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まったき獣のみるゆめは  作者: Tm
幕間
11/30

憂愁する城山の跡取り

 二人の関係が変わったのは、リヒテルが16歳の誕生日を迎える前のことだった。

 いつもの待ち合わせ場所で待ち構えていたネリーが、リヒテルの首に飛びついてきた。二人の身長差はリヒテルがあっというまにネリーを追い越し差をつけてしまったので、半ばぶら下がるように首に腕を回してくる。

 リヒテルは驚きつつも咄嗟にネリーの腰を支えてやり、身をかがめてネリーを下ろした。


「リヒテル! あたし、とうとうやったわ! やったのよ!」


 ネリーが大喜びで叫ぶ。

 最初、リヒテルはなんのことやらよくわからなかったが、すぐに見当がついた。

 この喜びようでは、常々語っていた夢が叶ったのだろう。つまり、ネリーは誰かの妻に収まった、あるいは見染められたのだ。

 つきんと痛む胸を無視して、リヒテルは穏やかに微笑み返した。


「おめでとうネリー。それで、相手は誰なんだ?」

「ありがとう! あのね、信じられないかもしれないけど、なんと……あのケィウ公なのよ!」


 リヒテルは耳を疑った。

 ケィウ公と言えばリヒテルの父だ。今まで父がネリーと接点を持っていたなど、聞いたこともない。

 寝耳に水の話に眉根を寄せるリヒテルの様子に気づかず、浮かれたネリーは喋りつづける。


「あのね、あたしケィウ公が視察で町の宿場に泊まった時に、運よくお世話をさせていただいたの! といっても、夕食のときに一瞬なんだけど、その時にお目に留まれたらしくて、それでその日にお情けを頂いたの。そしたら、そのあと、子供ができたのよ!」

「ネリー……」


 確かに、リヒテルの父親は城山を出て大公の下に出仕したり、城山内の視察に回ったりと忙しく城に帰る暇もないため、よく城下の宿場を利用していた。

 ネリーが宿場で働いているとは知っていたが、城山の当主である父がどうして下町の宿場を利用するなどと予測できるだろう。

 リヒテルは父親の動向について逐一把握しているわけではないが、それなりにあちこちの女性に手を出していることは知っていた。中には子供を産んだ者もいるし、そういうものに対してはまとまった金額を支払っている。

 けれど今まで誰一人として妻と宣言したことはない。生まれた子が女児しかいなかったからだ。この時代、後継ぎが一人だけでは心もとない。

 もし男だったならば、ネリーは問答無用で城に入ることになる。それは本当にネリーが望んでいた未来なのだろうか。


 リヒテルははしゃぐネリーの腹をそっと見下ろした。まだふくらみはない。生まれてくるまで性別はわからない。

 リヒテルはネリーの肩を掴んで、頬を染めて喜ぶその顔を覗き込んだ。


「ネリー。生まれた子が女児ならば育てるのに十分な金をもらうだけで済む。男児の場合、お前は城に入ることになる。それでもいいのか?」

「何言ってるの? それなら男の子のほうがいいじゃない! 男の子がいいわ!」


 余計なことを言ってしまったと、リヒテルは気が付いた。だがもう後の祭りだ。ネリーは大喜びで話にもならない。

 本当にこのままでいいのか。いや、自分は友として祝福したほうがいいのか。

 悩んでいる間にあっという間に時は過ぎ、ネリーは念願通りに男児を産んだ。



*****



「この役立たず! おまえはもういらないわ! 出て行って! 二度とその醜い顔を見せないで!」


 ヒステリックな声が廊下にまで響き渡る。

 リヒテルは大きくため息をついて、飛び出してきた使用人の少女と引き換えに部屋へと足を踏み入れた。部屋の中は嵐が起きたように荒れ、見事な調度品がまるでガラクタのようにそこかしこに散らばっていた。


「ネリー」

「……あらリヒテル、お久しぶりね。元気にしていた?」


 乱れた髪を撫でつけながら、豪奢な装いの女が振り返る。美しく成長したかつての少女は、いまや艶やかと呼ぶにふさわしい装いでリヒテルに微笑みかけた。

 派手な化粧も服装も、その美貌を損なうことはないが、いっそ毒々しいほどに色気だけを際立たせている。


「勝手に使用人を辞めさせるな。おまえにその権限はないはずだ」

「あら、でも実質の主人はわたくしじゃない。使えない使用人はいらないわ。代わりはいくらでもいるもの」


 当然のように言いながら、ネリーは物憂げにそっぽを向いた。

 昔の彼女はこんな風ではなかった。城に来てから人が変わったかのように振る舞い始めた。この気取ったような言葉づかいも、贅をこらした服装も、傲慢な振る舞いも、すべて城に入ってからだ。

 リヒテルが危惧していた通りになった。

 この閉鎖的な城の中でなんの後ろ盾もない彼女の心が歪んでいくのを、リヒテルは止めることができなかったのだ。

 それでも、今からでも遅くはないのではないか。一縷の望みをかけて、ネリーの肩を掴んで自分の方に向きなおさせる。


「ネリー、城を出るんだ。おれもできうる限りおまえを支援してやる。このままここに居てもおまえにいいことなんて一つもない。だいいち……」

「はっ、冗談……。誰があんな最下層に戻るもんですか。あんなところよりここのほうがいいことだらけに決まってるじゃない」

「そういうことを言っているんじゃない! 金銭的な援助ならおれが」


 ネリーはリヒテルの言葉を聞いた途端、掴まれていた腕を振り払い、睨みつけた。


「やめてよ! ここはあたしが、あたしの力で手に入れた居場所なの。あんたが口出す権利も手を出す権利もないわよ。上から目線でわかったようなことを言うのはやめて。あんたのそういうところ昔っから苛ついてしょうがなかったわ!」


 興奮冷めやらぬままにリヒテルから顔をそらしたネリーは、床に落ちていた外套を拾い上げ羽織ると、扉のあたりでくるりと振り返る。

 真っ赤な唇に当てつけがましい嘲笑を浮かべ、ぎらぎらとした瞳でリヒテルをねめつけた。


「あの子をよろしくね。お、に、い、さ、ま」


 言うだけ言って、足取り軽やかに彼女は扉の向こうへと消えた。

 重たく、深いため息がひとつ、静寂に満ちた部屋に吐きだされる。

 その時、部屋の隅でことりと、小さな音が聞こえた。


「あにうえ……」


 寝台を覆う幕の隙間から、消え入りそうなほど小さな声がする。

 リヒテルは心得たようにそこかしこに散らばる障害物をよけながら、その声の主へと歩みより、傍で跪いた。


「おいで、イリヤ」


 白い詰襟に濃い緑色の上着を羽織った幼子が、寝台の陰から飛び出してくる。

 そのままよたよたと危なげな足取りでリヒテルの元まで駆け寄り、最後の最後で足をもつれさせ倒れ込むようにリヒテルの腕に抱きとめられた。


「いい子にしていたか」

「はい。ぼく、おとなしくしていました。ちゃんと、ひとりでも、おきがえできました」


 頬を染めながら、リヒテルと同じ新緑の色の瞳をきらきらと輝かせて、見上げてくるイリヤ。

 小さな手のひらは懸命にリヒテルの服の裾を掴んでいる。まるで縋りつくようだ、と思い、しかしまた思い直す。

 ようだ、ではない。縋っているのだ。縋る相手がもう、リヒテルしかいないのだから。この手を拒まれたが最後もう自分が頼れるものはいないのだとこの敏い子は理解している。

 所詮下町生まれの後妻の子だからと侮られ、ろくな扱いも受けられず、当の母親は我が子を省みもしない。頼れるのはこの兄だけ。僅か四歳ながらそれを悟り、享受している。


 リヒテルは、弟をそんな環境に身を置かせている自身のふがいなさが恥ずかしくてたまらない。

 しかし城はいまだ父の支配下にあり、当の父親は子など駒の一つにしか数えておらず、城の人間は選民思想で染まりきっている。

 閉鎖的な環境の中で鬱屈した人々の精神は自身より下の人間を求め、そしてそこにネリーとイリヤの親子を当てはめた。

 このままでは早晩イリヤもネリーと同じように心をゆがめてしまうだろう。もうこの幼子を守ってやれるのはリヒテルしかいないのだ。

 リヒテルはイリヤの小さな体を慎重に持ち上げると、腕に乗せるようにしっかりと抱きこんだ。


「今日は何がしたい。なんでもいいぞ」

「えっと……じゃあ、ごほんを、よんでほしい、です。あの、めがみの、まつえい……」

「ああ。イリヤはあれが好きだなあ」

「はい。ぼく、だいすき。あにうえにおはなししてもらうのが、いちばんすき……」


 照れたようにはにかんで、イリヤはリヒテルの服をしっかりと掴む。

 その笑顔はいつか見た彼女の微笑そっくりで、リヒテルの胸を焼き付けるように、じくじくと痛めつけた。

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