悪魔の囁き(三十と一夜の短篇第5回)
一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりでも良いから確実に、前へと進んでいくんだ。
今は遅れを取っているように見えるだろう? だけど大丈夫。最後には、僕が一番になっているんだから。
ふふっ、ふっはっはははは。だれも僕には勝てないんだ。
これを渡りきれば、晴れて僕は勇者様さ!
だれもが僕に平伏して、頂点で僕は笑うんだ。
だれも僕のことを馬鹿になんかできない。僕を笑った奴らを、苦しくなるくらい笑ってやる。
死ぬほどの恥を、僕の下で与え続けてあげる。
そして、たっぷり僕が手懐けてあげるからね。
ずっと僕は苛められてきた。
悪いことなんて何もしていないのに、なぜだかみんなが僕を無視するんだ。みんなが僕に冷たい目を向けて、悪いことなんて何もしていないのに、なぜだか僕を殴るんだ。
むかつくから。なんて、僕は何も悪くないのに。
そんな理不尽な社会は、ぜんぶ僕が壊してやるんだ。
だけど……、弱虫な僕には、何をする力もなかった。
ふふっ、人間って不平等だと思っていた。
幸せに生きている人がいるのに、どうして僕だけこんな目に、ってずっと思っていたんだ。
僕は気付いたよ。
本当は人間って、とっても平等にできているんだ。
そして不平等が生まれてしまったとき、それを正してくれるのは神じゃない。天使でもない。
――悪魔なんだ。
人間が生み出した格差をなくすために、悪魔が僕のところへやってきてくれた。
底辺にまで落とされた僕を、きっと救おうとしてくれているんだ。
悪魔と呼ばれ、いつの世も避けられてきたが、本当に正しいのは悪魔だったんだ。
「悔しいでしょう? ボクはキミを救う力を持っている、って言ったら、キミはどうしますか?」
気が済むまで殴られて、日が沈みかけ夕暮れの中、知らない場所に置き去りの僕。
ボロボロの体では、立ち上がることすら叶わなくて。だけど体には、目に見える傷などなくて、僕が立ち上がれないのは、心に受けた傷のせいだと知る。
痛みはあるけれど、残るほどの痛みでもないのだろう。
笑顔で誤魔化せるレベルの小さな傷。なんでっ、毎日こんなに痛むのに。
「僕を、救う力?」
このまま死んでもいい。そう思っていた僕のところに、聞こえてきた甘い声。
怪しまなかったわけではない。
だけど、騙されたとしても、それでも構わないと思った。
あいつらに仕返しができるなら、僕が頂点に立てるのなら、その可能性があるというだけでも、僕にとっては十分に魅力的だった。
疑うことにより、チャンスさえ失ってしまうのはごめんだからね。
「そうですよ。キミを救ってあげる力です。だれもがキミに平伏して、頂点でキミは笑う。いかがでしょうか」
だれもが僕に平伏して、頂点で僕は笑う。
その言葉は僕にとって衝撃的なもので、何度も頭のなかで木霊するくらい、素晴らしいものであった。
底辺で馬鹿にされ続けてきた僕が、頂点で人を馬鹿にする立場へと変われるんだ。
「ほしい。僕は、その力がほしい」
悪いことがあったなら、次に良いことがある。悪いことばかりが続きはしない。
それは本当のことだったんだ。
遂に悪いこと続きだった僕の人生が、救われるそのときが訪れるんだね。
「それじゃあ、契約成立ですね。署名して頂いてもよろしいでしょうか」
どこからか紙とペンが出現する。その紙に僕の名前を記すと、体の痛みがすっと消えていた。
さっきまであんなに痛かったのに、今は全くどこも痛くない。
それは僕を救う力というものが嘘ではないのだと、僕に信じさせるには、十分すぎるほどであった。
人生なんて、綱渡りみたいなもの。
細い綱を渡っていく。風が止むことはあっても、足元が安定することなんて、決してない。
どうせ安定しないんだったら、嵐が吹き荒れているくらいのほうが、スリルがあって楽しいんじゃないかな。
無風の中に落ちていくなんて、かっこ悪いじゃないか。
それだったら僕は、スリルがあって、注目を浴びる綱渡りが良い。ショーを見せてあげる。
地味で目立たない僕はもういない。
あっはっは、みんな、僕を見ているんだよ。
風なんかには負けない。
ましてや、お硬い道を選んで通るような臆病者に負けてなるものか。
可能性よりも希望。
少しでもそちらに希望が見えたなら、可能性が高いから、なんて言っていられない。
悪魔と契約し、僕は変わったんだ。凡人どもに負けたりしない。
一歩ずつ、進んでいけば良い。
今は劣っているように見えるかもしれないけれど、最後には絶対に僕が勝つんだ。
僕には負けなんてない。
なあ、そうなんだろ? 悪魔。
聞いているのかよ、悪魔。
僕は力を手にしたんだ。
だれもが僕に平伏して、頂点で僕は笑うんだろ?
それなのにどうして……。
だれも僕に平伏していないじゃないか。僕は、頂点になんかいないじゃないか。
これじゃあ、僕が笑われているじゃないかっ!
どうして、どうしてだよ。僕を騙したって、そういうのかよ。
「力なら差し上げたではありませんか。使い方を間違えたのはキミのほうです。……欲張り」
堕ちていく僕に、悪魔の声が聞こえてきた。
「頂点になれるはずだったんですよ? あれだけの力があれば。でもまあ、ちゃんと両方が納得して契約を結びましたもんね。署名もして頂きましたもんね」
そういえば、契約内容をよく見ていなかった。
でも……もう、いいや。
どうせあのとき、死んでもいいと思った命だ。あのとき、死ぬはずだった命だ。
最期に楽しい夢を見せてもらえたよ。
だけど、やっぱり人間って不平等だな。