迷走するはおくびょうもの
エーリャは走る。
走る、走る、走る。
全てを白に塗り替えた世界を縫うように、全速力で、駆ける。駆け巡る。
どこまでも、体中を囃し立てる情動のままに、エーリャは走り続けた。
「できない……」
イリヤの喉笛に牙を突き立てる僅か手前で、エーリャの動きが静止した。
燻った火種の臭いに入り混じり、イリヤの甘い香りがエーリャに歯止めをかけた。
いつもこの香りに包まれて穏やかな心地に抱かれていた。エーリャにとって、イリヤはかけがえのない優しさそのものだ。殺すことなんてできない。
濁流のように体の中で氾濫を起こしそうだった心は瞬く間に静まり返り、剥き出しになった爪も手の中に隠れた。
項垂れたエーリャを、イリヤはただ冷たく一瞥し、唾棄するように言った。
「おくびょうもの」
エーリャは何も答えずイリヤの上から体を離し、背を向けて歩き出す。
悲しげに振り返り、横たわったままのイリヤをじっと見つめた。
「イリヤは……エーリャのこと、ずっとそうおもってたの」
「思っていたよ。言わなかっただけ。きみもそうだろう。言わないだけで思っていることだって、あっただろう」
「……そうだね。エーリャにも、あったよ」
たくさん、あった。言えない思いを持て余して辛かった。
それでもイリヤがそんなエーリャを受け入れてくれたから、エーリャは、そんな自分に押しつぶされずに済んだ。
だからエーリャは今もイリヤに、言いたいことがたくさん、ある。
あるけれど、エーリャは前を向いて走り出した。白銀の世界をただやみくもに走り続けた。イリヤのいる場所から遠く、遠く、できるだけ遠くに行くために。
『おくびょうもの』
失望しきった眼差しを思い出して、エーリャは歯を食いしばり振り切るように加速する。ぐちゃぐちゃになった思いとは裏腹に、体だけは行く場所を定めたように前へ前へと突き進んでいった。
イリヤが放った言葉は何度も、何度も、言われてきた言葉だ。
兄から。自分から。何度もそう言われ続けて、言い続けて、自分はそうだと思い込むようになった。その通りなのだと思っていた。
エーリャは臆病者だ。だからこわくても仕方ない。狩りができなくても仕方ない。そういうものだから、できなくても仕方ない。
そう思っていた。
イリヤはまるでそんなエーリャを責めるように見ていた気がする。そんな言い訳をあざ笑うように全身全霊で否定していた。
――エーリャが弱いのは、エーリャのせいじゃない。
そんな思いから、イリヤの言葉を拒絶してしまった。
あんな風に言われても、エーリャは自分がどうしたらいいのかなんてわからなかった。
今だってわからない。このままイリヤからも逃げて、エーリャはどうしたらいいのか。どこへ行けばいいのか。
イリヤはエーリャに宣言したとおりにするだろう。エーリャは本当に、イリヤの言うとおりに黙って怯えて、自分だけ逃げ隠れるのか。
それなら全部イリヤの言う通りではないか。例え生きようと死のうと、エーリャはエーリャ。中身のない毛皮とどう違うというのだろう。それならエーリャはやっぱり、生きていたって仕方ないのかもしれない。
ならエーリャが死ねばいい?
イリヤのために毛皮の敷物になればいい?
それも違う気がする。だってイリヤは多分そんなことは望んでいない。
なぜならエーリャに一度も死んでくれ、毛皮になってくれと言わなかった。ただ自分を食べろと、そう言っていた。
どうしてイリヤはそんなに死にたがる。
いなくなりたがっている。
どうしてイリヤは――。
考えている間に息が苦しくなってきて、エーリャはそこで走るのをやめた。
気づくと木々もない平たい場所に出ていて、視界を遮るものが何もないその場所はぽっかりと穴をあけたように青く澄み渡る空が見える。
よくこんな景色の下でスエニクやヤキムと転げまわった。
見覚えのある空にエーリャが立ち尽くしたその時、ぎゅっと新雪を踏みしめる音が聞こえた。
「かあさん……」
銀雪よりもはるかに美しく煌めく獣が、離れたところに立っていた。
白く美しい毛皮を持つ母は雪のように白いのに、紛れるどころか目を捉えて離さない。記憶の中の母と変わらぬ姿に一目でわかり、エーリャは自分が母のナワバリに侵入していたことに気が付いた。
じっと静かにこちらを見つめる母から目をそらし、エーリャは数歩そのまま後退した。
「ご、ごめんなさい……あの、すぐ、すぐ出てく……」
母がエーリャに襲い掛かってくる気配はないが、自分がしてはならないことをしてしまった自覚はある。
会いたくなかったとは言わないけれど、このまま無防備に母に駆け寄ることはしないだけの分別は今のエーリャにももう備わっていた。
一目姿を見られただけでもよかった。
そのまま背を向けて去ろうとしたエーリャの背中に、母の声がかかる。
「エーリャ。げんきにしていたか」
なんの抑揚もない、ほんの小さな呟きだったけれど、エーリャの耳には届いた。
ただひとことだけ。
たったそれだけのことで、それ以上自分を律することができず、エーリャは無我夢中で雪をかき分け母のもとに駆け寄る。
「かあさん……かあさん! え、エーリャどうしよう! どうしたらいいのかわかんないよう!」
全身雪まみれになりながら、母の前に辿り着く。
もう頭の中がいっぱいいっぱいで、本当に、どうしたらいいのか何一つわからなかった。ただただ、心の中をぶちまけることしかできない。
「イリヤがっ……エーリャ、ニンゲン、ひろったの。
……そのイリヤが、やさしくて、でもさっきけんかして、イリヤがほかのニンゲンつれてくるって……かあさんも、ヤキムも、スエニクも、みんなころすって! それがいやならイリヤをたべろって!
エーリャは、そんなのいや! イリヤのいうこと、ぜんぶぜんぶいや! いやなのに、いやなのにエーリャにはなにもできない……なにもできないのに、エーリャはどうしたらいいの!
どうしたらいいのかわかんないんだよう!」
言っていることが、支離滅裂だ。自分でもわかっているけれど、とめられない。
とにかくぜんぶいやなのだ。だからあの場から、イリヤからにげだした。
エーリャにはなにもできない。イリヤにも、母にも、ヤキムにもスエニクにも、エーリャができることなんてなにもない。なにもないからこれ以上なにをすればいいかもわからない。
もう本当に、エーリャにとってここが、行き止まりなのだ。
半べそをかいきながら振り回す尻尾にえぐられた雪がキラキラと舞う。
駄々をこねるようなその獣を見下ろした大きな獣は、ゆっくりと顔を寄せて、その首根っこを優しく噛んだ。聞き分けのない子供を落ち着かせるように。
「エーリャ」
「う……うう……」
ヤキムやスエニク、エーリャの聞き分けがないときは、いつも母にこうされていた。ぐっと押さえつけられて、落ちつくまでずっとそのままだった。暴れると自分が痛いだけなのでじっとするほかなく、いつも最後にはみんな大人しくなった。
懐かしい感触に、エーリャの荒んだ気持ちが凪いでいく。
エーリャの尻尾が観念したようにぱたりと雪の上に落ちると同時に、母はエーリャを噛むのをやめて、静かに見下ろした。
「エーリャはどうしたい」
「わかんない……」
「わたしはおまえがいきたいようにいきていれば、それでいい」
顔を上げると、じっと見下ろす母と目が合う。
笑むように目を細めて、母は言った。
「エーリャはどうしたい?」
思えば、口数少ない母がエーリャの意思を聞いてくれるのは、これが初めてだ。
何も言わず見守っていてくれた母は、ずっとそんなことを思って、見てくれていたのだろうか。
「……エーリャは、かあさんみたいになりたかった」
もっと言えば、自分ではないものになりたかった。
こんな小さくて弱くて役立たずのお荷物なんかではなく、母のような立派なイルビスになれたらと思っていた。そうじゃないとだめだと思っていた。
でも、それではだめだ。
エーリャはどうあがいても母にはなれない。エーリャはエーリャにしかなれない。
だから、自分として生きていくには、ほかの誰かではなく自分にならないと駄目だ。どんなに惨めで、みっともなかろうと、自分を生かしていくのは自分しかいない。
だからもう、縋ってはいけない。
「エーリャは、じぶんで、いきていきたい。これからは、エーリャのやりかたでいきていく」
エーリャは四肢を踏ん張って立ち上がり、母を見据えた。
「エーリャ、いく。いかなくちゃ」
じっと母を見つめてから、エーリャは後ろを向いて走り出した。
もう振り返ったり、立ち止まったりしない。きっと、本当に、二度とこの場所にも来ない。これが最後だと母も感じていただろう。
それでもエーリャは走った。もう前のように縋りたくなるような未練も感じない。ただ、ただ、前に、もっと早く前に、進みたくて走った。
元来た道を駆け下りて、ただ一人の青年だけを想い、走った。
無我夢中で駆け下りていると、ザアザアと唸るような水の音が聞こえてくる。川が近いのかもしれない。
そのまま川に沿って降りて行こうと緩やかに道を変えようとしたエーリャの進路の先に、一匹の獣の姿があった。
「ヤキム!」
「エーリャ!」
速度を緩めないエーリャに合わせるようにヤキムも並んで走りだす。
止められるなら振り切るしかない、と覚悟していたエーリャは戸惑ったが、それでも足を止めるわけにもいかず前を向いて走り続ける。
「おまえまだニンゲンといるのか!」
「いるよ!」
「ほんとすくえねーばかだなおまえって!」
「ばかだよ!」
吠えあうように言い合いながらも、ヤキムからはなんの殺気も感じなかった。あんな喧嘩をしたのに。
「ちょっととまれ、エーリャ!」
「とまらないよ!」
「おれのいうことがきけねーのかよ!」
「きかない!」
エーリャはもうヤキムの言うことは聞かない。ヤキムはおにいちゃんでも、もうエーリャはエーリャだから、もう止まったりしない。
雪を切り分け勢いよく蹴飛ばしていく妹と並走しながら、ヤキムは焦れたように身を寄せて怒鳴った。
「したをみろしたを! ばか!」
下は崖だ。そこに流れるのは大きな河。
ヤキムに怒鳴られ、走るのはやめずにちらりとそちらを一瞥したエーリャは信じられないものを目にとめた。
「うそ……」
河の下に見えたのは、氷結し川幅の狭くなった川を渡る、あの獰猛な黄色い獣たちの姿だった。




