とある少女の、夢
遠くで笑う子供の声。
トラックが通り過ぎる一瞬の騒音。
干した布団を叩く音。
さおだけ屋のアナウンス。
光あふれる世界で目を閉じても、暗闇には程遠い。
耳をふさいでも届くのは鼓動の音。
終わりのない世界に足がすくむ。流したい涙はもう底をついた。
心地よい小春日、三木望は死ぬことに決めた。
*****
中学一年生の春、望は受験し合格を得た私立中学へと進学した。
公立中学へと進学した友とは涙の別れを済ませ、新しい世界に不安半分、期待半分に胸を躍らせ校門をくぐった。
外部生の割合は全体の半数より少し少ない程度だったので、望一人が浮くということはなかったが、やはり友達を作るには内部生と比べてハンデがある。
まごまごしている間にあっというまに周りでグループができはじめ、ひとりぼっちで真っ新な机の平面を見つめることが多くなった。
そんな時に声をかけてくれたのが、同じ外部生の大鳥悠子。ショートボブで少しぽっちゃりとした、はにかんだ笑顔が魅力的な優しそうな女の子。
聞けば、前から二番目の席で一人で誰とも絡まずに座っていた望を見つけて、後ろの席の悠子は声をかけるタイミングを狙っていたのだという。
頬を染めながらそんなことを一生懸命に話す悠子に、望は一瞬で好感を持った。
きっとたくさん勇気を出して声をかけてくれたのだろう。孤立から救われたような気もちにもなった。
その日から望は彼女の友達になり、一年をかけて無二の親友となった。
「のぞみん、また一緒のクラスだよ」
「えっ、やったあ……ほっとしたよぉ。また一年よろしくね、ゆうちゃん!」
「よろしくー」
二年に進級してクラス替えでもまた悠子と同じクラスになり、望はほっとした。
部活動はしていたが、人数の少ない手芸部だったのでそれほど同級に知り合いもいない望は、親友とまた同じクラスになれて互いに喜び合った。
新しいクラスには一年の時の元クラスメイトが数人いたが、殆どは顔も知らない。
比率としては比較的進学組が多かったのか、女子の中では幾つかのグループができあがるのは早いように見えた。
「のぞみん、倉橋さんと同じクラスになったね」
「あー、学年一位の子だよね? 初めて見るけど超かわいい子だね」
「ねー」
悠子と望が見つめる先には、暗い栗毛の髪をポニーテールで束ねる少女、倉橋真美を中心とする多人数の女子のグループがあった。
倉橋真美は内部生だ。望の入った学校はテストの折、上位五十人が張り出されるが、彼女はいつもその中でもさらに上位をキープしていた。
才色兼備で人望もある。非常に目立つ存在のため、学年で知らない者はいない。案の定クラスでもさっそく中心人物となっている。
「あれがリア充ってやつかあ……」
机の上に頬杖をついたまま、きゃあきゃあと華やぐ女子の集団を見つめて望が呟く。悠子はそんな望の発言がおかしかったのかくすくすと笑った。
「のぞみん、なに言ってんの」
「いひひ」
望にはあんな人望なんてどうやったって築けない。
そう思うと、望にとって真美は雲の上の遠い存在のように思えた。
「三木さんって、外部生だよね」
「う、うん、そうだけど……」
体育の授業で、身長が近い望と真美はペアになった。
お互いに屈伸などの準備運動を手伝いながら、真美が話しかけてくる。
やっぱり真美も外部生は好きじゃないのか。初っ端から外部かどうかを確認されて、そんなことをちらりと考える。
内部生は内輪での団結があるのか、外部生に対して少し壁を作ったりする子が多いからだ。
望はそういう子には無理をして踏み込んだりはしない。真美もそういうタイプなら、慎重に対応しなくては。
望の心配とは裏腹に、真美の表情はぱっと明るくなった。
「そっか! 私、一年の時も周りに外部生の子が殆どいなくてね、ホントは色々話してみたいと思ってたんだ」
どうやら真美は違ったらしい。
嬉しそうに公立の小学校の頃の話を聞いてきたりして、私立と公立の中身の違いなどをお互いに話し合ったらとても盛り上がってしまった。
その体育の日から、真美は望によく話しかけるようになり、望も次第に真美や真美のグループの子とも喋るようになった。
「のぞみんスゴイね、倉橋さんと仲良くなるなんて」
「うーん、なんかよくわからないけどあっというまに……。でもすごく人当たりがいいっていうか、いい子だよー。みんなに人気なのも納得って感じ」
真美はいい子だった。
よく気が付くし、誰にでも分け隔てなく接する。授業態度もよく、かといっていい子すぎるわけでもないのか、授業中に筆談を誘ってきたりもしてくる。
程よくクラスに馴染み、仕切り屋ではないがまとめるときは声をかけ、教師からもクラスメイトからも頼りにされる。
完璧な子というものを、望は初めて目の当たりにした気がした。
「はー、疲れたー。ミッキー泳ぐの早いんだねえ!」
「まあね。こう見えても河童の申し子と崇められてたから」
「イジメだろそれー!」
三木だからミッキー。
真美たちのグループで自然と呼ばれるようになったあだ名だ。
夏休み、彼女たちに誘われて、プールに遊びに来ていた。悠子は特に誘われていなかったようなので、今だけ呼ぶのもおかしいと思い望は一人で誘いに乗った。
休憩所で各々調達したジュースやかき氷で涼を取りながら、グループの内の一人が呟く。
「ミッキーって大鳥さんと仲いいんだよねえ?」
「うん。一年のときから一緒だよ」
悠子はこのグループとはそこまで親しくない。どちらかというと、もう一方の大人しそうな女の子たちが数人集まっているグループの子たちと仲がいいらしい。
望は逆に、その子たちとはあまり接点もないので特に親しくはない。それをいうと真美のグループとだって、真美がいなければ接点などなかったのだけれど。
「大鳥さんってどんなカンジ?」
「どんなカンジ?……ええとね、優しいよ。多少のことじゃ怒らないし……ていうか怒ったところまだ見たことないかも」
「へえー……。でも言っちゃなんだけどすごいどんくさいよね? この間体育のときテニスのペアになったんだけど、ラリーどころかサーブも空振りばっかりでさ。全然進まないからちょっとイラッとしたわ」
えっと望が思った時にはもう、火は灯ってしまった。
返す言葉に悩んでいるうちに、ほかの子が次々と嗤い交じりに同調していく。
「わかるー! あたしあの子の後ろの席なんだけど、前から回されてきたプリント配るのほかの子よりなぜか鈍いの!その間を待ってるのがちょっとヤダ!」
「ウケる。ワンテンポ遅い感じ?」
「そうそう。スロー再生かよってさあ」
どっと笑いが起こるなか、望は笑うこともできず、かといって場の空気を乱してまで止めることもできず、曖昧な表情を浮かべる。
隣に座っていた真美が、そんな望の顔を覗き込んで、にっこりとほほ笑みかけた。
「でもいい子なんだよね?」
「うん……」
いい子だ。真美とは違う種類の、いい子。
曖昧な相槌を打っている間に挽回する余地もなくあっさりその話題は終わって、別の話に移行していった。
*****
「ミッキー! 次移動教室だよ」
夏休みが明けてから、真美のグループの子に声をかけられる回数が増えた。
いつも悠子と行動を共にしていた望は、その子たちに合わせるように悠子と一緒に教室を出る。
けれど望が話しかけられて答えているうちに、悠子だけ後ろから一人でついていくような形になることが増えた。
「なんかごめんねゆうちゃん」
「えっなんで? いいよー! のぞみんはみんなに好かれてるんだよね!」
「みんなってことは、ないよ……」
みんなというより、この頃頻繁に真美のグループに話しかけられているせいか、そのうちの一人として数えられている節がある。
グループという定義自体あんまり好きではない望はそういう空気を出されると少し気おくれしていた。
好きな時に好きな相手と話す、ではだめなのだろうか。誰かに何かを言われたわけではないが、少し、やりづらい。
ため息を飲み込んで、望は切り替えるように悠子に微笑みかけた。
「そういえば、もうすぐ球技大会だから放課後にメンバー分けするって」
「えー! 私バスケにだけはなりたくないなあ……」
「うーん、私もだなあ。まともについていけそうにないし」
望は泳ぎは得意だが、それ以外は平均でしかない。悠子は運動全般が苦手と公言している。バレーくらいがちょうどいいかもね、と二人の意見は合致した。
「やったー! ミッキーはバスケチームねー」
バスケのチームを作るにしても希望者が一人足りず、じゃんけんで負けた人が入ることになった。バスケのチームの希望者は軒並み運動が得意な真美のグループの女子で埋まっている。
絶対に負けられない。
そう思って挑んだものの、一発で望の負けが確定した。
「わたしバスケ得意じゃないんだけど……」
「大丈夫だよミッキー。みんなで練習しよ?」
「真美……うん。やるだけ、やってみる」
真美に励まされ、望は昼休みと放課後の練習に励んだ。
悠子は念願通りバレーのチームになることができたため、お互いにそれぞれのチームで集まることが多くなる。
次第に昼も放課後もすぐ練習に入るためにチーム同士で行動するようになり、二人の接点もどんどんへっていった。
そんな日々を過ごしている間にあっという間に球技大会の日がやってきた。
女子のバスケチームは一回戦を勝ち進んだが、二回戦めで元バスケ部が多い上級生のクラスと当たり敗退した。
望は本人でもわかっていた通り大した活躍はできなかったがサポートに徹し、チームのメンバーもそんな望みの頑張りをみとめて笑顔でねぎらってくれた。
「なにあれ」
「動けよ」
バレーの試合を眺めていた望の隣の子が苛立ったように舌打ちする。
早めに試合を終えた女子バスケのグループは、バレーチームの試合の応援に向かった。
悠子たちのグループはあまり運動神経がいい子が揃っておらず、なかなかボールが拾えない。結局まごまごしている間に点を取られ、あっという間に一回戦敗退という結果に終わった。
その様子を見ていたほかの女子たちは、あんまりな結果に不満を抱いたようだった。
「別に下手なのはしょうがないけどさー、ちょっとは動けって感じ」
「やる気なかったんじゃないの? 全員つったったままで終わってたじゃん」
不穏な空気に、やばいな、と望は焦りを感じた。
これはよくない流れだ。
彼女たちの後ろを歩きながら、なんとか仲裁を試みる。
「でもほら、ボールくると頭では分かってても体はすぐに反応してくれないんだよねー。私もバスケのときそうで」
「でもだからこそ練習してたんでしょ? ミッキーだって練習もスッゲー頑張ってなんとかボールに慣れようとしてたじゃん! あいつらとは違うって!」
「そーそー、あいつら全然その場から動いてなかったじゃん。ミッキーは一生懸命ボール追ってたしさー」
ちがう。
そうじゃない。
別にかばってほしいわけじゃない。
バスケのことだって、望は殆ど役に立っていなかったのだから責めてくれていい。
だから彼女たちのことを、悠子のことをそこまで悪い風にとらないでほしい。
そう言いたくても、また同じ流れで返されるのではないかと思うとうまく言葉に出せない。
「まあいいじゃん。別に期待はしてなかったんだし」
真美がとりなすようにそう言って、その話はそこでおしまいになった。
またしても望は何も言えずに、もやもやとしたものを抱えたまま。
*****
学校の行事は本当にめまぐるしい。
球技大会が終えたら文化祭。その次は修学旅行。その合間にテストもある。
進路調査票も出さなければいけないし、そうなると個人面談も待っている。
気が休む間もない中で、球技大会の後、クラスのヒエラルキーに変化が起き始めていた。
それまでは力関係の差もなかったクラスの女子のグループの間で、真美のグループがクラスを仕切るようになった。
文化祭がその初めだ。見た目には和気あいあいとしながらも、役割決めはうまいこと操作されて、催しも真美のグループが進めたもので決定になった。
そしてそれらの行動すべてに、望も一緒に数えられるように加わらせられた。
「のぞみん、別の係りになっちゃったね」
「ごめんゆうちゃん……今から打ち合わせしなきゃなんだ」
「あ、うん。……ごめんね」
悠子の物言いたげな視線が痛い。
どう対応すれば正解なのかもわからず、望は逃げるように打ち合わせへと向かっていった。
あらかた話し合うことが終わり、そのままお喋りに興じてからしばらくして、うち一人が突然言い始める。
「なんか大鳥サンってミッキーにすぐついてこようとするよね」
「え、いやそんなことは……」
「してるってー! 真美もそう見えない?」
悠子はついてこようとしているわけではなく、いつも二人で行動していたのでそれが当たり前になっているだけの話だ。お互い様だし、行動を合わせるようになるのはごく普通の交友関係なんじゃないのか。
言い出した子は曖昧な態度をとる望には答えを求めていないのか、真美の方に問いかけた。真美は自分に来ると思っていなかったのか苦笑しつつも、首をかしげる。
「私はあんまり見ていないから……。でも大鳥さん、私たちのこと苦手なのかなーとは感じるけど……」
「そーそー!びくびくした感じでさー。アタシが何したッつーの!」
「いやその態度でしょー。フツーにコエーわ」
「なにおう!」
望もその通りだと思ったが、こう茶化されるとニュアンスが変わってくる。
最初に悪感情を抱いて接し始めたのは彼女たちのはずが、そんなことは忘れたように悠子を目の敵にしているようだ。
「あ、だったらゆうちゃんも一緒のグループで……」
そう言いかけた瞬間、その場にいた女子全員がふっと薄笑いを浮かべた。
「ジョーダン。ミッキー、優しすぎ」
「え?」
「ミッキーもうこっちはいっちゃえば? しばらく無視してりゃー離れるって」
こっち、とは真美のグループのことだ。
知らない間に、望が悠子に付きまとわれて迷惑している、と誤解されている。
いつからかはわからない。けれど望が曖昧な態度をとったせいで彼女たちは増長したのだ。
「いや、ゆうちゃんはいい子で」
「それゆーなら真美の方がいい子じゃーん!おいでおいで!うちら歓迎だよー」
「だよぉ!つーかもうそうだよね、真美」
「だね。ミッキーはもう入会けってーい」
「入会っていかがわしいわー」
「指名よろしく」
「するするぅ」
馬鹿。
馬鹿だ。
自分が、馬鹿。
取り返しのつかない流れになってしまった。
浮ついた女子のやりとりの中で、望だけが真っ青になっていた。
それから、文化祭までの間、表向きは準備で忙しいからという理由で放課後も一切悠子と帰らなくなり、真美のグループに混じって帰るようになった。
そうしないと悠子がまた何を言われるかわからないから。
いや、それはただのいいわけでしかない。ただ望が、この期に及んで波風を立てたくないがゆえにその場限りの対応で済ませていただけだ。
そのツケが一気にやってきたのが、冬休み後にある修学旅行の班決めだった。
班決めの前日、悠子からメールがあった。
Date:
From:
Subject:
本文:のぞみん、メールではおひさー。明日修学旅行の班決めだね。もしよかったら、一緒の班にならない?
シンプルな文を見つめながら、望は漸く気が付いた。
ここが分水嶺だ。ここを逃したらもう悠子とはこれっきりだ。入学当初、勇気を出してくれた悠子が、また勇気を出して送ってくれたメールがこれなのだ。
望は一言、いいよ、と返した。
明日班決めが終わったら今までのこと全部、悠子に謝ろう。
そう思いながら、どこかほっとした心地で眠りについた。
「じゃあこれで提出しまーす。かいさーん」
班決めは滞りなく終了した。
望は悠子と一緒に、悠子と仲のいい女の子たちと同じ班に入れてもらえた。
みんなが帰り支度を始めるなか、悠子に声をかけようと立ち上がった望を引き止めるように後ろから声がかかる。
「ミッキー。ちょっといい?」
無機質な真美の声。
振り返ると、グループの女子たち全員が、無表情で望を見下ろしていた。
「あのさあ、なんであっちに入るわけ? ミッキーはこっちだと思ってたのに」
「いちいちいわなくてもわかってたと思うんだけど」
「こっちにいれてあげたのにフツーあーいうことする? サイアク」
実際、みんなで一緒にどこ回るかなどの会話はしていた。もちろんその中に望も交じっていた。同じメンバーならばいちいち約束するまでもない。
それなのに望が選んだのはこの期に及んで悠子だ。彼女たちにとっては裏切りにも等しい行為だったのだろう。望だってそれくらいわかっている。
だからこそ、もうここでしか引き返せないと思ったのだ。
「……でも、ゆうちゃんとは前から約束していて」
中途半端な嘘をついた望の魂胆など見抜いているかのように、真美がため息をついた。
「ミッキーさあ、私たちと一緒が嫌ならそういえばよかったでしょ。私たちが大鳥さんのこと言ってても笑ってたでしょ?ホントは付きまとわれて困ってるのかなーってみんなで心配してたんだよ。それなのにああいうことするなら、最初からきちんと言ってくれればよかった話だよ。違う?」
ちがわない。その通りだ。
笑っていたわけじゃない。でも愛想笑いは浮かべていたかもしれない。
その場限りで合わせていた。いつもいつも。
黙り込んだ望に呆れきった眼差しを向けた真美は、失望したように首を横に振った。
「ミッキーっていっつもそうだよね。肝心なことはっきり言わないし。そういうの、八方美人っていうんだよ。でも全然美人じゃないね。ホント最低。がっかりした。……もういい。いこ」
去っていく真美たちを、望は追いかけなかった。
これでいい。真美の言うことは間違っていないし、すべては望がまいた種だ。
心に重くのしかかるわだかまりは、望が今までなあなあで済ませてきたことの報いだ。この上仲直りしたいなんて虫のいいことは言えない。
殆どの生徒は教室の外に出ていたものの、望を待っていた悠子は心配そうな顔で望の顔を覗き込んできた。
「のぞみん、大丈夫? ……ごめんね、わたしのせいで」
「違うよ! 全部私のせいだから……あの、今日は一緒にかえろ?」
「うん……」
望はその日の帰り道で、悠子に今までのことを謝った。
悠子は笑って許してくれた。これで全部丸くおさまった。
望は、そう思っていた。
次の日から、一部の女子による望への態度の急変が始まった。
大したことではないけれど、挨拶を返さない、その場にいないかのように振る舞う、望から声をかけられても無視する、返事をしない、などその程度のことだ。
最初は気のせいかとも思っていたけれど、一月になると確信に変わった。
一部の女子とはもちろん真美のグループだ。真美は望のことをあからさまに無視したりはしないが、呼び名はあだ名から苗字へと戻っていた。
ほんの少しの亀裂から生じた歪みは、徐々に、ゆっくりと広がっていった。
真美たちのグループだけではなく、そのほかの女子も望に対してよそよそしくなっていく。望を見ながらこそこそと内緒話をしたり、笑ったりする人が出始めた。
そうなるともうあっという間で、女子だけではなく男子にも馬鹿にされるようになった。たった一回の仲たがいがどうしてここまで広がっていくのかわからなかった。
望は真美たちのグループに負い目はあっても、クラスのみんなに何かした覚えはない。どうして一挙一動を観察して笑われなければならないんだろう。
誰かの目線がいつも自分に向いている気がして落ち着かない。
教室は、望にとって最悪に居心地の悪い空間となっていった。
「あー最悪。悠子ちゃんが言うから入れてあげたけど、こっちまで仲がいいとか思われると厄介だよね」
「うーん。とばっちりはちょっとね……。私たち別に関係ないし」
修学旅行で同じ班になった子たちが、望の席の傍で聞こえるような声で言い始める。恐らくは自分たちが望となんの関係もないことを周囲にアピールするために。
案の定、それを聞いたクラスメイト達はあちこちで含み笑いを浮かべて意味ありげな目配せをする。
望の後ろの席の男子は悪戯のつもりなのか嫌がらせなのか、望の座っている椅子の裏をつま先でこんこんと叩き始めた。
やめて、と軽々しく言える勇気もない。言ったらまた笑われる材料を増やすだけだからだ。望が何をやっても、クラスの人間は面白おかしく話のネタにする。
ふと顔を上げると、悠子と目が合う。それだけでも、ほっとする。
これ幸いと立ち上がって悠子に話しかけようとしたとき、悠子はすっと目をそらした。見てはいけないものを見るかのように。
――ああ。
自業自得だ。
いつかこんな時がやって来るんじゃないかと恐れていたことが実際に起こっただけのことだ。
望は驚かなかった。
ただ、もう、本当に、どこにも居場所がない。
望はクラスの中で完全に孤立した。
*****
修学旅行は三日間あり、一日目と三日目は集団行動、二日目は一日自由行動だ。
自由と言っても班でどこを回るか計画書をたて、先生にチェックを貰い、当日にはその通りに行動する。
望は二日目、具合が悪いからという理由で一日中ホテルに一人残っていた。
窓の外の景色を眺めながら、何度目かわからないため息をつく。
最悪の修学旅行だ。もっと最悪なのは、明日帰宅して、明後日はまたあの教室に戻るということ。
憂鬱すぎて気が重い。いっそのことこのままどこかへ行ってしまいたい。
そんなとりとめもないことを考えながら、短い修学旅行はあっという間に終えた。
*****
給食の時間、違和感を覚えた。
下を見るとパンのクズが落ちている。
さらにその手前を見ると向かい合わせの席の下からのぞく両手が片方はパンを、片方はそれをちぎって望の方に投げてきていた。
望が気づいて顔を上げると、前に座っている男子と目が合う。目があっても、パンくずを投げ続けられた。
女子は陰湿だと言うが、男子も同じくらい陰湿だということを望は知った。
ただ女子は精神的に追い詰めてくる、男子は攻撃的な手段で直接当てつけてくる。
ただそれだけの違いしかなく、つまるところ誰しもが陰湿な面を持っているということだ。
でもどんな場合であっても、結局はやめてと言えない。
望は目をそらして黙々と給食を食べ続けた。
女子はグループを作る。男子は群れをつくる。
女子は右にならえで、男子は前にならえ。
似ているようで少し違う。
けれどこの場合はやっぱり一緒なのかもしれない。
このクラスで言うと女子の右端は真美がいるし、クラスで一番頭がよくて人望があって運動ができる人間は真美だ。
つまり一番上で一番右の人物。
真美は望を苗字で呼ぶようになったし態度もそっけなくなったけれど、でもそれだけだ。連絡事項や配布物など、事務的な用事などではあからさまな態度を出したりしない。
ただ、望は真美を裏切った。
その事実が、クラスという組織による望への報復、という名の標的を作った。
一人がやり始めれば、あとはなし崩しだ。
あの人もやったんだから、自分一人くらいこうしても構わないだろう。
望は最低な人間だから自業自得だ。
全員が全員、そういう認識を持てば、個人ではなく集団としてそれを黙認する空気になる。
望にはそうしても罪にはならない。誰も咎めない。誰も気にしない。そういう空気ができていた。
あからさまなイジメらしいいじめなどない。ただ一人ずつが、ほんのちょっと、愉悦を込めた悪意を持って望にあてつけるだけだ。
一人ひとりの行動なんて把握していないし、一人ひとりがその気になった時に気ままに望をサンドバッグに利用するだけ。
誰がどれだけ望を叩いたかなどいちいち数えていないしそこまで興味もないので、それがいじめなどとも思っていない。
やっていることも一つ一つは大きなことではないので、望自身も誰かに言おうとまでは思えない。
ただ、辛いだけだ。
居心地が悪くて、苦しくて、一日が長い。
家へ帰ったら、今度はまた翌日学校へ行かなければならないことに絶望する。
明日が来なければいい、と叶いもしないことを祈りながら眠りにつく。
結局憎たらしいくらい眩しい朝が来て、学校へ行かざるを得ない。
そんな日々が延々と続く。新学期のクラス替えまでの辛抱だと思いながら。
そんな希望をどうして抱いていたのか。
快哉を叫ぶような気もちで春を迎え、新学期。クラス替えの表を祈るような気もちで確認した望は愕然とした。
そのクラスに真美はいない。悠子もいない。
けれど、望に積極的に嫌がらせや辛辣な態度をとっていた女子や男子の半数以上が望を一緒のクラスになっていた。
そこからはもうあっという間だ。
新学期そうそうにクラスの中心人物かのように振る舞いだした男子はあからさまに望に差別的な態度を示し、女子は二年次にあった出来事を面白おかしく、やや脚色しながら周囲に話して聞かせる。
望はあっという間にクラスの厄介者になり、友達などつくる暇も与えられなかった。
そこからはまた二年の冬の繰り返し。
キモイ、ウザい、と囁かれ、そばを通り過ぎると舌打ち、一挙一動何をしようが笑われる。見知らぬクラスメイトに遠巻きにされ、殆ど喋ったこともない相手に見下され、何もしていないのにいるだけで鬱陶しそうにされる。
いじめというほどのことはされていないのかもしれない。
世の中にはもっとひどい、恐ろしく残酷な話が転がっている。
そんなことはわかっているのに、今自分はそれ以下のことで耐えられない。
どうして自分がここまで嫌われなければならないのか。
笑われなければならないのか。
そこまでのことをしたというなら、誰に謝ればいい。
どうしたらこの現状から解放される。
散々何度も考えて望が出した結論は、そんなものはない、だった。
一度そう見られたら、ずっとそうだ。大層な理由なんてなくていい。結局のところあからさまに見下せる対象が欲しいだけなのだ。
それに望が運よくはまりこんだから、みんなそれを利用する。
コイツよりはましだと思えば不安も薄れるから。
虐げれば自尊心が底上げされてやってやったという気持ちになれる。
まるで生贄だ。
それに気づいた一学期の終わり、望はズル休みを覚えた。
「望、どういうこと」
望のズル休みの回数が増え、ある日用事のために仕事の半休をとって帰宅した母と鉢合わせしてしまった。
母はすぐに担任に確認を取り、それにより望のズル休みが発覚する。
夕食後、父と母が揃っているところで問い詰められた。
「学校、行くのがいやで……」
「どうして? 授業についていけなくなった? それなら家庭教師つけてあげるし、塾にいってもいいから、」
「ちがう! ……そうじゃなくて、その、……クラスで、嫌われ、てて」
言いたくない。
自分がいじめられているなんて申告、恥ずかしくてしたくない。だから黙っていたのに。
それでも、言うまで待っているつもりなのか、父がトントン、とせかすように机を叩く。
「友達もいないし、嫌がらせ、っぽいこともされてて、居づらい……から」
「先生には言ったのか」
「言ったことあるけど、注意程度で終わった……」
一人ひとりやることが大したことではないので、言ったところでそうとしか受け取ってもらえないのだ。
やった相手はしょうもないことすんな、の一言で解放されていた。
望にとって死ぬほどいやなことでも、大人にとってはしょうもないことで終わるのだ。
それ以降、申告する気も失せた。何度も言って、それを自分で対処できない告げ口屋の生徒と思われ教師にまで疎まれるのも嫌だった。
「もう嫌なの……学校に行きたくない……」
本当はこんなこと親に言いたくないし聞かれたくないけれど、ここで言わなければまた学校に行かされる。
今度はきっと嘘をついていないか親の目も厳しくなるのでズル休みもできなくなる。
一週間に五回学校に行く。
誰かにとってはたったそれだけのことでも、今の望にとっては一日行くだけでも振り絞るような勇気が必要だった。
泣きそうになって鼻をすする望を見下ろして、父がため息をつく。
いいよと言ってくれると、そう思った。
「望、辛いかもしれないけど、いじめに負けるな。そんな奴らは無視し返してやればいい。堂々としてればそのうちおさまるもんだ」
顔を上げると、父はしたり顔で望を見下ろしてきた。
「今こんなところでくじけたら社会に出たらもっとやっていけないぞ。これを乗り越えたらきっと楽になるから」
「望、もうちょっとしんぼうしなさい。あと一年もしないうちに高校に進学できるんだから。それまであっというまでしょ?」
――そのうちって、いつ。
社会って、どこ。
乗り越えるってどうやって。
それがわからないから悩んでいる。
負けたからこうしていじめられているのに。
たった一ヶ月も耐えられないくらい、途方もなく感じるほど長かった。
一年なんてあっというまなんかじゃない。絶望を感じるほど長い。たった一日でさえ、耐えがたいほどに長い。
心の中に湧き上がるものを、望は飲み込んだ。
何を言っても無駄だと悟った。解ってもらえないし、解る気もないのだと気付いた。
親は自分の一番の理解者で一番の味方、じゃない。
望は、大きな勘違いをしたまま今まで生きてきたということを知った。
*****
昼休みはいい。
誰かの目や、耳や、言葉から逃れることができる。
そんな望がいつも行く場所は図書室だ。
殆ど誰もいないし、いるとしても図書委員か眠っている人だけだ。
望は図書室に来ると一冊本を選んで、それを眺める。読む本は絵本だったり、図鑑だったり、小説だったり、色々だ。
咎める相手も気にする相手も居ないので、選ぶのも自由。この時間だけが唯一、誰かに怯えたり誰かの目を気にしたりしないで済む。
自分一人だけの時間。
ずっしりと重い図鑑を選んだ望は窓側の日当たりのいい席を選んで、図鑑を置いた。
ページを開くと、ずっと圧縮されて張り付いていたものが剥がれるように、ぺりぺりっと音がする。
その図鑑は、外国に住む生きものの写真を大きく乗せて、下にその生きものの生息地や生態を説明する仕様だった。
一枚一枚丁寧にめくっていく。
ビビッドカラーの配色の鳥に、顔が真っ青な猿、自分の牙でやがて死んでしまう猪、白黒のクジラ。
世界には見たこともない動物が沢山いる。けれどその写真のどれもこれもが、活き活きとしている。目の前にあるものだけを見つめて生きているように見える。
羨ましく思いながら、次のページをめくり目に飛び込んできたのは、白い豹のような生きものの姿だった。
丸い耳に、灰色と青が混ざったような透き通った瞳。
どこか遠くを見つめ、岩場の上に体を伸ばすように立っている。
四肢は太いが体躯はすらりとスマートで、体長と同じくらい長く太い尻尾はふわふわで、触りごこちがよさそうだ。
思わず指で、曲線を描く尻尾をなぞる。
それを見つめながら、ぽつりとつぶやきが漏れた。
「いいな……」
羨ましい。
こんな綺麗な生き物になりたい。
こんな、気高い生き物に生まれたかった。
ずるくて卑小な望でもなく、陰湿な人間でもなく、ただ前を向いてひたすらに駆けることのできる、こんな動物になりたかった。
たった一匹であっても、生き抜いていける、そんな動物に生まれたかった。
そうしたらこんな苦しみなんて味合わずに済んだのに。
「ぅっ……う……っ」
歯を食いしばっても、零れ落ちた涙は止められない。
望は図鑑を閉じて脇にどけ、机に突っ伏すような体制で、肩を震わせ涙をこぼし続けた。
*****
望は別の高校に進学したいと望んだ。父と母はそれを許さず、なんだかんだと理由をつけて内部進学させる方向でその話を終わらせようとする。
一年なんてあっというまと言っていた自分の言葉がさす意味も考えていなかったのだろう。
それを母につきつけて言い募る望に、甘ったれるな、ちょっとのことでいちいちいやなことから逃げるな、と父がもっともらしく告げた。
苦しい。
辛い。
学校にも家にも逃げ場がない。
もっとつらい目にあっている人は山ほどいる。
わかっている。
わかっていても、今望が苦しんでいるのがここだ。
そのどこかにいるだれかの辛さなんてわからない。
いま辛い。それしかない。
耐えられない。耐えきれない。散々我慢したのに、これ以上我慢できない。
いつまで我慢すればいい。高校に行ってまでまたあの冬と同じ世界を、三年間構築するなんて耐えられない。
苦痛が胸を締め付ける。
ふと見たニュースを思い出した。
とある有名な人が、けれど望は聞いたこともない誰かが、いじめに苦しんでいる子へのメッセージを上げていた。
そこだけが君の世界じゃない。きみの世界はもっと広い。そんなところからは逃げていいんだ。
そんなふうなことを言っていた。
笑える。
望は、せせら笑った。
逃げられるならとっくにそうしている。
ここが世界の全てだなんて誰も思っちゃいない。
でも広い世界ってどこだ。どうやったら行ける。行く力も勇気ももう絞りつくした。
一歩踏み出す力も残っていないのに、これ以上どうしろというんだ。ここから動けないのに、どうしてさらにどうにかしろなんて言えるんだろう。
まな板の上に居る死にかけの魚に、ここよりはるか遠いところには海というものがあって、そこはすごく居心地がよくて済みやすいんだ。そう言っているようなものだ。
じゃあお前が今すぐ、ここから救ってくれよ。
何もできないくせに。する気もないくせに。偉そうな口だけ叩いて、ただ文字にして打ち込む労力しかかけていないくせに。
誰か助けて。
助けて。
明日を失くして。
学校を失くして。
クラスを失くして。
あいつらを全員失くして。
私を失くして。
どんなに願ったって叶わない。
どこかに助けを求める勇気も力も沸かない。
これ以上もうどうしようもない。
望は、独りだ。
机に向かうと学校のことがふと脳裏をよぎる。そうすると、集中が途切れる。
望の中学は進学校なのでそれなりの結果を残さないといけない。けれど勉強に集中できず、テストの結果も散々だった。
三者面談では内部進学もこのままでは危ういと言われ、それを知った父にはしっかりしろと諭され母には本当にお願いと頭を下げられる。
授業中は周りの生徒の気まぐれな嫌がらせや嘲笑に気を張り集中できずに授業にもついていけなくなり、成績はどんどんさがり、とうとう望んでいたはずの外部の高校への受験すら落ちた。
結局両親が頼み込んでどうにか内部進学に決まったが、望の中にはもうなに一つ残ってはいなかった。
春休みに入って、望はぼんやりとしていた。
うずくまるようにフローリングに横たわる。閉じていた眼を開けて、カーテンの隙間からこぼれる光に照らされてキラキラと舞うほこりを見つめる。
また三年間、同じことの繰り返し。
一年耐えられたのだから、三年だって耐えられるかもしれない。もしかしたら、とてもいいクラスに入って、高校デビューなんて言って楽しい生活が手に入るかもしれない。
――嘘だ。
微塵も思えない。期待なんてない。
どこかのだれかがそうだとしても、それは望ではない。望には無理だ。
きっと一生こうだ。地べたをはいずるように、誰かに見下され、失望されながら生き続ける。そうに決まってる。
だったらもう、これ以上なにを頑張ればいいのか。
いや、もう、頑張らない。
ずっとこうなら終わりがいい。
暖かな光を眺めながら、望はそう、決めた。
*****
自分は弱かったんだ、と望は思う。
ずっとそうだった。
真美たちにも、悠子にも、みんなにもはっきりした態度を示せず、先生にも親にも結局折れて、背負いきれずに潰れて、それでこのざまだ。
胸のむかつきが抑えきれずにせき込むと、視界にぱっと赤い色が飛び散る。
頭が死ぬほど痛い。ガンガンガンガン鳴り響いているように痛い。体が動かない。視界でチラチラと誰かの靴が見えたが、それもぼんやりとで、次第に暗くなっていく。
それに抗わずに、望は目を閉じた。
ああ、今度こそ、暗闇だ。
何も聞こえない。
もう目が醒めませんように。
明日が来ませんように。
次に生まれるときは――。
願う前に、ふつりと落ちた。




