまい、校庭では大きな人たちが体育の授業をしていました。

実はそこは高校で、家から2kmほどの場所でした。私は学校から真北に家に向かったつもりが結果として東に向かってしまい、見た事のない高校に来てしまったのです。

途方にくれた私は、来た道を引き返すという事に気づくことが出来ず、なんと学校の中に入っていってしまったのです。


実はこれには理由があり、私の家の近所に小薮という中学の先生が住んでいたのです。近所ということもあり、子供のいなかった先生は私を可愛がってくれていました。

私は辿り着いた場所を中学だと勘違いし、きっと小薮のおじさんがいると思い入っていったのです。

不思議な光景だったでしょう。

大きすぎるピカピカのランドセルを背負った黄色い帽子が、授業中の高校のグランドを横切り、校舎の中に一人消えて行く。


 その後の事は何故か良く覚えていません。

ただ立派な応接室に、ふかふかの椅子に座ってお菓子を食べていると、祖母が迎えに来てくれました。特に泣いた記憶も無く、祖母が来るまでの間、知らないおばさんや、おじさんが何人か相手をしてくれた事。電話番号は分からなかったけど、ちゃんと自分の名前が言えた事、でも小学校の名前は覚えていなかった事・・・・。


 ランドセルの裏には、その日以来住所と電話番号の書かれたシールが内側に貼られました。

それは高校の先生の誰かが、書いてくれたシールでした。

冒険の戦利品でした。



 後で聞いた話では、私は校舎に入るとすぐに捕獲され、職員室に連れて行かれたそうです。

先生達は、最初誰か職員の子供だと思ったらしく、しかしどうも迷子だという事になり、近くにある三つの小学校全部に問い合わせてくれたようです。


 ただ偶然とは不思議なもので、そこの教頭先生は祖父の友達だったらしく、後日祖父が教頭先生の家にお礼に行った時にも付いて行き、お菓子と色鉛筆を頂きました。




 更に偶然の恐ろしさを知ったのは、私が高校に入学したときでした。

実は私はその学校に入学し、当事の私の相手をしてくれた先生の一人がまだその学校にみえ、担任までして頂きました。


最初は先生も気づかなかった様ですが

なんと保護者面談の時、母が余計な昔話をしたばかりに・・・・





私は在校中先生方に頭が上がりませんでした・・・・・・・。







初めての教科書やノートには、ひらがなの名前が書いてあった事でしょう。

どなたが書いて下さったか覚えていますか?




自分の名前は練習しましたか・・・・・・・・・・・・


誰に教わりましたか、お父さん?



鉛筆を忘れたことはありますか・・・・・・・・・・・・・・


忘れ物をした時は、この世の終わりの様な気がしませんでしたか?


こっそり取りに帰った事はありますか?



授業中怒られた事はありましたか・・・・・・・・・・・・・


おしゃべりをしていたのですか?


他ごとをしていたのですか?










遠足のお弁当は覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・・


誰が作ってくれましたか?


前の日はよく眠れましたか・・・・・・・・・・・・・・



てるてる坊主は、つくりましたか・・・・・・・・・・・


どんなてるてる坊主をつくりましたか?どこにつるしましたか?








水筒は重くはありませんでしたか?


どこに行きましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




覚えていたら日曜日にでも行ってみませんか

お子さんがみえればお子さんを連れて


恋人がみえればお二人で


もちろん一人で行っても小学校の頃の貴方に会えるでしょう。




小学校の頃近くの山に遠足に行ったときのことです。

尾張富士と言って、市内では比較的有名な山ですが子供の足でも十分に登れる程度の高さです。言い伝えでは、隣の山より低かったため神様が悲しんでいるので、山の頂に石を積んで隣よりも高くしてあげようという言い伝えがあり、毎年春に石上げ祭りと言う祭りが行われていました。

大きな石に縄を付け、沢山の大人がその石を頂上まで運ぶのです。

私も何度か祭りを見に行ったことがあり、遠足で尾張富士に行くと知った時は、出来れば違う所の方が・・・、行った事の無い所の方がいいなぁと思ったものです。

 遠足の前日も然程期待は膨らまず、てるてる坊主は当時一年生だった妹の為の物でした。リュックに水筒を入れ弁当を入れ、前日に買った唯一の楽しみであるお菓子を入れ、学校に向かう足取りも特に軽くもなく。


 学校を出発した私達は、街中を抜け、途中の小さな湖の周辺で休憩をとり昼ごろには山のふもとにある神社に着きました。当時私たちの学年は5クラスあり、1クラス40人程度だったとして200人の大所帯がそれ程大きいとは言えない神社の境内に入りました。

 学校から出発して街中を歩いている時は普段見知った場所を団体で行進することの気恥ずかしさと嬉しさがあり、休憩までは友達と話しをしながら思ったよりも楽しい遠足でした。ただ湖での休憩の時に、お菓子を巡り問題が持ち上がりました。

 遠足前の約束には、お菓子はお昼と休憩のときに食べること、歩きながら食べたり、学校で食べないことと言う約束がクラスでなされていました。

 湖についた私達は、いそいそとリュックからお菓子を出し食べ始めました。普段食べ慣れたお菓子も、友達と一緒に学校という枠組みの中で食べるのは私達にとって特別な興奮を覚えるのに十分でした。友達と交換したり、見せびらかしたり・・・・・・

 ただ気になったのは、別のクラスの子供達が私達を見て怪訝な表情をしているのです。そして先生達が何やら集まり話をしていたかと思うと、担任の先生が私達を集めてこう言ったのです。



「お菓子はお昼のときに食べて下さい。」

「先生達で話し合ったら、途中で食べて気分が悪くなっちゃいけないから休憩中は食べない方がいいと言う事になったの・・」

そう言う先生の表情は少し曇った様子でした。

 どうやら私のクラス以外にも3クラスはお菓子を休憩中に食べてもいいと言われていたらしく、ただ二組の杉山先生のクラスだけが休憩中のお菓子を禁止されていた様でした。杉山先生は男の先生で、クラスの子をよくビンタする先生で恐れられていました。

「きっと杉山が駄目って言ったんだよ。」

誰からとも無く、そんな話題が持ち上がっていました。

 私は心の中で今回の唯一の楽しみを奪われた事を呪いました。

皆同じ気持ちだったでしょう。そして担任の先生には誰も文句は言わず、まるで先生の立場を察するかのように素直にお菓子をしまい始めました。


ついこの間まではただの子供だった私達も、高学年になり徐々に大人の世界を知り、少しではありますが分かる様になってきたのでしょうか。

 

 お昼になり境内でお弁当を食べ始める前に一度集合がかかりました。

尾張富士に登りたい、登れそうな人は集まるようにとの事です。実はこの時、全員が山登りをした訳ではなく、希望者だけが杉山先生達数人に連れられ登ったのです。

「ここまで歩くのに疲れた子はゆっくりお昼を食べて公園で遊んでいなさい。」

「まだ頑張れる子だけでいいからな。」

という杉山先生の話がありました。普段なら私は迷わず居残りを決め込んだ筈です。ただその時は、休憩の時の恨みと、「まだ頑張れる子だけでいいからな。」の

語尾の「・・な。」が酷く偉そうに聞こえ、まるで居残る子は頑張れない子だと言わんばかりに聞こえました。

 大して体力も無く、スポーツもそれ程得意ではない私でしたが、意地と頑固さは人並み以上の物を持っていました。それが今まで何度も登った事があるという経験に後押しされて、迷わず登るグループに参加させたのです。



「大丈夫か?」

登り始めて少し経った頃、杉山先生に声を掛けられました。

どうやら私は既に最後尾のグループに入っていたようで、加えて登山に参加しているのは僅か30名程度でした。どの子もスポーツの得意そうな足取りの軽そうな子ばかりに見えて来ました、事実そうだったのでしょう。

「おかしいなぁ?」登り始めて最初の休憩の頃には私の息遣いは荒くなり、汗が止まらず噴出していました。「今まで何回か登ったのに、何で今日はこんなにえらいんだろう?」今まではこれ程辛いと思った事など無かった山道が、その日はたまらなくきつく感じられました。

 出発してからも私はもう次の休憩が早く来ないか、登るんじゃなかった。今日は体の調子が悪いんだろうか、何でこんな日に遠足に来てしまったのかと後悔と、この先の不安ばかりが頭を駆け巡りました。

 もう駄目だと思った頃二回目の休憩になり、また杉山先生が声を掛けてきました。

「お前が登るとは思わなかったけど、本当に大丈夫か?」

「えらかったらここで休んでいてもいいぞ。」

「大丈夫です。」肩で息をしながら、汗だくの顔は意地になっていました。


神社から頂上まで大人の足で30分足らずの登山道でしたが、その時の私には永く遠く感じられ、とうとうもうすぐで頂上と言う辺りでダウンしてしまいました。

「ごめんなさい・・もうあるけません。」私は悔しさよりも、先生の忠告を聞かずに付いて来て、こんな所でダウンする事を怒られるのではないかと心配し、覚悟して先生に言いました。

「頑張れ、もう少しで頂上だ。」「せっかくここまで来たんだ。頑張れ。」

先生は怒るでもなく私を励まします。いっそ怒られても、ここで休ませてもらいたい。とにかく私は限界でした。

「よし少し休もう。」先生はそう言うと、へたり込んだ私の隣に腰を降ろし、タバコに火を着けました。

「本当によく頑張ったな。」「もうほんの少しだから、せっかくここまで来たから頑張って頂上に行こうな。」私を見る先生の目は優しい優しい瞳でした。

「甘いものを取ると元気が出るぞ、皆には内緒だぞ。」

私の前に差し出された手の上にはアーモンドチョコが2つ乗っていました。

その時のチョコの味は今でも忘れません。

結局何とか頂上に着き、私の遠足は終わりました。

「おめでとう。」

頂上に着いた時に、先生に掛けられた言葉に私は涙が出そうになりました。







家に帰りその話を母にすると

「あんたが登ったのは、いつも神社からでしょ。」

「今日は学校からずっと歩いて行ったんだからえらいに決まってるでしょ。」

と言われ始めて気づきました。

 私は今まで電車で神社まで行き、そこから登っていたことを。

当然学校から歩いていったのでは、神社に着いた時点でそうとう疲れていた事を。

「もっとよく考えてやりなさいよ。先生も迷惑だったろうに。」

母に笑われながらも私はチョコの味を思い出していました。



つまらないと思っていた遠足が、今では一番の遠足の思い出になって残っています。





意地をはるようになったあの頃・・・・・・・・・

頑張った自分を誇りに思うようになったあの頃・・・・・・・

大人の優しさに気付くようになったあの頃・・・・・・・・・・


遠足のお菓子はいつものお菓子とちょっと違う甘さがありましたね。


どんなお菓子をかいましたか?


駄菓子屋さんは今でも残っていますか?

残っている人は幸せな方ですね。

久しぶりに一度行ってみてはどうですか?





朝重かったリックと水筒は軽くなり、貴方は自分が大きくなった様に思ったかも知れません。

遠足から帰ったあなたは少し大人になり、家に帰ると胸を張って今日の話をした事でしょう。



楽しかったですか・・・・・・・・・・・・・・


疲れましたか・・・・・・・・・・・・・・・・




行った場所はいくつ思い出せましたか?





小学校の頃の思い出は何がありますか・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



朝顔はちゃんと花を咲かせましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


何か習い事はしていましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その頃のお友達は何人覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・・・






ペットは何か飼っていましたか?

ペットや植物は、貴方に面倒を見る喜びを教えてくれましたね。


大切に育てかわいがり、花が咲いたとき、ペットがうれしそうにした時、貴方は大切な喜びを感じた事でしょう。



そして花が散ったとき、貴方は命の尊さを刻んだ事でしょう。

ペットが死んだとき、貴方は大粒の涙をいつまでもいつまでも流したことでしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






 我が家では私が幼稚園の頃に初めて犬を飼いました。

白い雑種の雄犬で、チロと言いました。


 物心の付いた私にとってチロは一番の友達で、散歩に行くときも毎日私が付き添って行きました。

 お母さんに内緒でおやつのお菓子をあげた事は数え切れない程です。


 一度散歩の途中で私が他の犬に駆け寄り吠えられた時には、普段本当に大人しいチロがその犬に向かって行こうとしてくれました。

 また私が転んだりすると、不安そうに座って待っていてくれました。


 小学校に上がると、私は妹を引き連れて三人だけで散歩に出かけました。

左手に綱を持ち、右手で妹の手を握り、夕方の四時に出発するのがいつしか日課になっており、チロも時間が近づくと、そわそわしたり、嬉しそうにはねたりしていました。



 チロはもともと父の友人が、車で跳ねてしまった子犬をもらってきたものでした。夜見通しの悪い道を飛び出してきた子犬は、後ろ足を骨折してしまったそうです。

 急いで当事は数も少なかった獣医の所に連れて行き、何とか一命は取り留めたそうです。それから一週間してほぼ完治した子犬は、そちらの家にはもう別の犬もおり、2匹飼うのも大変という事もあり、私達の家族になりました。

 父と母も以前から犬がいれば私の良い友達になるだろうと、検討していた矢先の出来事だったようです。



 チロは私にとって友達であり、家族であり、兄のようにも思えました。

三人で散歩をするようになった頃は、いつも先頭はチロでした。チロが私を引っ張り、私が弟を引っ張っていました。

 前から車が来ると、チロは立ち止まりいつも私達を振り返りました。


 そんなチロも年をとり、私が五年生の時、チロが目の手術をしました。

白内障だった様ですが、幼い私にはどんな病気なのかは理解できず、ただただ手術と言う言葉の重みに打ちのめされ、手術の日が近づくとまるで自分が受けるかのように怖く、不安になり、とうとう熱を出して学校を休んでしまった程でした。

当事はもう八歳程になっていたようで、犬としては高齢の部類に入ります。



 その手術を期に、チロはだんだん元気がなくなってきました。

散歩に行っても走ることは無くなり、何か背中が丸くなったような印象が残っています。

 ただ私が一番ショックだったのは、チロがもうおじいさんだと知らされた時でした。うっすらと子犬だった頃の思い出の残っていた私は、チロは私よりも少し年上のお兄さんだと思っていました。

いつの間に、何故、チロだけが年を取ってしまったのか?

私には理解が出来ませんでした。


 ましてやチロが死んでしまう事など、夢にも・・・・・・・・




 十二月に入り、雪がぱらつく様な季節になると、母はチロを車庫の中で飼うようになりました。

 「ここなら風も当たらないし、少しは暖かいからね」

私は母の優しさを感じましたが、何故今まで外で飼っていたのに、今年の冬に限って車庫で飼うのか不思議に思うことはありませんでした。



二月になると使い古した毛布を犬小屋に敷いてやり・・・・



 春にはチロはいませんでした・・・・・


 私が学校から帰ると犬小屋が片付けられており、私は春が近くなったから、また庭に移したのかと思いました。

 すぐに友達と遊びに出かけた私が、四時近くに帰ると

「お散歩はいいからね」と母に言われました。


入院しているとの事でした。


その日の夜私は、父に呼ばれ話を聞きました。

実は入院ではなく、今朝早くに亡くなった事を・・・


すぐには理解できなかった私は、何時になったら会えるのか父にたずねたそうです。

 父は生き物の死について私にゆっくりと語ってくれました。



私は妹にはまだ言わないでと、泣きながらたのんだそうです。

きっと、これ程悲しい思いを、まだ幼い妹にはさせたくないと思ったのでしょう。



 私は泣きながらチロに手紙を書きました。

思い出せる限りの思い出と、思い出せる限りのありかどうを・・・・・




給食は残さず食べましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


どんな食べ物が苦手でしたか?


今もそうですか?







 私は豚肉が苦手でした。

実は幼稚園の頃、母の田舎で養豚をしている農家に豚を見せてもらいに行ったことがあり、その時は初めて見る本物の豚の迫力に圧倒されました。

 胴などは私の何倍もあり、上に乗ってもびくともしない程の大きさに驚いたものです。やんちゃだった私は豚の胴を靴で軽く蹴り、その硬さに再度驚きました。


豚舎の中で遊んでいるうちに、だんだん豚達に囲まれた私は急に怖くなり急いで外に出ようとあせりました。べそをかきながら外に出ようとする私に、豚たちは容赦なく道を塞ぎ、必死で押しやろうといくら力を出しても彼らには通用しませんでした。

その時です、私のお尻を一頭の豚が噛んだのです。


噛んだといっても歯を立てた訳ではなく、軽く咥えた様な形ですが、その時の私には充分過ぎるほどの恐怖でした。




 その日以来、未だに豚肉は苦手です。





 小学校の給食には豚肉が頻繁に使われており、毎日の様に苦戦しました。

当事は残さずに食べないと、全部食べ終わるまで放課も、掃除中も食べさせられました。

 私はある時は床に捨てたり、ある時は諦めて牛乳で飲み込んだりと、大変な毎日を送りました。時には先生の目を盗んで、ナフキンに包み家に持ち帰ったりもしました。その時は当然チロに助けてもらった訳ですが。

 またある時などは、ナフキンに包んだ豚肉をポケットから出すのを忘れ、そのまま洗濯されてしまった事があります。

 洗濯物を母がたたんでいた時に、その物体がポケットから発掘され・・・・・

大変な事になっていました。




 私にとってはあまり楽しかった思い出のない給食ですが、でも今思うと、先の割れたスプーンやビンの牛乳、ステンレスの食器、ソフト麺、硬いパンが無性に懐かしく思えます。

 




貴方はどんな給食でしたか?


給食は楽しかったですか?


献立表を家に持ち帰り、お母さんに渡していた事を覚えていますか?


当事好きだった子はいましたか?


覚えていますか?


恥ずかしかったですか?


照れくさかったですか?


でも一緒に遊びたかった、そんな想いを思い出してみて下さい・・・・・・・・・・・・・・・・







嫌いなお友達はいましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


いじめられた事は?

いじめた事はありましたか?






 小学校五年生のときのクラスに「アンモ」と呼ばれる女の子がいました。

私は家も遠く親しくはありませんでしたが、今でもその子の事は覚えています。

 アンモはアンモニアのアンモです。なぜそんなあだ名が付いたかと言うと、彼女がちょっとアンモニア臭のする事があったためです。別にお漏らしをした訳ではなく、また太った汗っかきタイプの子ではありませんでした。背はどちらかと言えば高く、体型はむしろ痩せ型だったように記憶しています。でも本当に少しアンモニア臭に似た体臭を感じました。今考えても何故あんな体臭がしたのかはっきりとは分かりません。そういった汗腺の体質だったのか、はたまた丁度生理が始まるような年頃ですからそのためのものだったのか。 ただ本当にアンモニア臭ではないとしても何がしかの体臭があったのはたしかただったと思います。

 私は五年生になり、彼女の名前を覚える前にアンモというあだ名を覚えました。

クラスの男子は面と向かってアンモと呼びます。彼女はしぶしぶでしょうが反応し返事をしていました。女子は流石にアンモとは言いませんでしたが、クラス内での日常会話では充分過ぎるほどアンモは浸透していました。先生に対しても男子はアンモという呼び名で彼女を呼び、先生にもそれで通じるほどでした。

 

 思春期を迎えようとする女の子が毎日アンモと呼ばれる苦痛はどれ程のものだったでしょうか、ただ彼女がそう呼ばれて泣いていた姿は目にしたことはありませんでした。影で泣いていたのでしょうか、それとも静かに心を痛めて耐えていたのでしょうか。


 ある時など彼女が給食当番でおかずをよそおうとしていたら、一人の男子がアンモは食べ物に触るなと騒ぎ出し、それにつられて何人かの男子が彼女からおたまを取り上げ自分たちで食器に盛り付け始めました。

 流石にそれを見た先生が間に入り、それでも彼女はおかずではなく、牛乳瓶を配る役割に変えられていました。きっと先生もそれ程悪気は無く、むしろ別の係りをさせてやったほうが、彼女にとって気持ち的に楽だろうという配慮だったのではないかと思いますが、それ以外にも同じような出来事は何回も起きました。

 席替えのときなどは毎回でした。彼女の近くに座ることになった男子はほとんどがあからさまに嫌がり

「アンモあっち行けよ。」などと罵っていました。


 彼女はそれでもほとんど学校を休むことはありませんでした。ただ本当にどれだけ辛かったか、私には知る由もありません。

 

 印象に残っているのは、彼女の事が学級会の議題で取り上げられたときのことです。「他人の嫌がることをしない」を題目に、彼女のあだ名について意見が出され、アンモという呼び名は禁止しようと言うことになりました。私はこれで彼女も安心して生活できると、人事ながら安心しました。しかし事態は収束せず、子供の残酷さを目の当たりにすることとなりました。

 ある男子が「お前の臭いは人が嫌がることだろう。」と難癖を付けたのをきっかけに、「明日から臭いがしないようにしてこい。」などと野次が飛びました。

この時ばかりは流石に彼女も涙を見せ、親しい女の子たちに囲まれて泣いていました。そして次の日彼女が学校を休んだのです。

 クラスでは昨日のことを先生が話されました。彼女が今までどれだけ我慢していたか。それでも先生には自分で解決したいからと、あえて男子を叱らないように頼んでいたこと。先生は言われました。

「もし自分の家族が、弟や妹が、お母さんがアンモと呼ばれたらどう思う?」

「君たちの行為は、彼女だけでなく彼女の家族も悲しませていると思うよ。」

「自分の大切な人が苛められている。そんな姿をそうぞうしてごらん・・・・・」


私は母や妹がと思うと本当に涙が出てきました。





そのあと彼女が何日休んだのか、再び登校した彼女に皆がどう接していたかは、残念ながら覚えていません。

私の彼女の記憶はこの日の先生のお話を最後に途絶えてしまっています。

でもきっと彼女は、暖かくクラスに迎え入れられたと信じたい想いで一杯です。

 


近所で遊んだ場所は今も残っていますか・・・・・・・・・・・・・・・・

危ない所には行きませんでしたか?

場所の取り合いはしませんでしたか?



小さい頃は少し危ないことに魅力を感じるもので、私の通っていたそろばん塾の近くに古い廃屋がありました。

私はよく近所の子供達と廃屋に出かけては探検をしたものです。木造二階建ての一階は床が剥がされ、土壁はむき出しで、所々穴も開いていました。二階に上がる階段は既に取り外され、はしごだけが掛けてありました。また二階の床の木も穴が開いている所があり気をつけて歩かないと落ちてしまいかねないような危険な遊び場でした。

だいたい私達が行くのは夕方で、そろばん塾へ行く途中での道草でした。やや外が赤くなり始め、電気の無い家の中は変に薄暗く、正直言ってあまり入りたい雰囲気の所ではありませんでした。ただ友達の手前怖いとも言えず、早く今日のここでの遊びが終わるように願うばかりで、必ず誰かと一緒にくっついていました。

だいたいは、そのほこりっぽい家の中ではしごを上がり二階で買ってきた駄菓子を食べます。食べ終えると床の穴から下を覗き込み、近くにある木切れや土壁を下に落としたり、雨降りで傘を持っているときなどは傘で床に穴を開けたり、土壁を削ったりと、今思えばとんでもないことをしていました。中にいたのは10分程度でしょうか、そろばん塾の時間に合わせて私達は退散をするのです。

そんなある日私は普段あまり一緒に遊んだことの無い子とそろばん塾へ向かう道で出会いました。その子は同じクラスの子で学校では話をしたりしていましたが、家に帰ってから遊んだことは無かったと思います。そんな友達に偶然出会い私はすこし勇気のあるところを見せたくなってしまい、私達の秘密の家に誘ってしまいました。

きっと私がこんな遊びをしていることを知ったら驚くだろう、勇気とやんちゃさを認めてもらえるだろうと思い、普段なら決して自分から進んでは立ち入らない廃屋に二人で入っていきました。


私は自慢げに一階を案内し、土壁に石を投げて壊したり、破れた障子に手を突っ込んだりしてはしゃぎました。私の得意げな話を素直に聞いてくれる相手を得て恐いのも忘れ、時間も忘れるほどでした。その子は私の話にいちいち感動し、「すごいね」を連呼してくれました。

しばらくして得意満面の私は、はしごで二階に上がり二階から下に木切れを落とし遊び始めました。しかしふと気付くと二階にいるのは私一人で、その子は上がってはきませんでした。あの子も本当は怖いのかなと思いながら、私もそろそろ下に降りようかとはしごの方に向かうと、床の穴からその子が見えました。

「登ってこないの?上も面白いよ。」

私は虚勢を張り、誘うように言いました。

すると

「二階にいる人達が怒っているから、早く降りてきたほうがいいよ。」

と、とんでもないことを言うではありませんか、最初私は理解できず。


「二階は私しかいないよ。」と返事をしましたが、何やら急に辺りが暗く感じ、振り返る勇気も次第になくなりました・・・・・・・


「ごめん、すぐ降りるからそこにいてね。」

声を掛けても返事はありませんでした。


かわりに家の外から

「ごめんね、塾に遅れるから先に行くね。気をつけね。」

と言う声が聞こえてきたときには、私の心臓は破裂しそうに脈打ち、膝が震えてもう声も出ませんでした。





お友達とは何をして遊びましたか?

ボール、縄跳び、ゴムひも、バット、グローブ、釣り竿、折り紙・・・・・・・・・・



毎日何をして遊ぶかに想いを巡らしていた日々・・・・・・・・

学校が終わり、家に帰ると急いで遊びに出かけた日々・・・・・

その頃の貴方は自分が少しずつ大人になっていく事など気が付きもしなかったのではないでしょうか。

夕方になれば家に帰りお母さんの作ってくれる夕飯を食べて・・

夜になればテレビの前に座り・・・・・暖かな布団で眠りにつき

その頃の貴方はきっと毎日幸せな日々を、安心した日々を過ごしていたことでしょう。






小学生の貴方は何を大事にしていましたか?

おもちゃ?  漫画?  文房具?  

その頃の宝物は今どこにありますか?

その頃の宝物に今も魅力を感じることができますか?


宝物がまだ残っていたら、夜ゆっくりと眺めてみてはいかがでしょうか

きっと小学校の頃の貴方に戻ることが出来るでしょう・・・・・・・・・

その頃の貴方にとって、自転車は一番の宝物だった事でしょう。

自転車があればどこまでも行けた事でしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

好きな時に好きな所へ、細い道も、でこぼこも


大人を追い越して走る感覚は、特別なものだったに違いありません。

友達同士列をなして走る姿は軽快だった事でしょう。


補助輪を外した日のことを覚えていますか?


私は近くの学校のグランドで、父と一緒に特訓をしました。

友達は皆補助輪を既に外していましたが、私は外すのを嫌がり、片方だけ残して自転車に乗っていました。

 片側だけの補助輪で少なくとも一ヶ月以上は走っていたと思います。ただ友達と一緒に走っても、どうしてもスピードが出せず少し恥ずかしい想いをしたものでした。しかしそれでも私は補助輪というお守りなしでは自転車に乗ることができずにいました。走るときにはガラガラと不格好な音をたてながら、少しだげ補助輪のある側へ傾いた状態で走っていました。

 「いつまでたっても補助輪を外さないと乗れないぞ。」父に言われても私は現状の安心感を捨てる気持ちにはなりませんでした。

 自転車に乗るのは本当に好きでした。ただ補助輪を外す事だけはどうしても出来ませんでした。転ぶことを怖がり、前進を躊躇する私に父が背中を押す事になったきっかけは私が自転車でお使いにでた日の帰り道でした。

 その日私は母に言われて近くの八百屋にネギを買いに行きました。当然補助輪の付いた自転車に乗って。私は八百屋に着くと自転車から降りて店の中に入っていきました。片側とは言え補助輪の付いた自転車はスタンドで立たせる事が出来ず、いつも道の隅に寄せて置いておくことしか出来ませんでした。その日もいつもと同じようにちゃんと隅に寄せて置いたのですが、丁度通りかかった父が私の自転車を見つけて店から出てくるのを待っていてくれました。

「スタンドで立てておかないと動いて危ないかも知れないなぁ・・」父の言葉は私を非難するものでは無かったのでしょうが、私にとってはいつまでも補助輪を外さずにいることを、非難されているように感じました。

「別に危なくないよ。それに補助輪があるとスタンドが付けれないんだから仕方ないよ。」「躓いたりする方が悪いんだよ。」

 私の一言に父は眉をしかめるのが分かりました。

しまった・・・・・。と思う私は下を向き父の顔を見ることなく自転車にまたがり、家路を急ぎました。

 そして2日後、その週の日曜です、私の特訓が始まりました。

「もう大きいんだから、ちゃんと自転車に乗ってスタンドを付けなきゃダメだ。」

手に工具を持った父が自転車の後ろにしゃがみ補助輪を外し始めました。私は何も言わずただ見守り、従うしかなく。あっという間に見慣れた私の自転車はスタンドの点いた姿に変わってしまいました。

 午前中は嫌がる私を連れて、学校までトボトボと自転車を押しながら向かいました。15分程度でグランドに着いた私たちは無言で練習を始めました。ただ自転車に跨り、両足で地面を蹴って進む私を父はじっと見ていました。特に足を着くなとか、しっかり漕いで乗れとかの指示はなく、ただじっと見守っていた父は私にとっては、これ以上ない程のプレッシャーでした。

 やる気もなく、疲れた私は勝手に休憩し、それでも父は無言で私を見ていました。昼まではこんな感じてダラダラとした練習を続け、父の「一度家に帰ってお昼を食べよう」の一言で、また二人して家までの道をトボトボと歩き始めました。

お昼には母が私の好きな焼きそばを作ってくれましたが、あまり美味しく感じなかった記憶があります。父と二人で少し遅めの昼食を押し込み再びグランドに向かいました。

 「乗れるようになろうとしないなら練習しても仕方ないな・・・」父は静かに私を見ました。「だって・・・」その先は言葉が出ませんでした。「帰りは自転車に乗って帰るって母さんに約束してきたぞ。」父は私の背中を叩き、私は父の手に押されるように自転車に跨りました。父は自転車の後ろを持ち、振り返る私に「さあ、漕いでみろ。」と力強く言いました。

 何度転びかけたでしょうか、何度転んだでしょうか・・・・・・・・

真っ直ぐにならなんとか乗れるようになり・・・・・・・・・・・

父が地面に書いたコースでも何度も転び・・・・・

私は、今までに味わったことの無かったスピード感に、いつしか酔いしれいました。ジグザグに走ってみたり、広いグランドの端から端まで恐る恐る全力で漕いでみたり、服は砂まみれになり・・・・・・・・・・

 今までと同じ自転車のはずが、私には全く別の自転車に思えました。ペダルを力いっぱい漕いだ時の感覚、身体でバランスを取って右に左に回った時の爽快感今までの自転車では決して味わう事の出来なかった心地よさ。


 今思えば小学校の頃は父と何度か特訓をしました。

自転車の特訓、逆上がりの特訓、水泳の特訓・・・・




貴方はどんな特訓をしましたか?


運動?

キャッチボール、スキー、マラソン・・・・・・・・・・


勉強?

宿題、算数、漢字、習字・・・・・・・・・・・・


ピアノ? 踊り?  


誰と特訓しましたか?

お父さん?  お母さん?

お兄さん?  お姉さん?

その時の事を覚えていますか?

頑張りましたか?

楽しかったですか?


きっと今はいい思い出になっていることでしょう。

家族旅行、子ども会、イベント事の度に思い出が増え、写真が増え・・・・・・・・・・・


友達が増え、けんかをし、親に褒められ、叱られて・・・・・・・・・・・・・・・・・・


いつしか少しずつ、少しずつ、子供から卒業しはじめたあの頃・・・・・・・・・・・・・


大きかったランドセルが小さくなり、かぶっていた帽子が小さくなり

キャラクター入りの靴を嫌う様になった貴方

自分一人で、何でも出来ると思い始めたあの頃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



大人の真似をするのが癖だったあの頃

どんな事を真似しましたか、生意気な子でしたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



背伸びをすることで、自分を表現したかったあの頃

背伸びをし過ぎて失敗はしませんでしたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



あたかも草木の芽生えの、柔らかい先端の様な、あの頃

上に伸びる事だけを考え、傷付いた事はありませんか・・・・・・・・・・・・・・・・・・







中学に入り、少しずつ親に秘密を持ち、身体が変わり始めたあの頃

もう、心地よいゆりかごには戻れない事に、まだ気づかなかったあの頃


貴方は何を考え、何を夢見ていましたか・・・・・・・・・・・・・・

将来の事?

欲しい物の事?

異性の事?


何を大切にしていましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

友達?

本?

レコード?


どんな事で悩みましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・

体の事?

友達の事?

勉強の事?

部活の事?


今思えば些細な事かも知れません、でもその時の貴方にとっては、どうしようもなく辛い、大きな大きな悩みだった事でしょう。

でも、どんな悩みも、やがて思い出に変わって行くことができます。

辛いことや苦しいことも、物語の一つに加えて今まで歩いて来た貴方です。



きっと今ある悩みも、やがては思い出に変わることができるでしょう。




貴方の周りには誰がいましたか?

どんな話をしましたか・・・・・・・


大人になりかけた子供たちは自分達の力を信じていた事でしょう

たとえ大人からは危なっかしく思える事も

貴方たちにとっては最良の選択だった事でしょう。






初恋はしましたか?失恋は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どんなに勇気がいりましたか?

友達には相談しましたか?

ご両親には?



その頃の貴方にとって、ご両親はどんな存在に思えましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・


どんな秘密を持っていましたか・・・・・・・・・・・・・


その秘密はもう打ち明けましたか?




どんな事で心配をかけましたか・・・・・・・・・・・・・


ちゃんと謝りましたか?

もしまだ謝っていないなら、今度謝ってみてはどうですか?




 中学の頃からでしょうか、私はあまり両親と出歩かなくなりました。買い物も一人で行き、遊びに行くときはほとんど友達と一緒に

 母にデパートに誘われても断ることが増え、丁度その頃になり私には勉強部屋という名目で部屋が与えられました。勉強机とベッド、本棚には漫画を並べ父にかってもらったラジカセが宝物でした。今では3千円もしないような小ぶりの黒いラジカセ、SONY製のカセットテープが一つしか入らないラジカセでした。私はラジオで気に入りの曲が流れると急いで録音スイッチを入れていました。

友達にダビングしてもらった流行の曲や、テレビの歌番組を録音したテープを何度も何度も聞いていました。最初に手にした家電がSONY製だったせいか今でも家電はSONY多くなっています。またFMでテレビの受信が出来ることを初めて知りました。ラジオで聞くテレビ番組が普段見ている番組と全く同じ事に妙に違和感を覚えました。

 部屋に隠る時間が増え、深夜ラジオも聞くようになり。仲の良かった妹でさえ部屋に勝手に入ることは禁じ、私の城になっていました。


貴方はご自分の部屋はありましたか?

ご兄弟と一緒でしたか?

部屋では何をしていましたか?

中学生の貴方にとって一人で過ごす時間は、どんな時間でしたか?

貴方は何をして、何を考えていましたか?

覚えていますか?



この頃の貴方をご両親はどんな気持ちで見守られて見えたでしょうか?

想像してみて下さい・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今度聞いてみたらどうですか?







中学になり私は学習塾に行くようになりました。週に三回程度近くの個人塾に通っていました。今ではもう無くなってしまっていますが当時は近所の子供達が大勢通っていました。

実はその塾で一つの事件が起こりました。私が二年生の時ですが夏休みも終わり二学期が始まった頃にそれは始まりました。男子も女子も着てくる服に以上に拘る風潮が出てきたのです。始まりは三年生の男子数人が流行の同じシャツで通う様になった事から始まり、女子も仲の良い子達が同じ様なスカートや鞄をそろえ始め、徐々に私達二年生の間にも浸透し始めたのです。テレビの影響もあり田舎にも関わらず私達の間には洋服への拘りと、変な集団意識が大きく頭を持ち上げていました。今思えば、たかが塾へ行くだけの事に何故それ程服装に拘る必要があったのか、馬鹿馬鹿しい想いもしますが、きっとその頃の私達には大事な問題だったのでしょう。私も母にマジソンスクエアーガーデンの鞄をねだり、駄目と言われても何度も何度も食い下がっていました。

そしてそんな時です、父兄の間で服装とその出費が問題になり、塾長を交えて話し合いが持たれました。結論は直ぐに全父母に通知され、私達は耳を疑いました。

なんと塾に通う服装が決められたのです。どういう事かというと、学校に通う服装そのままで塾に通わなければならなくなったのです。

次の日から私達は学生服とセーラー服、鞄は横かけの白い鞄と紺のクラリーノの学生鞄で通うはめになりました。変な光景です、夕方六時過ぎに制服を着て家を出るのです。知らない人が見たらいったいこの子達はどこへ行くのかと思ったことでしょう。それが嫌で塾を去る子もいたようですが私達のほとんどは卒業まで制服での通塾を繰り返しました。


今思うと本当に懐かしく、滑稽な思い出です。

私達子供への親の大きなゲンコツが、妙に懐かしくそして温かく感じられます。



学校で先輩と呼んでいた上級生は、貴方にとって随分と大人に感じた事でしょう。

自分も、だんだん大人になって行く事は感じていましたか?

今の貴方を想像できましたか?






人は成人式で大人になる訳ではありません


貴方はいつ、子供から卒業しましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


中学校を高校を卒業した時?


一人暮らしを始めた時?


車の免許を取った時?


就職した時?







高校に入った貴方は本当に大人に近付き始めたことでしょう。

もうおむつをしていた事など思い出せない程に・・・・・・・・・

あたかもずっと前から一人で何でも出来ていたかの様な錯覚に陥り、五年ほども前にはまだ一人で電車に乗ることさえ覚束なかった事も忘れ、たかが十年前までは一人では風呂にさえ入れなかった事さえ忘れ・・・・・・・・・

覚えていますかその頃の貴方を・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 高校に入った私は中学の頃よりも親との距離が縮まったように思います。反抗期が終わったのがこの頃だったという事でしょうか。両親と妹と四人で買い物に出かけたり、妹の面倒をまた進んで見るようになりました。 

 学校では禁止されていましたが、近くのスーパーで初めてアルバイトもしました。ただ一週かもしない内に父にばれて辞めさせられてしまいました。

その後は細々と学校公認のアルバイトの年賀状配りを年末年始に励み、二年生の時にはそのお金とお年玉で原付を買おうとし、これまた事前に父にばれ大目玉を食らいました。

今思うとそれが最後の大目玉でした。あれ以来親に怒られた事はほとんど記憶に無く、今となっては本当に懐かしい思い出です。




貴方が最後に怒られたのはいつでしたか?

何で怒られましたか?

思い出してみて下さい・・・・・・・・・・・・・・・・・・







 高校に入った私は依然と少し変わりました。

服装でも、持ち物でも人目を気にし、流行を追うようになっていました。髪型

も中学の頃のように無頓着ではいられなくなり、パーマをかけた友人を羨ましく

思い、自分もかけてみようか似合うだろうかと心悩ませる様になりました。整髪

料を使うようになったのもこの頃からでした。




このころの貴方は何に熱中していましたか?

今までの貴方と変わったことはありましたか?


ご両親とはよく話しをしましたか?

学校は楽しかったですか?


何か後悔していることはありませんか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 当時部活に入っていた私は週末には、練習試合で電車に乗って遠くの学校へ

行くことがよくありました。

朝早く出かける私のために休みの日に早起きをして朝食を作ってくれる母

への感謝はまだ薄く、当たり前に思っていた幸せな日々でした。

 何でも一人前にできる様になったと思っていても、家族への感謝、親のありがたみ、まだまだ心が一人前になりきっていない頃でした。


その頃の楽しみの一つに、試合の後友達と立ち寄るファストフードやパン屋がありました。普段来ることのない町の駅前にある美味しそうなパン屋、惣菜屋のコロッケ、お好み焼き、試合に勝っても負けても家に帰る頃に美味しかった思い出だけが残っていました。無論普段も部活動を終えた学校帰りに寄り道をしていました。ただ普段よく寄るたこ焼屋やパン屋とは違い、私達の想像と食欲を掻き立てるメニューを発見することができました。


 高校二年の夏の暑い日曜でした。私はいつもの様に電車で2時間以上かけて蒲郡の方まで試合に行きました。夏休みに入る直前の本当に暑い日曜でした。母は、悪くならないようにと、弁当箱に保冷材を入れて持たせてくれ、私はいつもの様に感謝の言葉もそこそこに胸を弾ませ駅に急ぎました。

 10時前には会場に着き、12時前には既に負けて私達のトーナメント戦は終わりました。もちろん悔しさもあったと思いますが、なにせ普段からそれ程真剣に部活動に打ち込んでいた訳でもなく、ただ遠くまで来たのに早く終わってしまったという感覚が残っています。ただそこからは私達の時間です。何処に寄ろうか、何処へ行こうか、着替え終えた私達は早足で会場を後にしたものです。

「お昼何食べようか?」

「え・・・」そうです今日は暑くなるから弁当ではなく何処かで一緒に食べようと前日に話しをしていた事を忘れていました。私はその事を母に告げることを忘れ、当然母の作ってくれた弁当がカバンの中に入っていました。

 どうしようか?みんなと別れて一人弁当を食べることは出来ません、2時間以上の帰り道を一人で帰るなど・・・せっかく早く試合が終わりこれから遊びに行こうという時に私だけ外れるなんて・・・・・・・かと言ってみんなを付き合わせ、パンでも買ってきてもらい、どこかの公園で、この暑い中弁当を食べるなんて事も考えられません。

「どこか涼しい所に行こうよ。」私は自分自身を促す様に言いました。

「駅の近くにデパートがあったよ。」

「取りあえずそこに非難しようか。」

私達は蒸し暑い空気と強すぎる日差しを避けようと駅前に急ぎ、歩いて15分ほどの道のりは長く、私達のシャツを汗でびっしょりと濡らするのに十分でした。しかしそれでも「かき氷も食べたい」とか「昼はハンバーガーでいいよ」とか「まず地下食で冷たい飲み物を買おう」とか、会話は弾むばかりで足取りも軽く半ば駆け出すほどの勢いで歩いていきました。

 入り口の自動ドアが開くと、その涼しさに歓喜の声を上げ、その足は一目散に地下へのエスカレーターに向かっていました。

何とか冷たいジュースを見つけ一息ついた頃、汗でぐっしょりしていたシャツが冷たくなり、しばし心地よい寒さに酔って、近くのベンチに並んだ私たちは食欲も徐々に取り戻し始め、お腹が鳴り始め何を食べるかと言う話題に移るのに然程時間は要りませんでした

 その時の私にとって弁当は重荷以外の何物でもなく、既に弁当を食べると言う選択肢は無くなっていました。

 私達の目に入ったのは、当時流行し始めた回転寿司でした。まだまだ高校生のお昼ご飯としては高価な物で、私自身家族と一緒に二三回行った事があった程度で、ましてや友達同士ではいるなんてその時までは思いもよりませんでした。

ただ熱い夏の昼ご飯としてはこれ以上の口当りのよいものは無く、意を決した私達はゾロゾロと店内に吸い込まれるようにしてカウンターに座りました。

 ティーパックのお茶を二袋ずつ湯飲みに入れる心苦しさは、ほんの僅かな贅沢のための私にとっての儀式です。ガリを小皿に山盛りにし、上から醤油と甘だれをかけてシャクシャク噛みながら、既に目は遠く向こうのレーンまで見渡すように見開いて、右手には箸を持ちながら左手はレーンに近く漂う様に・・・・・


 友達が何を食べたのか、自分は何を取ったのか今となっては覚えてはいませんが、唯一つその時に始めて食べた焼きサーモンの油の美味しさは今でも忘れません、むしろ記憶の中で増幅し現実以上の美味しさとして私の中に残っています。

今でも回転寿司に行くと焼きサーモンは欠かさず食べています。ただ、あの時の美味しさには未だ出会えずに、それはおそらく美味しさではなく始めて食べた味に対しての驚きと感動だったに違いなく、それは今どれ程美味しい焼きサーモンを食べても味わうことの出来ないものでしょう。



貴方は何かを始めて食べたときの、感動と驚きを覚えていますか?


お父さんが奮発されて連れていってもらったステーキやお寿司、家族旅行の先での豪華な夕食、近くの喫茶店で食べたイタリアンスパゲティー・・・・

貴方の記憶に残る食べ物は何ですか?

始めて食べたチーズケーキ、始めて食べたうに、いくら、始めて飲んだシャンパン・・・・私達は様々な味覚を体験しその感動と驚きは時としてどんな記憶にも勝るものとなることがあります。

もし最近そんな経験が少なくなったのなら、是非新しい味に挑戦してみてください、その味が貴方にとって良い記憶となりますように・・・・・・・


 回転寿司を出た私達はデパートの中を物色し、好みのレコード、本、洋服を見て回りました。もちろん小遣いは少なく買うことは出来ませんでしたが、それでも楽しく時間は過ぎていき、見知らぬ町の雰囲気にわくわくし続けたものです。

そんな最中、ふと私の頭を過ぎったのは弁当の存在です。どうしよう・・・・

このまま弁当箱を持ち帰るわけにも行きません。かと言って今から食べることも出来ません。どうしよう・・・・・・

 その思いは徐々に膨らみ、帰りの電車に乗る頃には友達の話も虚ろな程に、解決方法の見つからないまま帰路につき、解決方法の見つからぬまま最後の手段を執る覚悟をすることとなりました。このまま持ち帰れば母に何故食べなかったか聞かれるだろう。友達と食べた事を正直に言ったら、母は何と言うだろう。

「朝早くから作ったのに何故食べてくれなかったの?」

「友達と食べるなら何で昨日のうちに言ってくれなかったの?」

「このお弁当はどうするの?」

「もう傷んでいるかも知れないから食べられないよ。」

どの言葉も聞きたくはありませんでした。せっかく作ってくれた母に申し訳ないと思う気持ちが、何とか母には食べたと思ってもらいたいという気持ちが、最後の手段を取らせたのです。私は自宅付近の駅に着くと弁当箱を空け持っていたビニール袋の中に落とし込んだのです。そのビニール袋は汗をかいたシャツなどの汚れ物を入れてくるつもりで持って出たスパーの袋でした。そのビニールに入れる時は、とてもお弁当の中身はみることが出来ませんでした。ただ白いご飯にかけられたふりかけのりと、ブロッコリーの深い緑色、プチトマトの鮮やかな赤色が目に映り、手間をかけてくれた様子が更に私の胸を締め付けました。

 私はそのビニール袋をどこかのゴミ箱にでも捨てようかと思っていたのですが、目に映ったその彩りの良さが私にそうはさせてくれませんでした。どうしようかと思案しながらトボトボ歩いていると既に玄関に着いてしまった私は、カバンの中にビニール袋を入れたまま自分の部屋へ駆け込みました。

 その日は母の顔をまともに見ることも出来ず。夕食もそこに疲れを理由に自分の部屋へ引きこもり、じっとカバンを見つめていました。母に弁当箱を出したとき、「ありがとう。」と一言添えるのが精一杯でした。母は「傷んででなかった?」「鮭の塩焼き好きだから入れといたけど、塩ちょっと強かった?」と訪ねる母に「大丈夫だったよ・・・」と、言葉だけを残して階段を駆け上がり、とにかく母に申し訳なく、寿司屋で焼きサーモンを食べた事に異常なまでの罪悪感を覚えました。

 ただその件以来、私の中で両親への感謝の気持ちが少しずつ芽生えてきた様な

気がします。今でも鮮明に残るあのお弁当の鮮やかな色彩。

それは母の想いを感じるのに十分すぎるものでした。








貴方にもこんな経験はありますか?


ご両親の想いに気付いた瞬間、先生の想いに気付いた瞬間。

何気ない日常の生活の中で、ふとした瞬間出会う無償の想いを感じたことがあ

ったと思います。


どのような想いが伝わってきましたか?

貴方はその時素直に答えることが出来ましたか?


今、貴方は誰かに同じような想いを注いで見えるかも知れません、その貴方の想

いと同じだけの、それ以上の想いを注がれていたことを・・・・・・・・・


その頃素直になれなかった方は、一度お話しされてはいかがですか?

そして「ありがとう」と一言添えて・・・・・・・・・・・・・・・









友達と話す内容も随分と大人びてきました。

異性のこと、勉強のこと、将来の事。

両親や先生には話せないような悩みも友達になら相談できました。

私達は徐々に一人歩きを加速し始めていたのでしょう。


その加速は当時の私達には心地良く魅力的なものだったに違い有りません。

加速しすぎる私達を、陰で見守る人達の心配をよそに、誰もが通る道を駆け抜け

抜けて来たのです。





貴方は全力で駆け抜けましたか?

つまずきながら駆け抜けましたか?



駆け抜けるときに、誰かを傷つけたりはしませんでしたか?

貴方自身が傷つきはしませんでしたか?



駆け抜けるとき貴方の目にはどんな景色が写りましたか?



一緒に駆け抜けたお友達は、今何をされていますか?



貴方が駆け抜けた時、見守ってくださっていたのは何方ですか?






この頃の貴方は何を夢見て、何をしていましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



何に夢中になっていましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



遊び・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

若さに任せて周りに迷惑は掛けませんでしたか?

ご両親に心配は掛けませんでしたか?

遊びに夢中になるあまり、体を労わる事を怠りませんでしたか?

自分を大切にしていましたか?




恋愛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どんな出会いでしたか?

相手の気持ちをちゃんと受け止められましたか?

自分の気持ちばかりが先行しませんでしたか?

誠実でしたか?

ご両親に紹介しましたか?

きっと様々なドラマがあった事でしょう・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



その頃の写真は残っていますか?

たまにはこっそり引き出しから出して思い出してみてはいかがですか?






大人になりかけた頃の貴方は、どんな友人に囲まれ、どんな方にお世話になっていましたか・・・・・・・・・・・


人生の先輩からどんな言葉をかけて頂きましたか・・・・・・・・・・・・・・・・


目上の方から頂いた苦言は素直に受け止めましたか・・・・・・・・


今振り返って、その苦言をどう思いますか・・・・・・・・・・・・


友人とはお互い親身になり話ができましたか・・・・・・・・・・・



一人の大人として扱われることが多くなった貴方。

きっとそれは貴方にとって誇らしく嬉しいことだったでしょう。

ただその時はまだ、子供としては扱ってもらえなくなったことには気付くことは出来なかったでしょう。

様々な責任を背負い歩くことを強いられ、庇護の対象ではなくなること。

それは当然誰もが通ることですが、通過するときは中々気付くことは出来ないことでしょう。

通り過ぎてしばらくしてから、ふとあるときに気付く。

己が背負った責任の重さと周囲の期待、自負の想い。

そしてそれは、ある時は重圧となり、またある時は励みとなる。


貴方はそれを励みにできていますか?


もし貴方にとって重荷なら少し休んでみては?

無理をせず、方の力を抜いて深呼吸をしてからコーヒーでも飲んで、温かなミルクでも飲んで少し休んでみて下さい。


20代のあなたは、ランドセルの頃を振り返る余裕はありましたか?


ゆりかごの頃の、ご両親の思いを考える余裕はありましたか?




今はその余裕はありますか?


貴方を支えて下さった、見守って下さった方々の思い


貴方自身の歩んだ道を振り返り、思い出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 私が二十歳になり成人式を迎えたとき、私は病院にいました。スキーに行き足を折り成人式に出ることもなく右足を吊り下げていました。


 その時に、同じ病室のお年寄りからこんな事を言われました。

その方は七十歳くらいだったでしょうか、品の良い感じの優しそうな方でした。毎日のように娘さんが見舞いにこられ、日曜日には高校生のお孫さんも顔を見せていました。暇だった私はよく話しをするようになり、お孫さんと私の年が近いこともあり、随分打ち解けて色々な話しをして下さいました。

そして私の成人式が近いと話すと

「ご両親はお元気?」

「おじいさん、おばあさんは?」と尋ねられ

両親は健在でしたが、祖父母は既になくなって久しい事を告げました。

すると急に涙ぐまれ

「きっと見たかったでしょうに、さぞ見たかったでしょうに・・・」

「もし私が孫の成人式を一緒に迎えられたなら、どんなにどんなに嬉しいか。」

「もし孫の結婚式に出られたらどんなにどんなに嬉しいか。」

そう言って、ポロポロとポロポロと涙を零されました。

それは決してご自分が出られないかもしれないという想いではなく、私の祖父母が早くに亡くなった事へ、成人式にも結婚式にも出られなかった事への深い深い想いでした。

 確かにそうでしょう、もし私の祖父母が元気なら、成人式を迎えた私をどんなに喜んでくれたでしょう。幼い頃の祖父母の顔が頭を過ぎりました。


 恥かしながらその時始めて感謝の気持ちで一杯になりました。

育ててくれた両親への想い。

大切に見守ってくれていた祖父母への想い。

自分が乳を吸い、オムツをしていた頃の事を振り返ることができた様に思います。

どれ程祝福されてきたか、どれ程愛されてきたか。

今に至るまで、どれ程の心配を掛け、どれ程の想い注いでもらったか。


 足を折り、成人式には出られませんでしたが、代わりに何か大切な事に気付くことが出来た様に思います。


 ふとした事を、ふとした経験を重ねながら自分を見つめなおし、私達は大人になっていくのでしょう。

 そしてそれは幾つになっても大切な事でしょう。






貴方はどんな折に振り返りましたか?



最近そんな経験はありましたか?

 



初めて職場に出勤した時の事は覚えていますか・・・・・・・・・・・


就職が決まった日の事を覚えていますか・・・・・・・・・・・・・・

きっとご家族は喜ばれた事でしょう。

もちろん貴方も、未来を夢見て・・・・・・・・・・・・・・・

どんな未来を夢見ていましたか・・・・・・・・・・・・・・・





仕事に慣れずに悩んだことはありましたか・・・・・・・・・・・・・

きっと貴方には相談する方がみえた事でしょう。

助言下さる方がみえた事でしょう。

励まして下さる方がみえた事でしょう。






何年か経ち、仕事に慣れた頃、貴方は何を思いましたか・・・・・・・・・・

初心は忘れませんでしたか?

見守ってきて下さった方に認められた時は、本当にうれしかったでしょう。

失敗はしませんでしたか?

新しい悩みも出てきた頃ですか?

誇りを持って頑張って行く気持ちは、今も変わらない事と思います。


 私は今でも覚えています。

まだ若かった私に、上司の方から頂いた一言を。

 

 それは私の結婚式の時でした。

スピーチをお願いした上司は私自身最も尊敬し、最も信頼していた方です。スピーチの中での私の紹介で、無論祝いの席と言うこともあり、随分と奮発して下さった言葉だとは思いますが。こんな一言を頂きました。


「どんな仕事でも、任せておける。任せておけば安心できる。」

身に余るお言葉を頂きました。私の親ほどの年齢の、尊敬する大先輩から頂いたこの一言は私の胸に深く深く刻まれました。

 無論それまでも私なりに一生懸命に仕事に打ち込み、自分自身満足とまでは行きませんが、それでも精一杯努力をしてきておりました。そんな時です、この言葉を頂いたのは。

何も分からない私に一から仕事を教えてくださり、失敗した時、上手くいかない時などには陰ながら応援して下さった、大先輩から頂いた言葉でした。私にとってそのような言葉を頂ける事、そして信頼して頂ける事は何よりも嬉しく、自分自身に誇れることでした。

「どんな仕事も、任せられる。」しかも「安心できる。」これ程の言葉を頂けるとは思ってもいませんでした。


 実は今はもうその方にはお目にかかることが出来ません。それだけにより深く私の胸に刺さり、私自身の大きな大きな励みとなっているものです。


 何か挫けそうになった時。行き詰まり道を見失いそうな時。苦しい時。

頂いた言葉を思い出し。

あの方に認めて頂けた自分ならば、きっと頑張ることが出来ると信じて歩いてきました。


 そしてこれからも



人には様々な欲求があると言います。

動物として一番根底にある欲求には安全、生存に関する欲求があり、これは命を繋げるために不可欠な欲求の領域です。これらは我々が生れ落ちた瞬間から、いや母のお腹にいる時から持ち続けている欲求でしょう。食欲、性欲、睡眠欲、危険を回避したい言う欲求、命を亡くしたくないと言う欲求です。

 次にその根底の欲求が満たされると、私達は人間らしく生きるための様々な欲求を生じます。より心地よく快適に過ごしたい、ただ食べるだけでなくより美味しいものを食べたい。両親から、家族から周囲から愛されたい。これは私達が動物としてではなく人間として生きて行くうえで、人間らしく生きて行くうえで必要不可欠な欲求でしょう。赤ちゃんが濡れたオムツの違和感に泣き、気に入った玩具を欲しがり泣く。お母さんにかまって欲しい、おぶって欲しいという欲求に始まり、私達は色々な欲求を抱きながら、満たしながら、諦めながら過ごしてきました。

 そして自我を確立した頃から、更に新たな欲求を生じてきます。それは、承認、信頼などの言葉に表されるような、他者に認めてもらいたい、信頼してもらいたいという欲求です。子供が親に先生に褒められたい。友達に認められたいという思い。そしてそれは社会人になるに連れて更に高まり、例えば仕事であれば、ただ単に働くのではなく、自分が他者の、社会の役に立ちたい、そしてその努力を認めてもらいたい。仕事を通じて信頼を高めたい、頼りにしてもらいたいという欲求を持つように。



そしてこの欲求が満たされた時・・・・・・・・・・・・・・嬉しかったですか?



今も、その時の努力を覚えていますか?





結婚に至るまでは順調にすすみましたか・・・・・・・・・・・・・・


どこで出会いましたか・・・・・

この出会いが貴方にとって本当に大きな、大切な出会いだった事は間違いないでしょう。

本当に出会えて良かったですね。



どんな印象でしたか?

今も変わりませんか・・・・・・・

相手の多くを知ることで、愛情は深まっていった事でしょう。


もちろん喧嘩もしたでしょう・・・・・・・・・・・・・・


相手に甘えすぎてはいませんか?

労わる気持ちは忘れてはいませんか?




どんな苦労を掛けましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・


どんな喜びを共に過ごしましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



相手のご両親にお会いした時は緊張しましたか・・・・・・・・・

ご両親が大切に大切に育ててみえた方です

貴方もきっと、ご両親に負けないくらいの気持ちでいられる事でしょう。






私の妹は二十三で結婚しました。

結婚してしばらくしてから、妹のご主人が我が家に遊びに見えたときの事です。

 話が妹の幼い頃の話になり盛り上がり、私は奥の部屋から妹の幼い頃のアルバムを引っ張り出してきました。嫌がる妹を尻目に、私達は一枚一枚の写真とエピソードをご主人に話し、その度に彼女は真っ赤になりながら笑っていました。

 やがて夕食にと家族そろって鍋をつつき、ビールも入り話は尽きませんでした。

ふとご主人が急に改まり、一枚写真が欲しいと切り出しました。

「この写真を頂けないでしょうか。」

彼が指差した写真は、四、五歳の妹の写真でした。

赤いチェックの短いスカートを履いた妹が、庭で犬の背中に必死でまたがろうとする姿がありました。

その横では父と、祖母がうれしそうに見守り、小学生だった私がチロが動かないようにと必死で首輪を持っている姿がありました。

恐がりで、気弱だった妹が自分からチロに乗りたがったのには訳があり、前の晩に見た時代劇で馬に乗るシーンが気に入り、右手にはハタキを握り締め、その勇ましい姿を残しておきたいと撮った一枚の思い出がありました。

「こんな写真どうするの?」と訊く妹に

「こんなに大切に育てられた娘さんなんだと思って。」

「この写真を見るとご家族の君への想いが伝わってくるから。」


 彼が言いたかったのは、妹が両親にとって家族にとって宝物だったということで。そしてその妹を妻として、自分が同じように大切に思いたいという気持ちであり。いつまでも、私達家族の想いを忘れないようにしたいという事だったのでしょう。

 

 貴方のご主人、奥さんは皆、誰かの宝物だったのです。

その事をいつまでも忘れず、相手を想う気持ち・・・・・・・・・・・・


 それは夫婦でなくても同じです。

職場の方、お友達、道ですれ違う人、皆が誰かの宝物なのです。

 

もちろんあなた自身も。


今までの人生で、どんな辛いことがありましたか・・・・・・・・・・・・・・

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きっと多くの涙があったことでしょう


きっと眠れない程の夜を過ごされたことでしょう


自分だけが何故と、嘆いた日々を送られたことでしょう





でも貴方は乗り越えてみえました。


今も何かを乗り越えようとしてみえるのかもしれません。







道はまだまだ続きます




たまには振り返り、たまには今歩いている道端を眺めてはどうですか?


道端には何がありますか?


どんな花が咲いていますか?


子家族の花ですか?


ご友人の花ですか?


どんな花が貴方の道を囲み、心和ませてくれていますか・・・・・・・・・・・・・・


大きな花、小さな花、青い花、赤い花



せっかく咲いてくれている花を見落として歩いては


そんなに急いで歩いては



雨が降ると気持ちがめいります。何日も降り続けば尚更でしょう。



でも雨はいずれ止みます。

水溜りを残して



水溜りは次に晴れた時に乾いてゆきます。

ただ、水溜りの跡を残して



水溜りの跡には花を植えましょう



跡のままでは、また水溜りになってしまいます。

踏み込めばまた濡れてしまいます。



花を植えれば

その場所に花が咲いていれば

再び水溜りを踏む事はありません。




花を育てましょう、夫婦で、親子で兄弟で


友人同士で花を育てましょう


今ままでも、貴方は沢山の花を育て、花に癒されてきた事でしょう。





どんな花を咲かせてきましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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どんな笑顔がありましたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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貴方の笑顔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ご家族の笑顔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


お友達の笑顔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



これからも沢山の花を咲かせて下さい。


沢山の笑顔を見せてください。


すべての水溜りの跡に花を咲かせて下さい。


たまに降る雨は花が育つためにと思って下さい。

そしてもし、どうにもならない位辛いことがあったなら。

自分を見失いそうになったなら、赤ちゃんの頃の写真を見てください。

貴方の最初の姿です。


一人で歩くことも出来ず。

一人で食べることも出来ず。


今、貴方は一人で何でもできます。

どれ程成長した事が。


そして何より、そんな小さかった貴方に、今日までどれ程多くの人が愛情を注いで下さったか。

ある時はご家族だったでしょう。

ご友人だったでしょう。

学校の生成だったかもしれません。

近所の方。

職場の方。



多くの方が貴方を支えて下さいました。



それ程の想いを注がれた貴方なら、少し休憩して


そして再び、少しゆっくりと、歩き出すことが出来るでしょう。








そして私は今年の夏一つの尊い命に恵まれました。


午前3時45分に男の子が談笑しました。


片手に収まりそうな小さな命。


でも元気に小さな声で泣いてくれました。


あの感動は他に無いものでしょう。


これからこの子の物語が始まります。


小さな手でたくさんの幸せを掴み。


小さな足で幾つもの山を乗り越えていくことでしょう。


私は幸せです。




「市渓」これが最初の贈り物です。








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