『読者に想像の余地を残す』という執筆手法は許されるか?
読者に想像の余地を残した書き方。
このサイトにおいては、作品を投稿している作家さんが、ご自身の執筆スタンスを説明する時、たまに見かける言葉だ。
たとえば、いわゆるテンプレと呼ばれる作品で、世界観や町並みの説明をする時、『中世ヨーロッパ風』の一言で済ませるのはいかがなものか、という否定的意見への反論として。
たとえば、作品を読んだ読者から『描写・説明不足』と批難された、あるいは批難が予想される場合に、自ら『そういう風に作り方をしている』と主張する場合に。
話をする前に、エッセイとしてこういう理論を展開する自分のスタンスと明らかにしておくと、『読者に想像の余地を残した書き方』というものに対して、否定的な意見を持っている。
手法としては存在し、許される。
しかし作者がそう主張する場合、ほとんどは許されない。
そう解釈している。
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こういう否定的意見を出すと、反論・反感を覚える方もいるだろうから、まずそちらから片付けていこう。
その反論が出てくる理由は、おおよそ察することができる。
『なにをどこまで書かないか』が、個人個人で概念が違うから、反対意見が出てくるのだ。
作家は作品のことを、一から十まで説明しなければならないか?
その回答は断言できる。否だ。
世界観やキャラクターの一生といった全てを書ききることなんて、物理的に不可能であるし、物語としてはほとんど不要な内容だから、書く必要性なんてない。
そもそも必要な内容でも、作者があえて省く場合もある。
リドル・ストーリーという形式がある。物語の中で出てきた謎の答えを、あえて作品の中に登場させずに、読者の想像に任せてしまう締めくくり方だ。
まぁ、そんな単語を知らなくても、『謎を謎のままにしておく』というのは、特別なものではない。ご存知の作品の中で、当てはまるものはいくつも存在するはずだ。
いわゆる『俺たちの戦いはこれからだ!』END。主人公たちは目的を達成したのか、それとも挫折し倒れてしまったのか、作者はハッキリさせないまま物語を締めくくっている。
この辺りは賛否両論だろうが、この締めくくりを許せない人でも、『作品内で明かされない謎』は、普通に流して見ているはずだ。
文章よりも映像作品のほうが多いが、サスペンスやホラーで、誰かが殺されようとしている緊迫した場面で、いよいよ、という瞬間に場面転換する。
ついでに銃声を想起する大きな物音がしたり。その登場人物の写真が入った写真立てや、愛用しているカップなどが壊れたりする。
直接描写して説明することなく、連想させる演出を入れることで、登場人物の死を暗に示している。別の登場人物が死体を確認しない限り、死は決定ではないのに、そのまま物語は終わることは多い。
だからパニックホラーなどでは、この効果を逆に使って、死んだと思っていた登場人物が終盤また登場といった展開がよくある。
最近は下火かなー、と勝手に思っているが、夢小説・ドリーム小説というものが一部で持て囃された時期があった。
特定の登場人物の名前を、読者が自由に設定するWeb小説だ。
これらは特性上、キャラクターの容姿などが描写されることはない。少なくとも名前を変更するキャラクターについては。
だから読者はお気に入りのキャラクター、あるいは自分の名前を入力し、その世界に入ったかのように楽しめる。イメージの阻害になるような詳細な説明は、むしろ邪魔になる。
謎を謎のままとして残すのは、物語手法としては存在し、許される。
読者に想像の余地を残す物語の作り方は、別段特別なものでも、許されないことでもない。
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では、なぜ自分は『読者に想像の余地を残す』というやり方を否定するのか、という話になる。
それは、世に出ている作品の場合、『ほとんど』から除外されている部分だということ。
そして作者自身が語るほとんどの場合、手抜きの言い訳だろうと思っているからだ。
小説は原理的に、『読者に想像の余地を残す』というやり方に向いていない。
いや、逆に向きすぎているから問題がある、という言い方が正確だろうか。
小説だろうと映像だろうと同じだが、クリエイターが創作物を通じて行っているのは、観客側とのイメージ共有だ。
『こういうのカッコいいだろ?』『こういうの面白くない?』という作家側のプレゼンテーションを、観客が判断している。
だが、映像と文章を比べた場合、『百聞は一見にしかず』の言葉が示すように、情報量と正確さが段違いとなる。
映像と比べれば、文章はなにかを説明するのに向いていないのだ。
『いつどこで誰がなにをどのようにどうした』という5W1Hを伝えるだけで、相当に努力する必要がある。
同時に文章では、どんなに努力したところで、『読者の想像の余地』が残ってしまう。
映像ではフレームに収まっている限り、想像の余地がないが、文章ではゼロにすることは不可能だと言っていい。
もしかして『映像でも想像の余地がある』と思った方がいたらいけないので追加しておく。
それは『映像の前後での出来事』や『思考など、映像化できないもの』などだ。あるいは『編集や加工でどうにかなる』という別方向の考え方だ。
フレーム枠内に収まらないものや、都合よく捻じ曲げられたものまでごっちゃに考えられても困るので、その反論は置いてほしい。そこまで含められたら、話ができない。
文章では想像の余地をゼロにすることができない。
だから『説明・描写不足』という批難が存在する。
例えば、『中世ヨーロッパ風の異世界』という一言のみ説明したとしよう。
映像ならば、ノイシュヴァンシュタイン城の俯瞰なのか、ローテンブルグの町並みなのか、数百年前のイタリア・ローマなのか、フランス帝国なのか、ハッキリしている。映像情報として知らない人間でも、音声や字幕で追加説明すれば、誰だって誤解しない。
しかし文字情報だけでは、そのどれかを判断することはできない。
それを流せる読者は、作者とイメージを共有しているか、イメージしていないかのどちらかだ。
『美人』『美形』という言葉には幅がある。個人によって思い浮かべる顔が違う。
だから必要以上にキャラクターの外見を描写しない。
そういう作者さんもいるだろう。
しかしだ。外見描写をしていないキャラクターは基本的に、セリフがあるかないかも怪しい、名前が作中に出てくることがない、いわゆるモブキャラだ。
主要キャラクターを同様に、しかも作家自身が扱うのは、いかがなものだろうかと自分が考えてしまう。出番の多いだけのモブキャラを、どうやって読者は魅力的だと感じればいいのだろうか。
他人様のエッセイな上に許可も取っていないので具体的には出さないが、なろう小説の書籍化作品で、表紙・挿絵でコレジャナイ感がハンパないから買えない、という話題が盛り上がっていた。
ケース・バイ・ケースなので一概には言えないが、自分はその半分以上は小説の作者が悪いと思っている。
『こういう恰好をしている』『こういう顔立ちだ』とオフィシャルな詳細設定を作っておけば、避けられた事態のはずだから。
そうして尚、違うものを書いたなら、絵師が悪い。
だが現状、作者は悪くないと言えるのか? 実際は作品ごとに見ていかないとなんとも言えないが、一定割合は作者の手抜きによる結果な気がしてならない。
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そもそもだ。
作者と読者の関係性において、『読者に想像の余地を残す』という言葉を、なんとなくWin-Winなものだと誤解していないだろうか?
作者は書きたいように書きたい物語を書ける。読者は一緒に楽しむことができる。そんな具合に。
その考えは間違いだと断言できる。
『読者の想像の余地を与える』という形で最大限に慮り、しかも誰もが楽しめる最高傑作は、どんな作家でも作ることが可能だからだ。
それは、『物語を作らないこと』だ。
白紙を与えて、『最高の物語を想像してください』と促せば、それで終わりだ。
読者の脳裏には、その人それぞれが楽しめて、非の打ち所のない最高傑作が作られる。
作家が世界や人物に名前を与え、法則を作り、行動させて展開を作り、物語を紡ぐことこそが、なによりも読者にとって邪魔になる。
読者のことを想って最高傑作を作りたいなら、作家など存在する意味は最初からない。
作家にとっての作品とは、読者との間に最大公約数を作ることだと自分は考える。
私はこういうキャラクターが好きだ。俺はこういう展開が最高だと思う。
そういった作家自身が面白いと思う物語の形と、読者が面白いと思う物語の形が、どれほど多くの人々に、どれほど多くの面積で重ねることができるか。
その面積の大小が、作家の上手い下手を分かつのではなかろうか。
読者の好みに合わせた物語を作るのが、上手い作家とは限らない。
作家の『ぼくのかんがえたさいきょうの○○』と読者の好みを、すり合わせることができるのが、本当に上手い作家だ。
つまり作家は、最大限の主張をするのが前提である必要がある。最初から読者側に譲るのではなく、結果として摺り合わせているだけだ。
だから『読者の想像の余地を与える』と言って、読者に譲って作品を作ることは、作家自身の存在意義を揺るがすことになりかねない。
あなたという作者が作らなくても、読者は別の作品を読むだけだ。
あなたという人間は必要不可欠であったとしても、あなたという作家は、あなた自身以外には、不必要な存在だ。エゴを発揮して存在を認めてもらわないとならないのだ。
作家は許される限り、自己主張し続けないと、存在する意味はない。読者に譲っている場合ではない。恥ずかしがっている場合じゃない。『これでいいのか?』と疑問に思うくらい、自分自身を出さなければらない。出しすぎてダメな場合、誰が言ってくれるだろうから、軌道修正すればいい。
これはどんな有名作家であっても変わらない原理だ。作家は作った物語を読まれないと死活問題になりうるが、読者はその作品を読まなくても死にはしない。
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若干話がズレた気がするので、戻そう。
『読者に想像の余地を残す』という手法は、存在するし、許されている。自分もそこまでは否定しない。
しかし作者が期待するように、必ずしも読者はそれを歓迎や許容はしない。描写・説明不足となじられることもある。
その違いは、『書かないことの必要性』だと思う。
無駄は好まれない。『人生には無駄が必要』と主張する人もいるだろうが、そういうことではない。
小説というのは、限られたスペースに物を収納するようなものだ。書籍でなく、文章量がいくらでも増やすことができるWeb小説でも、読者が丁度いいと思う文章量には、おのずと限りがある。
既に世に出ている作品の場合だと、予算であったり、製作期間であったり、放送時間であったりといった、世知辛い現実とのすり合わせによるところが大きい。
だがそうではない、リドル・ストーリーのように、あえて書かず謎を残すといった作品には、『書かないことの必要性』が存在する。
作品だけを見てそれがわかるかは、わからない。わかるとしても、作り手の側から見れば『全部最後まで書いたら陳腐に思えるから、わざと途中まででボカした』といった具合に、単なる消極策の場合が多い。
だが経緯はどうであれ、結果としてモアベターで作品の質が向上するなら、歓迎すべきことだ。
対して説明不足と称されるものは、モアベターで作られたものではない。
作者は根拠なくベストだと思いこみ、読者はワーストだと即断しているだけのことだ。作者はその温度差を自覚しない限り、この問題を『好みの問題』などと見当違いの言葉で片付け、成長することなく足踏みを続け、そのうち自分に絶望するか、責任転嫁して世間に絶望する。
結果同じ文章量だとしても、書いた後に削ったのと、最初から書かなかったのでは、ベクトルが全く異なるのだ。
しかし『読者に想像の余地を残す』という主張をする人は、これを混同していることが多い。
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そういう人は一度でいい。他人の目に触れる場所に出す必要はない。
なんでもいいのだが、あなたが書いた作品の、たとえばキャラクターの外見描写で、『これ以上こと細かく説明するのは無理だ』と思う限界まで文章を書き加えていってほしい。
そしてA/Bテストをしてみてほしい。正確な意味なら集計と取るものだが、自己判断だけでいいのでどちらが優れているか、見比べてほしい。
多くの作者さんは、きっとテキストデータひとつで物語を書いているだろう。
Microsoft Wordのdoc/docxファイルか、ノートパッドのtxtファイルか、エディター独自の形式ファイルか、なろうのサイトシステムに直書きしているか、人それぞれだろう。とにかく同じ場面を書いた、違うふたつ以上の文章データを持っている人は、少数派だろう。ボツデータを残している人も少数派ではないだろうか。
だから自分の書いた文章を見比べるという経験がない。見直して書き直すにしても、投稿してから時間が経ってからのこと。書いている最中でふたつの筋道を考え、しかも試すことは、ほとんど経験がないはず。
特にモアベターの結果として、文章を削除するという経験をしない。一文程度ならまだしも、場面を丸ごと削るといった経験は少ないはず。
個人的な感じ方だが、こういった人は『どちらが優れているか』という審美眼を持たない、あるいは成長に時間がかかる。自分の好き嫌いが世間の正誤善悪だと思っている節を感じる。
だから書く文章が、常に自己評価ベスト、他者評価ワーストのままである可能性が高まる。
実際にものを用意して見比べるA/Bテストをせず、製作途中でどちらの方針を選ぶべきか、感覚的に理解できるようになるには、経験則が必要となる。
頻度や個人差で一概には言えないが、職人仕事と同じように考えると、一年二年の執筆で身につくようなものではない。
そして少なからず勘違いしている人がいるが、経験則というのは『これが正解』という判断基準ではない。
『これを選べば間違いはない』という保障だ。
同じと思うかもしれないが、意味は天と地ほども違う。『正解≠不正解』だが、『正解ではない=不正解』とは限らない。この差が理解できない人は、単純に年齢の問題で人生経験が足りていないか、想像力や認識力が決定的に欠如していると思ったほうがいい。
可能な限りリスクから逃れる、アンダーラインの引き方なのだ。これをやれば最低でも○○点以上は保障される。あとはセンスや努力でいくら上乗せするかというやり方でしかない。
ふたり以上になると、これが相対的な問題になるから、色々と揉める原因になる。
年嵩の者を『老害』と揶揄させる事態になるのは、おおよそこの経験則の相違からだ。
経験則により最低50点保障のそこそこ熟れた人間が、最低0点保障の人間のやり方を見て、ダメ出しして『こうすれば間違いではない』とアドバイスする。しかし未習熟者から見れば、存在しない『正解』を押し付けられているように感じて反発心を覚える。
執筆活動に絶対の正解はない。それは間違いない。アドバイスが正解とは限らない。
しかし素人考えが正解という保障もどこにもない。
我を通すことしか考えていない作者は、根拠もなく『創作に絶対の正解はな
い』という言葉を旗印に、己の方法こそが絶対の正義だと、ブーメランが突き刺さっていることも理解できずに主張する。
己のやり方を試行錯誤した上で、『読者に想像の余地を残す』という主張をしている作者なら、それでいい。
そういう人は、元々やりすぎてしまう性質だ。経験則でリスクを理解しているから、公表には加減したくらいで丁度いいと、調整しているだけのことだ。
しかし完全な素人が主張する場合、経験則と呼べるものは存在しない。何点になるかわからないギャンブル要素しか残されていない。
だから最低保障10点以上、少しでも経験則を持つ他人からは、アスキーアートつきで『駄目だこいつ……早くなんとかしないと』と評価されることになる。
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『読者に想像の余地を残す』という執筆手法は許されるか?
結局のところ、作家次第らしい。
読者の目から見て、の話で、作者自身の目で見て、ではないと強調する必要があるが。