表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

妄想論

ランキングは価値観を語らない

作者: とびうお君

 評価とは何か?で私はまず正誤良悪好嫌の3つの違いを理解する必要があると思う。評価とは2つ目の良悪についての話しになる。何のために評価をするのか?と言うと私は他人を話すためにあると思ってる。まずネットの中で良く扱われる客観的な評価じゃないとの意見があう。これは嘘だ。


 2つ目の良悪は価値観にまつわるものだ。価値観が好嫌から完全に自由になれるわけが無い。それが出来るならAIによる評価だ。正誤は客観の領域。完全な客観は無い科学知識でもそれは同じだろう。あくまで常識レベルの客観として捕らえても、価値観は客観的じゃない。主観と客観の間にあるそれが評価だと私は思ってる。


 本来主観である好嫌を他人と対話できるレベルまで高めたものが価値観と呼べるものだと思う。じゃ評価には客観が無いのか?なら、関係はある。例えば何故あの作品は人気があるのですか?これは正誤の話である程度言えると思う。これを価値観のレベルで言ってしまえばそれは正誤じゃない良悪の話しだ。


 これは評価じゃない。何故という疑問に対する解決になる。だからランキングなどのデータが参考になる。でもなろうでは誤った価値観がある。ランキング上位ならそれは良い作品だ。それは違う。その誤解は何故生じるか?こう述べる人はランキングを、自らの価値の根拠に利用しようって無責任さを持ってる。


 私は断固これを否定する。こんなもの価値観でもないし評価じゃない。世の中にはこういった態度がものすごい数溢れている。興行成績もそう。ベストセラーもそう。多くの人に好まれる理由について語れるが、そんなものを自らの価値観の根拠にしようとするのは自分の中に価値観が無い阿呆のする事だ。


 好嫌では対話が出来ない。正誤は評価じゃない。だから良悪がある。評価とは己の価値観に従って単純に結論を下すだけの行為だ。そんなものに正誤で語るような客観性など期待できない。せいぜい他人と対話するための客観性に過ぎない。私達は3つの事を作品について述べられる。この3つは分けられるべきなんだ。それを混同した意見が敵意を生み出す元になる。


 仮に平和的にすべて、客観を正誤、主観を好嫌で統一して良悪を排除したとしよう。好嫌の無い評価など意味が無い。である事実を述べて何の意味があるんだ?それは評価じゃない。その評価が出来るのはAIだけだ。そのAIはおそらく人間が評価とは呼べないロジックで作ってるぞ?それは何か?評価のまがい物だ。


 将来AIがすぐに出来るような評価などおそらく多くの人が好む傾向分析だろ?って見てる。それを見て多くの人はAIが評価したと驚くだろう。多くの人は暗黙の了解でそういったものを評価だと見てしまってるからなんだ。全員参加のランキングの何が価値観なんだ?ただの多数決の結果じゃないか。そんなもの価値観じゃない。


 将来ランキングに近いことをAIは出来ると私は思っている。だからこんなもの下らないと思ってる。そこからAIが小説を書く事もあるのじゃないか?あるだろう。価値を内容から把握してるって事だから。そしてそれがヒットする事もおかしな事じゃない。人が機械にもてあそばれる?今だって近いだろう?ただ進化は可能か?と言うとこれは苦しい。


 AIが多分出来るのは、進化を作った人間からパクルだけだ。だが今のなろうを見てそれを愚かだと否定できるか?実際には、なろうは僅かにオリジナルがありそれらが大量の作品数によって蓄積される。もしすべてAIになれば苦しいが、AIと人間を混ぜるとかなり怖いと思う。人間がわずかに生み出した小さな変化を利用したAIが大量に人間の好みとして作りだす。


 これじゃなろうの否定になってしまう。そうじゃなくて、なろうのランキングから正誤の話は出来ると書いてるんだ。ただしそれは評価として語る事じゃないと釘を刺したくて。○○至上主義、他にもドラゴンボールのスカウターもそうだろう。ある一線上に単純に序列化された価値を有難がある人間が確実に存在して、その数は以前より増えている。


 何故か?読書がライトなら評価について述べる事もライトになるに決まってるからだ。私はずっとランキングについて擁護してきたが、断固として嫌ってる連中が居る。その連中のランキングの利用だけは断固否定する。

 1元化された価値以外序列を許さない馬鹿は大嫌い。だから私は述べる。もう一つ価値を作ろうと。今まで1元化された価値で分かりやすかったライト評価者が困惑するのを想像するとぞくぞくする


 ランキングの根底にある評価は好嫌だ。私が全面的にランキングを認めるのは、評価自体は文字は要らないと思ってる。評価は他人と話すとき初めて文字が必要となる。好嫌は他人と対話する気が無いなら立派な評価だ。だが他人と対話したいなら、それを価値観として昇華しなければ評価文と言えない。


 1元化された価値以外認めない人間は、何が駄目か?と言うと、好嫌と言う対話向きじゃない評価を怠惰な姿勢で価値観だとして押し切ろうとするからだ。それは他者に対して対話を求めてるのに、対話のための良悪に昇華する努力を怠っているからだ。価値は無限にあると言うのはそれはそれで芸が無いと思う。それゆえ私はもう一つだけなら価値を作っても良いじゃないか?と何度も書いてきた。


 私はランキングを多くの人が支持した価値(ランキングと言うデータが価値観を持つとは言えないけど)として擁護する。だが、同様にそれ以外価値を認めない姿勢とは断固として距離を置く。

 作品を読み込む事にたゆまぬ情熱を注いだ評価があっても良いじゃないか?サイトにおいてこれらが同居するのは簡単だ。運営が決断すれば良いだけだから。今まで全く変わらずに全員参加のランキング以外興味が無い人は見なければ良い。


 再度書くけど、好嫌は評価じゃないとは微塵も思ってない。好嫌では他者に自らの価値観を示し対話するための文章を書けないと書いてるだけだ。たった一人でも他人と価値観について交流する事は客観性に繋がる。ランキングは多くの人の人気支持などの価値を示したとしても、価値観にしたがって何も答えてくれないぞ?って話し。


 無限に広がるであろう、価値の拡大についてたった2つで良いと書いてる。片方は言葉を持たない価値。片方は言葉を持つ価値。何故ランキングが多くの人を引きつけるか?と言うと言語的じゃないプリミティブな感情の結果として集計されたものが多いから。だがそれは同時に偏った価値である事を理解したほうが良い。


 多くの人はすっきりしたいために正誤に行こうとするだろう。しかし、それは評価じゃないと私は思っている。それは評価じゃなくて事実でしか無い。意味を持たない。だからって好嫌に純粋すぎる評価もまた完全じゃないんだ。そこで良悪と言う評価が必要になってくる。私はその創設を何度も提案している。


 レビューで何とかなるんじゃないか?あのヨイショしかない馬鹿評価文か?アホかと思う。好嫌が根底にある以上絶対に悪口から逃れられない。でも良悪で語られる批評が無い良いだけのレビューなどゴミの様な価値しかない。


 それがライトノベルキーワードを作るだけで出来るの?必然的にそういった種類の人種しか、それ以外には集まらないからだ。私は評価について考える事は真剣だが、物語を楽しむ事は気楽にライトに楽しむのだ。だって、適当に物語を楽しむために時間を使う、自分の時間をどう使おうがその人の勝手でしょ?それについて批判する事は出来ない。


 ライトに楽しむ人は好嫌で評価する傾向が高いんだわ。何故か?頭使わないからだよ。こんなの頭使って小説読んでる人の価値観と同居できないでしょ?


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ