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跳ねて、投げて、渡って

作者: 満腹亭白米

 早朝の列車に揺られながら、俺は外の景色を眺めていた。

 

 やがて列車は次の駅に停まり、窓の外には見慣れない街並みが広がっている。

 車外にいる売り子の少年に貨幣をわたし、カップに入ったコーヒーを受け取った。 

 黒い液体を胃に流し込む。身に沁みる苦みを感じながら、こんなことを考えた。

 

 サーカスってのは、まるで人生そのものだ。

 いつ開幕で、

 どうなったら閉幕なのか。

 誰も教えてくれない。


 俺はため息をついて、座席に体をまかせた。そして、ここ数日で自分の身に起きたことを思い返していた。


















 俺が住む街クラスは、冬の寒さくらいしか取り柄のない街だ。それは取り柄ではないかもしれないけれど、酒で朦朧とした頭を覚ますには丁度いい。

 空気は埃っぽいし、人は誰もかれもが冷蔵庫で固まったマーガリンみたいに味気ない。


 でも、俺も他人のことは言えない。他の連中がマーガリンなら、俺は衣装の無いピエロなのだから。


 街で一番でかい映画館のホールで、俺はひとつのポスターに見入っていた。

『サーカス・≪クリーム≫の全記録』

 そう銘打たれた映画は、連日満員の人気だ。この街唯一の希望といってもいい、とあるサーカス団の活動の記録を残したドキュメンタリー映画。

 俺は一度だけ観た。それから後は、苦々しい思いで上映室の扉を睨み付けることしかできないでいる。

 それでも、こうして何度もポスターを眺めるために映画館に足を運ぶんだ。

 なんのために?

 わかりきっている。

 いつまでも過去の何かにしがみついている、滑稽な自分を認めたくないからだ。

 こうして冷静に自己分析しているつもりでも、ただ未練があるだけなのだ。

 

 そんな俺のことを、映画館の受付係は冷ややかな目で見ている。いつも来るくせに、中に入らずホールでポスターを睨むだけなのだから当たり前だろう。

 

 どれくらいポスターの前に立ち尽くしていただろう。

 背中に若い女の声がかかるまで、俺は時間の外にいた。

「エリック……エリックではありませんか」

 俺がのっそりと振り返ると、そこには青い目の女がいた。

 瞳の青と肌の白さが、ヨーロッパの冬を思わせる。彼女が着ている黒いコートが冗談みたいに、着ている人間の魅力を効果的に引き立てている。

 ヒール抜きでも背が高い。他の客はみんな横目で彼女を見ている。

 映画館のホールよりも、スクリーンの中が似合いそうな女だ。

「エリックだって? 気の毒だけど人違いだね」

 俺の言葉に、彼女はたっぷりと間をとってから答えた。

「いいえ、そんなはずはありません」

 青い目をゆっくりと三日月形に変え、首を傾げる。

 何かわからないことがあるわけじゃない、自分の容姿に自信がある女特有の仕草だ。

 俺はため息をつき、重たい口を開いた。

「何の用かな?」

 女は胸の前で両手を合わせ、まるでパーティが始まる前の少女のよう。

「私、エリックに会いたくてこの街に来たのです」

「それはそれは、また」

 何年も前に引退したサーカス団員に会うために、こんな街まで来るなんて。

 物好きだね、とは言わないでおいた。

「それは残念だった。さっきも言ったように、人違いだよ」

 さっさと彼女から視線を剥がし、俺は出口に向かって歩き出した。

「あ……待ってくださいませ!」

 女は俺の前に回り込み、軽く頭を下げた。

 彼女の髪からふわりと甘い香りがする。

「私はパティと申します。あの……よろしければ、ご一緒にお食事を……」

 腕時計を見ると、夜の七時をまわったところだった。

「残念だけど、夕食は摂らない主義なんだ。胃が弱くてね」

 コートのポケットから煙草を取り出し、唇にはさむ。映画館の職員がこちらを睨むのが見える。

 ここでは火をつけないと知らせるために、黙って出口に歩いた。

 これで諦めるかと思ったけれど、意外にも女は後を追ってきた。

「あの……ではこれを」

 そう言って、パティと名乗った女は小さなメモを差し出した。

「私が使っているホテルと、部屋番号です。気が変わりましたら、連絡をください」

「気が変わらなかったら、どうする?」

「おきになさらず。私のお財布が軽くなるだけですわ」

 パティは平然と言ってのけた。

 受け取った紙をコートのポケットにしまい、彼女の青い目を見る。

 底なしの海のようだ。

「……あんた、≪クリーム≫が好きなのか」

「ええ……。エリック、ジンジャー、ジャックのスターの三人の名は、隣町まで届いていましたから」

 そう言うと、彼女は少し俯いた。

 青い瞳に微かな影がさした。

「それは……昔の話だ」

 女は首を振る。

「いいえ。今の演目も素晴らしいですけれど、エリックがいないと物足りません。ジンジャーとジャックだけでは……」

 玄関から外を見ると、風が強そうだった。コートの襟を立てて、扉の取っ手に手をかける。

「とにかく、君が知ってるエリックはもういないんだ。さっさと忘れて、ジンジャーやジャックの取り巻きに加えてもらったほうが良い」

 彼女は何も言わず、ただこちらを見つめていた。






 

 



 この時期のクラス街は、嫌味なほどに冷える。それでなくとも年中、湿ったパンみたいな街なのに、今夜みたいに耳がちぎれそうなほど冷え込むと、駅前でも誰かの葬式みたいに静かだ。

 ようやく煙草に火をつけ、ポケットに手を突っ込む。

 パティと名乗った女のことが、頭をよぎった。

 変な女だ。

 怪我をしてサーカスを退団した俺とは違い、ジンジャーとジャックは今でも≪クリーム≫の大スターだ。計算された構図と笑顔で撮られたブロマイドは飛ぶように売れるし、彼らと写真を撮るために、若い女達が列をつくる。

 ジンジャーは常に周りにきれいな娘を連れていたし、ジャックは金回りが良かった。女も金も扱い方がよくわからない俺とは違い、彼らは今でも生粋のスターだ。

 自分の資質によってもたらされたものを、当然の報酬として受けとることができる。

 それができるのが、スターとしての資格だろう。

 それにしても……なぜパティは、今でもスターの二人ではなく、俺に会いに来たのだろう。


 まぁ、考えても仕方がないことか。


 若い女の子の思考なんて、猫より気まぐれなのだから。













 

 帰り道の途中で安い酒を一瓶買い、モーテルに戻った。肺炎の老山羊の呼吸音みたいな音を立てて、エレベーターは上がっていく。

 三階で下り、ところどころが剥げ落ちた壁を横目に進む。口から反吐を垂れ流している酔っ払いを通り過ぎ、自分の部屋を目指した。

 鍵を開け、自分の城に入る。

 中は狭い。そして簡素だ。

 コートを着たままで、バネがぎしぎしと悲鳴を上げるベッドに腰掛け、酒をあおる。

 腹が減っていたけれど、冷蔵庫に入っているものを思い出したら、飢え死ぬほうがマシだという結論に至った。

「まったく、おまけみたいな人生だ」

 安い酒をあおって、早々に頭が麻痺してくれることを期待した。


 狭い部屋の中の隅にあるレコードプレイヤーは、最近ずっと同じドーナッツを咥えたままだ。気の毒だとは思うけれど、仕方がない。電源を入れると微かな抗議をするかのようにうなったが、その後は従順だ。

 軽快、とは言い難い前奏。気だるげに歌うそのイギリス人は、幸か不幸か俺と同じ名前だから気に入っている。

 

 何もするべきことがない人生というのは、ライムがきいていないジンのようなものだ。広がるのは倦怠感だけで、引き立たせてくれるものが無い。

 明日も、明後日も、俺は映画館に足を向け、昔の仕事仲間が笑顔を並べるポスターを眺めるのだろう。 

 そして薄汚いモーテルに戻り、酒を飲んで頭を麻痺させ、なんとか夜を過ごす。

 いったい、いつまでこんな生活が続くのだろう。

 最近では、徐々に夜が長く感じるようになってきた。それは季節的なことだけじゃない、俺の感覚的な問題だ。連日の深酒で、酔いが回るのも遅い。身体が、俺に現実を見ろと言っているのだ。

 

 煙草に火をつけて、壁に一枚だけ張られた写真を見る。白い煙を散らし、眼を凝らす。

 そこに写っているのは、ジャックとジンジャー、そして怪我をする前の俺だ。

 サーカスの施設を背にして、この世は俺たちのものだとでも言いたげな顔をしている。

「フン……」

 アルコールが回って、視界がぼやける。こうしていると、まだサーカスでスポットライトを浴びていた頃のことを思い出す。

 

 決しておまけなどではなく、まっとうな人生を過ごしていた頃のことを。


 捨て子だった俺は、一人の物好きな女性に拾われた。アレサおばさんという、身体全てがおせっかいでできいるような人だ。

 俺が16の頃、彼女はサーカスに連れて行ってくれた。スクールで友達ができない俺に、何か楽しみを与えようとしたのだろう。

 初めて見るサーカスは、極めてきらびやかだった。団員は身体にぴたっと張り付く衣装を着て、鍛え上げた肉体と技術で、観客を魅了するのだ。

 

 すっかり俺も、虜になってしまった。


 家についても、俺はサーカスで見た光景が頭から離れなかった。そんなとき、団員募集の貼り紙を見つけた。

 貼り紙を剥いで、飛ぶようにして帰った。キッチンで夕食の用意をしていたアレサおばさんの前に貼り紙を叩きつけた。

「クリームに入りたい」

 俺がそう言うと、アレサおばさんは一瞬だけ眉をひそめた。でも次の瞬間には焚火のような笑顔になり、俺にまとまった金と、紹介状を渡してくれた。


 クリームでの生活は、はっきり言って過酷だった。毎日のトレーニング、食事管理、健康管理。それに、演目の練習。集団生活に慣れていない俺は、何度も誰かをぶん殴りたい衝動に駆られた。

 でも、ステージに立つとすべて報われた気がした。

 クリームに入る前の俺はいつ死んでもいいような人間だった。店から物を盗み、何度もアレサおばさんに頭を下げてもらった。

 でも、ステージに上がるようになってから変わった。

 規則正しい生活は人生に張りを、常に観客に観られているという自覚は、俺に常識を植え付けた。

 それまでの人生を捨てたかのように、俺はサーカスでの生活にのめりこんでいった。














 

 気が付くと喉が痛かった。

 どうやら眠っていたらしい。しかし時計を見ると、それほど時間は過ぎていなかった。

 皿の上で煙草が灰になるほどの時間だ。

 安い酒で痛む頭を振って、案外軽い足取りで洗面所に行き、自分の顔を見た。


 土気色の顔をした、冴えない男と目が合った。


 冷たい水で顔を洗い、部屋に戻ってベッドに腰掛けた。田舎の老婆が着ている服のような柄のカーテンを見つめていると、足元に何かが落ちた。

「これは……」

 拾い上げると、それはパティから渡された紙だった。几帳面な字で、ホテルの名と部屋番号が記されている。

「ホテル代も馬鹿にならないだろう」

 重たい腰を上げ、モーテルの廊下にある共用電話へ向かう。

「○○号室につないでくれる?」

 安い酒が悪さをしているのか、俺は自分がこれから何をしようとしているのかもわからなかった。

 パティの財布の中身も、さほど気にしてはいなかった。



 三十分後、自分の部屋とは天と地ほどの差がある部屋にいた。

 そこはとても暖かく、室内の調度品も気が利いている。間違っても、婆さん柄のカーテンは無い。

 床のマットは生活音を完全に消すほどにたっぷりと足が長く、テーブルは小さなパーティが開けそうなほど大きい。三重構造になっているカーテンがついている窓から街を見下ろすと、まるでクラス街全体がマンホールの下に広がる地下街のようにみすぼらしい。

 地下街にも、こんな小洒落たホテルがあるというのは、何かの冗談なのだろう。

 部屋の主はたおやかな微笑みを浮かべて、汲みたての水のようなさりげなさで俺を迎え入れてくれた。

「来てくれて、嬉しいです」

 パティは身体にぴたっと張り付く服を着て、ペンギンの腹みたいにふかふかのソファーに座って言った。

「こんな時間に悪いね」

「いいえ……それよりも、どうして来てくれたのです?」

 室内は薄暗い照明が一つあるだけで、お互いの顔はよく見えない。

 こうしていると、パティが地獄から来た美しい悪魔のように見える。後ろでひっつめたブロンドの髪の毛が、俺を絡め取ってあの世に連れていくんだ。 

「俺に会いに、この街に来たと言っていたね?」

「ええ」

「その理由が聞きたくて」

 パティはしばし俺の目を見た。膝の上で両手を弄び、それから視線を外した。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、ベッドの横にある受話器を取った。

「お酒でも飲みながら話しましょう」

「俺はいい、もう飲んできた」

「あら、女だけ酔わすのですか?」

「……高価な酒は胃に合わない」

「エリックがお飲みになるのは、きっとただの水ですわ」

「しかし……」

「お酒のお供に、私では不満ですか?」

「そんなわけでは……」

「ふふ、大丈夫です。間違いなんて起こりません」

 パティは見透かしたように言った。

 まったく、俺より五つは下の女に、いいように遊ばれてる。

「いまから起こることは間違いではなく、正解でもないんですもの」

「じゃあ、何なんだ?」

「ただのゲーム、ですわ」

 

 すぐに、琥珀色の液体が入った瓶が運ばれてきた。丸い氷を入れ、瓶の中身を注ぐ。

「エリックに会えたことに」

 彼女はそう言ってグラスを掲げ、口をつけた。

「ゲームを楽しめるように」

 グラスを上げ、脳を刺激する液体を口に含み、飲み下す。

 焼けるような感覚が喉を通る。心地いい香りが鼻から抜ける。

 美味い酒だ。

「それで、私がエリックに会いに来た理由ですけれど……」

 彼女はその白い脚をゆるやかに持ち上げ、大事な宝物のように交差させた。

「実は頼みごとがあるのです」

「頼み事?」

「ええ」

「それが、ゲーム?」

「ふふ、そうですね。そうかもしれません」

「……話を聞こう」

「その前に……横にきてくださらない?」

「どうして?」

「ゲームの掛け金は先に提示するものでしょう?」













 俺とパティは、ベッドで裸のままで寝そべっていた。

 彼女が天井を見上げながら口を開いた。

「ジンジャーとジャックを殺して欲しいの」

 俺は疲労感と倦怠感にアルコールが加わり、頭が朦朧としている。

 それでも、彼女の言葉ははっきりと届いた。

「どうして?」

「許せないからよ」

「何が?」

「私のスターを……エリックを、ステージから追い出したあの二人が」

「どういうことだ?」

「あなたがサーカスを退団せざるを得なくなった原因を、私は知っているの」

「……つまらない事故で怪我をしたんだ」

「それが事故じゃなかったら、どうかしら」

 急に血の気が引き、身体を起こした。

 隣のパティは涼しい顔でこちらを見ている。

「どういうことだ?」

「あなたが引退する原因になった事故、覚えている?」

「あぁ、あれは……」

 あれは俺が≪クリーム≫に入って三年目のことだった。当時、既に一定の人気を得ていたジャックとジンジャーを全面に出した演目を組むことを、責任者が企画した。その二人の他に、誰かもう一人入れて、三人でチームを組もうということになっていた。

 当初、三人目の候補筆頭は俺ではなかった。もっと実績のあるジョンという男がいて、彼が三人目になるのだろうと誰もが思っていた。

 しかし、ジャックとジンジャーがそれに反対した。ジョンは実力はあるが、華がなかった。年齢はジャック達と同じくらいだったが、何しろ暗い男だ。華やかなサーカスの舞台で花形を演じるのは不向きだというわけだ。

 責任者は二人のスターの言い分を聞き入れ、三人目に俺を指名した。既に注目を集めている二人に若手を加えることで、バランスを取ろうとしたのだ。

 結果、俺たち三人はチームを組み、日に日に客の入りは増えていった。

 そんなある日、三人で行う綱渡りの演目があり、その時に事故は起きた。

 俺が渡っていたロープが途中で緩み、落下したのだ。

 日常生活に支障が出るような怪我ではないが、とても演目を続けられるような状態に回復する見込みは無いと、医者は言った。

 心配そうな顔で俺の見舞いに来てくれたジャックとジンジャーに、サーカスを辞めると告げた。二人は引き留めてくれたが、俺にはもう希望がなかった。いまさら裏方なんて回れないし、自分がライトを浴びることができない以上、≪クリーム≫にいても意味がないと判断したからだ。

 

 俺が説明を終えると、パティはシーツを胸元まで引き上げた。枕元にある小さなランプに照らされて、彼女の顔がオレンジ色に染まっている。

「その事故……仕組まれたのよ」

「なんだって? 誰に?」

「ジャックと、ジンジャーよ」

 でかい氷柱で、頭を殴られたような気分だった。

 ぼんやりしていた頭が寒々しく冴え、背中には冷汗がつたった。

「そんなはずは……」

「本当よ。あの二人はエリックがスターになるのを嫌って、ステージから追い出そうとしたの」

 そう言うと、彼女は近くに灰皿を引き寄せ、細い煙草に火をつけた。

「エリックとチームを組んでみたのは良いけれど、あなたの人気が突出してしまった……自分たちの立場が脅かされると思った二人は、あなたを何とかしてステージから追い出そうとした……」

 脳内に、あの時の二人の顔が浮かんだ。ロープから落ちた直後、真っ先に駆け寄ってくれたのはジャックだった。彼は俺を抱き上げ、しきりに名前を読んだ。

 ジンジャーはすぐに救急車を呼んでくれた。そのおかげで今でも俺の足は何とか動く。

 あの二人が……そんなこと……。

 俺が病室で引退の意思を伝えた時、彼らは本気で心配してくれた。裏方でも簡単な演目でも、絶対に残るべきだと言ってくれた。

「でも……あの二人は俺を引き留めたんだぞ」

「そうすれば自分たちに疑いがかからないでしょう」

 確かに、あれは最初から最後まで事故として扱われた。

 俺は悲劇のスターとして引退し、二人は今でも第一線で活躍している。

「そんな……でも……」

「ねぇ、エリック」

 パティは俺の手を握り、深海の濃紺を凝縮させたような瞳を潤ませた。

「私はあの二人が許せないの。だって、そうでしょう? あの『事件』が無ければ、あなたは今でもスターだったのよ。いいえ、今でも現役なら、あなたこそ本当のスターだったはず。卑怯な真似で他人を蹴落とすことでしか自分の地位を守れないあの二人とは違ってね」

「あの二人は……良い友人だ」

「目を覚まして頂戴」

 パティは俺の胸に顔をうずめ、すすり泣くような声をあげた。

「あなたは優しいから、そうして今でも自分の人生を『運が無かった』と思っていられるのだろうけれど……私は無理なの。こんなの、許されることじゃない」

「パティ……」

「復讐だなんて、あなたらしくないのもわかってる。でもね、これは私のためだと思ってほしいの」

「きみのため?」

「そう。私のスターを奪ったあの二人に、私が復讐したいの。でも、私は何もできない。ナイフも、銃も、使えない。だからエリック、あなたに頼んでいるの」

「しかし……」

「そうよ、こうしましょう」

 彼女は顔を上げ、とびきり無邪気な笑顔をつくった。

「二人に復讐したら、私の故郷に行きましょう。私のおうち、実はけっこうお金持ちなのよ」

「きみの故郷に行ってどうするんだい?」

「決まってるじゃない。結婚するのよ」

「きみと、俺が?」

 スローモーションの蝶のように、彼女はゆっくりと頷いた。

「あなたには幸せになる義務があるわ」

「幸せだって?」

「そうよ。頑張って力をつけたのに、あんな卑劣な手段で舞台を追われるなんて、あってはならないことだわ。こうして私と会ったのもめぐり合わせよ。やるべきことを終えて、二人で幸せになりましょう」

 その提案は、非常に魅力的なものに思えた。≪クリーム≫を辞めてからの俺はまさに野良猫で、以前の貯えを食いつぶして生活していた。こんなに落ちぶれてしまった罪悪感から、アレサおばさんとも会っていない。

 もし、俺がこんなきれいな嫁をもらって、家庭を持ったと知ったら、アレサおばさんも喜んでくれるだろうか。

 それに……いい加減、俺もうんざりしていた。

 過去の栄光にすがって、何度も何度も映画館に通う日々。ポスターの中で笑顔を振りまくジャックとジンジャーを見る時の気持ちは、自分でも認めたくないほどに下衆なものだった。

 そんな日々から逃れることができるなら。

 俺にも、ようやく太陽の恩恵が注がれるのなら。

「……わかった。やろう」

「本当!?」

「ああ」

「嬉しい……」

 彼女は俺の背中に手を回し、きつく抱き付いてきた。

 暖かく、柔らかい。

 青い海のような目に、太陽のような身体。

 パティは、こんな俺を退廃的な生活から引っ張り上げてくれる天使なのかもしれない。

「でも、俺にできるか……。人を殺したことなんて無いんだ」

「大丈夫よ。あなたは優しいけれど、何といっても……」

 そこで言葉を切って、彼女は唇を寄せた。

 甘い香りが広がる。

「私のスターだもの。観客の期待を裏切るようなことは無いわ」













 翌日、俺はパティと、渡された銃を持って、小奇麗な住宅街の間を歩いていた。

 空は紺と黒の間の顔をしている。小さな星が一撒きしてあり、よく晴れていた。これで冬でなければ、気持ちが良い夜だっただろう。

 時刻は夜の11時すぎ。

 やがて一軒のコテージ風の家が見えてきた。

「あそこが、ジンジャーの家だ」

 横を歩くパティは、丈の長いコートを着ている。今日はブロンドの髪が風に揺れていた。

 俺はコートの襟を立てて、住宅の様子を窺う。どの窓にも明かりは無く、建物の中は無人だということがわかる。

 腕時計を確認した。昔のジンジャーならとっくに帰宅している時間だが、今日は遅いようだ。

「ジンジャーはどんな人だったの?」

 パティは俺の方を見ないで言った。

「彼は……とにかく華があった。立ち振る舞いも発言も、すべてが誰かに観られていると自覚してのものみたいだった」

「へぇ……」

「ジンジャーというのは、ステージネームなんだ。彼の髪が赤茶けていることから、そうなったと聞いている」

「なんだか、いいかげんな人って印象だわ。私は好きじゃない」

「でも、非常に真面目だった。いつも客の反応を気にしていたし、ファンサービスも徹底していた」

「最近じゃ、それが行き過ぎているようよ」

 彼女が顎をしゃくった。視線の先を見ると、何人かの若い女の子を連れた、背の高い細身の男が見えた。

「ジンジャー……」

「今、ジンジャーの女癖の悪さは有名よ。ファンには端から手をつけて、何人か子供もいるって噂。エリックが知ってるジンジャーはもういないわ」

 道端に溶け残った雪のように、湿った口調だった。

 ジンジャーは家の前で女の子たちと別れ、ドアの前に立ってコートのポケットに手を入れている。

「行って。私は人がこないか見ているわ」

 ゆっくりと歩き出した。

 腰にさした銃の感触を感じつつ、俺は昔の友人に声をかけた。

「ジンジャー」

 特徴的な赤茶けた髪を揺らして、彼は振り向く。

「お前……エリックか?」

 信じられないといった面持ちで、彼はこちらを見た。

 無理もないだろう、あの頃の俺と今の俺では、カカオ豆とチョコレートくらい違う。

「久しぶりだな」

「あ、ああ……いったいどうしたんだ? いや、それよりも……入れよ、外は冷えるだろう」

「助かるよ」


 壁も天井も、目に見えるところは全て木材が露出していた。昔、長期の休みがあるとキャンプに出かけていたジンジャーらしい部屋だ。

 間接照明だけの室内で、俺たちは差し向って座った。

「飲めよ」

 ライムを絞ったジンがふたつ、テーブルに並ぶ。

「久しぶりだな。いつぶりだろう……。お前、今は何をしている?」

 柑橘系の香りを嗅ぎながら、俺は背もたれに体重をかけた。

「何も。わかるだろう?」

 彼は俺の右足に視線を送った。

「相当、悪いのか?」

「いや、普通の生活はできる。でも、もうステージには立てないんだ。そしてステージに立てない俺は………」

 そこまで言うと、ジンジャーは目をつぶって手を振った。

「言わなくていい。その……すまなかった」

「昔のことさ」

 ジンジャーの目に、前髪がかかっている。憂いを含んだその表情は、映画を見ているようだ。 

「……災難だった。何もできなくて申し訳ないと思ってる」

 正面に座る彼は、心底悲しそうな顔をした。

 思わず、パティから聞いたことを尋ねたくなる。あの事故は、本当に事故だったのか? 俺が聞いた話は果たして本当なのか?

 しかし、それができない。もしこれでパティの話が嘘だったとして、何が変わるというのだろう。俺は彼女に銃を返し、どうして嘘をついたのかを軽く問いただし、あの美人が目に涙を浮かべるのを動揺しながら見守るのだろうか。

 そして、昨日までと同じ生活に戻っていくだけだ。

 パティが真実を言っていたとしても、俺には葛藤が生まれる。目の前に座るジンジャーが、同じステージに立って汗を流した仲間が、俺をステージから追い出そうとしたことが確定したら、どんな顔をすればいいのだろう。

 白も黒も、つけたくなかった。

 このまま、灰色でいたかった。

 そうすれば、少なくとも青い目の天使は俺の味方でいてくれるのだから。

 眉根を寄せたまま、彼は言葉をつづける。

「なにも仕事はしていないのか? 金はあるのか?」

「なんとか。金の使い道がわからなかったから、貯えだけはあるんだ」

 彼はふわりとわらった。

「そうだったな。お前は昔からそうだった。俺たちよりも人気も才能もあって、稼いでいるのに贅沢を知らないんだ」

「縁が無いのさ」

「しかし……このままでもいられないだろう。次の仕事が決まるまで、俺にできることは無いか? お前のためなら、酒と女を辞めたってかまいやしないんだ」

 整った顔が、真剣な色を帯びている。

 彼の言葉に嘘があるとは思いたくない。

 しかし。

「いや、大丈夫だ。それに近々、街を出ようかと思ってるんだ」

「街って……クラスを?」

「ああ」

「それで……どこにいくっていうんだ? アレサおばさんはどうする?」

「結婚するんだ」

「結婚? 誰と?」

「海のような目を持つ、美しい女さ」

 ジンジャーはしばらく俯いて考え込んでいたが、やがて顔を上げた。

「そうか……お前がそれを選んだのなら、俺は何も言えないな」

 そして、空になったグラスを見た。

「それより、そっちは最近どうなんだ?」

 俺の言葉に、彼は顔をしかめた。

「あまり良くないな。隣町に新しいサーカスができて、客が流れてやがる」

「新しいサーカス?」

「ああ。でも、金をかけただけの下品なやつだ。俺たちがやっていた本物のステージとは別物だ」

「そうなのか……」

 初耳だった。

「やつらも、≪クリーム≫には対抗意識を燃やしているんだろう。あの手この手で客を集めようとしてる」

 苦み切った顔で、彼は俺を見た。

「悪いと思うが……お前がいてくれたらと、心底思うよ」

 それを聞いて、腹の底に鉛を落とされたような気分だった。

 俺だって……出来ればこんな生活はしたくない。

 まだステージに上がれたんだ。

 あの出来事さえなければ。

 黙り込んだ俺を見て、ジンジャーは笑顔を浮かべた。

「いや、すまん。しかしこうして飲むのも久しぶりだ。今日はとことん飲もう」

 俺は首を振った。

「悪いけど人を待たせているんだ」

「それって、結婚するっていう彼女か?」

 彼は笑った。昔と変わらず、女の子が夢中になるくらい、キュートな笑顔だ。

「そうだ。いつ街を出るかわからないから、あいさつにと思ってさ」

「そうだったのか……でも」

 彼は空のグラスを二つ持って立ち上がり、キッチンへむかった。

「あと一杯くらい、大丈夫だろう?」

 俺は腰から銃を抜いて、こちらに背中を向けているジンジャーに忍び寄った。

 後頭部に狙いをつけて、引きがねに指をかける。

 もう、後には引けない。

 野良猫は、常に歩き回る運命なんだ。

「……」

 一瞬、彼は気配を感じたのか、振り返る素振りを見せた。

 しかし、俺の指が引き金を絞るのが先だった。

 すらりと細長い彼の身体はくずれ落ち、赤茶けた髪の毛には、もう一種類の赤色が加わった。















 急いでジンジャーの家から出て、少し歩いた通りでタクシーを拾った。車窓から街の景色を眺める俺に、パティは優しく寄り添ってくれた。

 やがてタクシーは大通りに出て、そこで俺たちは降りて、歩いた。

 空の色は、やや紫がかっていた。

 

「上手くいったじゃない」

 パティの部屋で、俺は手を震わせていた。

 彼女はそんな俺のそばに座り、優しく手を握ってくれる。

「本当にこれで良かったのか……」

「良いのよ、これで」

 彼女は身体を寄せ、くちづけをくれた。

「あなたは優しいから心を痛めてしまうけれど……どうか、私のためだと思って」

「ああ……」

「こんな忌々しいことは早く終わらせて、さっさと街を出ましょう」

 黙り込む俺を見て、彼女は受話器をとった。

「お酒で、忘れましょう。すべては私たちの幸せのために」

「もし……」

「え?」

「もし、きみが言っていることが真実じゃなかったら……」

「私のこと、信じてないの?」

「いや、そうじゃない。でも……あぁ、しかしもうすべて手遅れだ。俺はジンジャーを殺してしまったし、もう君しか残っていない。サーカスのステージに立てない俺に、そんなに価値は残ってないからね」

 パティはそっと横にきて、憐れむような目で俺を見た。

 そんな目で見ないでくれ、と叫び出したかった。

「可哀想に……でも、あと少しよ。もう一件、事を終えたら全部おしまい。あとは私の地元で、ゆっくりと過ごしましょう」

 彼女は細い両手で俺の頭を包み込み、ふくよかな胸元に引き寄せる。

「もう何も考えたくないよ」

「良いのよ」

 甘い香りが広がる。

 これは香水だろうか。

 それとも、

 天使が見せる幻だろうか。




 翌日の夜、俺とパティは人気が途絶えた道を歩いていた。辺りには街灯が点在するだけで、人の姿は無い。

 少し雲がかかっていて、月は見えなかった。

 行く先に見えるのは、一件の古びた大きな家。

「ジャックはね、この辺りの土地を買い上げたのよ」

 彼女はうんざりしたような態度でそう言って、細い煙草を指に挟んだ。

「この辺に家が少ないのは、彼の土地だからなの。莫大なお金で、静かな生活を手に入れたってわけね」

 ライターを手で覆って火をつけてやると、甘い香りが漂った。

「あの家だって、競売にかけられていたものを競り落としたのよ。どれだけのお金がかかったのかしらね。それに、そのお金もどこから出てきたのやら……」

「どういう意味だ?」

「彼が≪クリーム≫のお金を横領してるって噂があるわ」

 俺は眉を寄せ、冷たい風に体をまかせた。

「ずいぶん詳しいんだ」

 彼女は肩をすくめる。

「もちろん、下調べはしたもの。ジャックは女の子より、お金が好きみたいね」

 全体を見るには首を痛める必要があるほど、大きな家だ。正面にはアーチ状の大きな窓が二つあり、壁はレンガ造りだった。

 二階の窓には明かりが灯っている。今の時刻を考えると、ジャックは演目の練習後、まっすぐに帰宅したようだ。

「ねぇ、昔の彼はどんなだったの?」

 白い煙を横に吐きつつ、彼女が尋ねる。

「そうだな……たぶん、団員として一番優秀だったのは彼だ。真面目に練習をして、誰よりも節制をして、いくら人気が出ても調子に乗らなかった」

「でも、あなたに嫉妬していた」

 彼女は道端に煙草を放り、つま先で踏んだ。

「ジャックが女の子にモテて、あなたが演目で目立ってしまったら、ジャックとしては立場が無いもの」

 そうだろうか。

 俺から見れば、ジャックは求道者のように見えた。真摯に、禁欲的にトレーニングに打ち込む彼の姿は、いつでも俺を戒めてくれた。

 そんな彼が、俺を……。

 いや、考えても仕方が無い。

 それに俺はもうジンジャーを殺してしまったんだ。後戻りはできない。

「行ってくる」

 彼女は微笑み、そして頷いた。

「大丈夫、これは綱渡りよりも簡単な演目よ」



 呼び鈴を鳴らすと、やや間があって物音がした。二階から人が降りてくる足音がして、施錠が解かれた。

「エリック……エリックじゃないか」

 俺を見たジャックは、表情一つ変えないでそう言った。

 でも、俺にはわかる。彼のように終始冷静な男でも、俺の名を二度呼ぶほど、動揺しているということが。

「久しぶりだね」

「ああ……。さあ、中に入ってくれ」

 彼はドアを手で止めて、俺を中に招き入れてくれた。

「上に行こう、わたしの書斎がある」

 茶色のスラックスに紺のベストを身に付けている彼は、とてもサーカスの団員には見えなかった。実際の年齢よりもやや老けて見える顔のシワは、演目ではなく裁判で刻まれたかのような印象を、俺に与えた。

「コーヒーでいいかな?」

「ありがとう」

 熱く、そして果てしなく黒い液体が入ったカップをテーブルに置き、俺とジャックは差し向って座った。

「良い家だね」

「ああ。でも、トレーニング室が無いのが難点だな。次に越すときには、気を付ける」

 にこりともせず、彼はそう言ってカップを持ち上げ、口をつけた。

「良いのかい? 君は毎日のトレーニングを欠かさない男だと思っていたのだけれど……」

 文机の向こうにある窓に視線を向け、彼は少し黙り込んだ。室内の時計がやけに大きな音を出して時を刻み、壁一面に納まっている書籍からは甘いにおいがする。

 パティのにおいとは違う、古くなった紙のそれだ。

 何かを諦めたように、彼は俺の顔に向き直った。きっと、夜にしか飛ばない鳥でも探していたんだろう。

「最近、それどころじゃなくてな」

 その顔は、少し疲れて見えた。元々落ち着いた印象のある男だが、こうして見ると中堅の教師か、依頼人を待ちわびる私立探偵のようだった。

「何かトラブルでも?」

「あぁ……いや、良いんだ。それよりもエリック、お前は大丈夫なのか? 退院してから連絡が取れず、ずっと心配していたんだぞ」

 少し、口角を上げた。

「相変わらず世話焼きだね。でも、この通り何とか生きている」

 それを聞くと、彼は細かく頷き、そっと視線を俺の右足に向けた。

「……サーカスは、やっぱりもう無理なのか?」

「残念だけど。でも、こうして君に会いに来れるくらいには、この足は働いてくれる」

「お前ほどの人気があれば、ステージに立たなくても経営陣に入り込むこともできるんだぞ。なんなら、わたしが口を効いてやる。戻ってこないか?」

 俺はゆっくりと首を振る。

「わかるだろう? 俺は裏方に向かないし、デスクワークなんてもっと向かない。きっと、オフィスで宙返りをしたくなる」

「それでもかまわんよ、こっちはな」

 その時、ベルが鳴った。

 しかしジャックはちらりと電話を見ただけで、すんなりと無視を決め込んだ。

「良いのか?」

「気にしなくていい。どうせサーカスの事務方だ。それよりも、今日は大事な客が来ているからな」

「事務? やっぱりトラブルが?」

「まぁ……な」

 それから彼は身体を前に倒し、声を潜めた。

「実は、責任者が代わるんだ」

「代わる? どうして?」

「親会社が変わったからな。上からの指示で、運営の方向性も変わる。今までの責任者は良いステージディレクターだったが、ビジネスマンとしては……残念ながら二流以下だ」

 つまり、もっと金を稼げるような方向にサーカスをシフトさせろ、ということか。

「しかし、俺は納得がいかない。サーカスや娯楽というのは、贅沢であるべきなんだ。雰囲気を出すための施設、絢爛に映える衣装、厚いバック・グラウンド・ミュージック――新しい親会社は、これらを無駄だとして撤廃しようとしている」

「酷いな……」

「だから、わたしがぎりぎりまで交渉をしているところだ」

「それはつまり……前任の責任者に代わって、君が責任者になると?」

「まだ決まってはいない。それに、他に候補者もいる。そっちも≪クリーム≫出身だが、彼は……こういうことは言いたくないが、人間性に問題がある」

 つまり、ジャック以外の人間が責任者になれば、≪クリーム≫は無味乾燥で、どこにでもあるサーカスに堕ちるというわけか。有名ホテルが銀行資本によって買われ、潤沢な資金で歴史ある建物を改装し、ブランドだけを残して中身をそっくり入れ替えてしまうように。

 後に残るのは、包装だけが立派で、中身はからっぽの箱というわけだ。

「エリック……どうにかして、戻れないか? 面倒な仕事はこっちで全部やる。お前はただ広告塔になってくれればいい。わたしなんかよりも、よっぽど効果的だ」

「でも、俺は……」

「君は16でうちに来たが、もう子供ではないはずだ。≪クリーム≫を愛しているのなら、力を貸して欲しい」

「俺だって……本当ならもっとステージに居たかったさ」

「それなら今からでも――」

 ジャックの目は一点を見つめた。

 それは、俺の手元。

 彼の口は微かに開かれたままだ。

 俺は引き金にかけた指に力をこめた。

「すまない、ジャック――」

 一発の銃声の後、ジャックは険しい表情のままで後方へ倒れ込んだ。

 また、電話が鳴った。

「今の俺は、どのステージにも立てそうにないんだ」

 電話のベルを無視して、ジャックの部屋を後にした。














 二人を殺して、数日が経った夜だ。

「とても素敵な気分だわ」

 薄暗い地下のバーで、俺とパティは丸いテーブルを囲んでいる。

 店内に客の数は少ない。たぶん、酒瓶の方が多いくらいだろう。

 彼女は少し酔っているのか、上機嫌な様子だ。

「ねぇ、エリック、あの映画見たことある? あれ……脚に障害があるアメリカ人の男の子が、兵士になって戦場にいくの。その子は頭にも少し障害があるのだけれど、脚の方はすぐに治っちゃうの。バスで乗り合わせた素敵な女の子が、『走って!』って言ったら、なんと走り出せたのよ。大人になって軍から退いてからは、ずっと走って過ごすの。それで、最後には例の素敵な女の子のところに行って、一緒に暮すの」

「そんな映画、観たかな……でも、どうして?」

「ふふふ。なんだか、そんな気分なの」

「よくわからないな……」

「良いのよ、無視して」

 ジンジャーとジャックのことは、新聞でもテレビでもまったく報道されていなかった。それについてパティに尋ねると、「言ったでしょ、私の実家はけっこうお金持ちなの」と言って笑った。

 ジンジャーもジャックも、俺の思い出とは少し変わっていたように思えた。

 ステージにすべてを賭けていた頃の彼らとは違い、ステージの外に意識を持ち始めていたのだろうか。

 いずれにしても、すべて終わってしまったことだ。スターを失った≪クリーム≫がこれからどうなるのか、俺にはまったくわからない。

 隣町にできたという、新しいサーカスに客を全て取られ、廃業してしまうのか。

 ジャックと次期責任者を争っていた男がトップに就任し、今までとは違う≪クリーム≫になるのか。

 それは、わからない。

 彼らが俺をステージから追い出そうとしたことについて、尋ねてみても良かったが、しかし……。

 もう、幕が下りる。

 スポットライトも消えてしまった。

 次の公演は、恐らく無いだろう。


















 バーから出ると、冷たい雨が降っていた。

 一つの傘に二人で肩を寄せ、堅い石畳を歩いていると、俺の腕を抱きながらパティが口を開いた。

「寄り道をしてもいいかしら」

「かまわないけれど……どこへ?」

「海が見たくなっちゃって」

「こんな時間に? 太陽が出ている時間にしないか? かなり冷える」

「やだやだ。今が良いの」

 公道に出てタクシーを拾い、俺たちは港に来た。辺りは先が見えないくらいに暗く、ずっと向こうにある灯台の回転灯が、唯一の光源だ。

 潮の香りを感じつつ、俺たちは傘をさして公園に向かって歩いた。

 その公園は港からすぐの場所にあり、ありがたいことに屋根付きのベンチもある。そろそろ日付が変わろうかという時間で、他にデートをしている男女はいない。

「潮の香りがするわ」

 彼女はそう言って、俺の腕を離れた。 

 屋根の下に行き、両手を広げてこちらを向く。

「エリック、これで私たちは自由よ」

「パティ……」

 パティの方へ歩き出そうとしたとき、背中に衝撃が走った。

 俺は前のめりに倒れ込み、雨で濡れたコンクリートに手をつくはめになった。

 傘を手放してしまい、頬に雨の冷たさを感じた。

「エリック、よくやった」

 後方から聞き覚えのある声がして、振り返った。

「ジョン……」

 記憶の中よりも少しだけ歳をとったジョンが、暗闇の中で銃を構えて俺を見下ろしている。

 灯台の回転灯が回るたび、彼の陰鬱な表情を照らし出した。

「久しぶりだな……エリック」

 相変わらず、華が無い男だ。砂糖壷に落ちたスプーンみたいに、神経を逆なでする奴。

「どういうことだ……?」

 俺が腰に手をやると、発砲音と共に、身体の近くでコンクリート片が跳ねた。

「下手な真似はしないほうが良い。お前、怪我した脚が動かないんだろ? 動かない的を狙うのは容易いぞ」

 銃口を見つめるほど、不思議と頭は冴えていった。

 なるほど……。これは。

 まったく、ようやく目が覚めたみたいだ。

「パティ、騙してたのか」

 彼女は一人、屋根の下から澄んだ声を出した。

「騙してなんかいないわ……あなたのファンなのは本当よ。ただ、伝えてなかったことはあるわ」

「君が、ジョンに頼まれた俺に近づいたってことか?」

「そうね」

 視界の隅で、パティがベンチに腰掛けるのが見えた。それから細い煙草を取り出し、優雅に火をつける。

 俺とジョンの間に、白くて甘い煙が流れ込んだ。

「十分、騙されたみたいだ」

「そんな、酷いわ。あなたと結婚してもいいって、本気で思っているのに。でも……現実はいつも非情ね、望んだとおりの結末が得られるとは限らない」

 以前は澄んだ美しさを思わせた彼女の瞳は、今では濁った紺色に思えた。

 ちょうど、今みたいな夜の海だ。

「もういいだろう」 

 ジョンは無表情のまま近づき、地べたに倒れている俺の足元に立った。

 銃口は、こちらに向いたまま。

「君は本当によく働いてくれた。やっかいなジャックと、クソみたいなジンジャーを始末してくれたんだからな。これで僕は≪クリーム≫の責任者になれる。邪魔な人間もいなくなった。これからはやっと、僕のサーカスが出来る」

 ジョンが手にはめた革の手袋から水滴が滴っている。

「あとは……全てを知っているエリック、君を始末するだけだ」

「ジョン、お前は何がしたいんだ? 一体どうしてこんなことを?」

「それをお前が聞くというのか? ……さすがに捨て子だけあって、恥という概念が欠落してるらしいな」

 雨粒が地面を叩く音だけが辺りに響いている。

 ジョンは続けた。粘着質な、靴の裏に張り付いたガムみたいな声で。

「あの時……お前さえいなければ、ジンジャーとジャックと共に、僕がスポットライトを浴びていたのだ。それまでの努力、忍耐、時間と苦労を全て水の泡にしたのはお前じゃないか」

「自分がスターになれなかったのは、俺のせいだとでも?」

「他にどんな原因がある! 事実、お前がこなければ僕が三人目だったんだ!」

「それが……原因だ」

 俺は脚で……右脚で、ジョンの足元を思いっきり蹴った。

「ぐっ!!」

 素早く立ち上がり、腰から銃を抜く。そして、体勢を崩したジョンの右手を撃った。

 この暗闇で目標に当たるかどうかは、まったくのギャンブルだった。

 しかし、この時ばかりは神様が味方してくれたらしい。

「がぁっ!」

 彼は持っていた銃を落とし、鮮血を流している右手首を押さえて、うずくまった。

「さて……」

 俺はジョンの銃を蹴飛ばし、彼の頭部に銃口を向ける。

「騙されていたのは、俺だけじゃなかったってわけだ」

 苦痛に顔を歪めながら、彼が答える。

「ど、どういうことだ……?」

「さぁね」

 銃声。

 ジョンの顔は、陰鬱に苦痛の色を足したまま、もう動かない。

 砂糖壷は割れてしまった。

「銃を捨てて頂戴」

 振り向くと、パティが両手で小型の拳銃を構えていた。

「パティ……君は俺とジョンを騙していたんだね」

「何のことかしら?」

「こうなるって、わかっていたんだ」

 彼女は答えない。

「君はジョンに、『エリックの脚は≪全く≫動かないわ』とでも伝えたんだろう。だから彼は油断して、俺に近づいた。銃なんて使ったことがない、小心者のジョンのことだ。俺を撃つときには限界まで距離を詰めるはずだと踏んだんだろう。そして、俺の反撃を受けさせた」

「面白い推理だわ」

「まあ、上手くいかなくても良かったんだ。あのまま俺が殺されても、君がその銃でジョンを背後から撃てばいいんだから」

「それは現実的すぎるわね。ショーにはならないわ」 

 俺は自分の銃を捨て、両手を広げて頭を振った。

「これは現実だ。ステージじゃない。俺は良い友人を二人殺し、さらに下らない殺人まで犯してしまった。そして……」

 彼女の目を見た。

 まるで、深海のような青。

「これから殺されようとしている」

 彼女は笑った。

 とびきりの美しさと、危うさを持った笑みだった。

「最高の、ショーだわ」

「パティ、君はステージにあがったことがあるかい?」

「ええ、何度か」

「じゃあまだわかっていないんだ。ショーというのは、観客があって成り立つ」

「プロ意識が高いのね」

 カチ、と撃鉄を起こす音。

 このまま死んだら、ジョンやジンジャーに会えるだろうか。

 まさか、合わす顔が無い。

「……最後に良いかな?」

「何かしら?」

「どうして、こんなことを? 俺たちを殺して君に何の利益がある?」

「殺すことが目的じゃないわ」

「なんだって?」

「ステージ・マンが繰り広げる、命がけのショーを見てみたかったのよ」

 俺は雨に打たれて、両手を広げてやった。

 おまけに肩もすくめる。

 こんなところに、観客がいたなんて。

「撃てよ」

「……エリック」

「どうした」

「この街から出て行って」

「なぜだ」

「いいから。そうね、南の果てにでも向かって頂戴。そして、そこで第二の人生を歩んで。温かいところなら、脚も痛まないでしょう」

「なぜ俺がそんなことを……もう失うものは無いんだぜ」

「街を出たら、今回の件は揉み消してあげる」

「その話、断ったら?」

「大ニュースよ。≪クリーム≫の元スターが、現役団員二人と幹部候補を殺したってニュースが流れるんだもの」

「俺はまるでピエロじゃないか……」

「誰だって、同じようなものよ」

 確かに、そうに違いない。

 俺も、ジョンも、この青い瞳の美女を喜ばすための道化だったってわけだ。

「しかし……」

「面白いショーを見せてくれたから、ギャラってことで見逃してあげる」

 一緒にベッドを過ごした夜と同じ顔で彼女は言った。まるでよく訓練された役者みたいに、一分の乱れもない声と表情だった。

「わかった。その話を飲もう」

「ありがとう」

 銃口を向けられたまま、俺は歩き出した。

 安い酒が無性に飲みたい。

 バネがいかれているベッドで、イルカの夢でも見ていたい。

 雨に目を細め、俺は歩みを止めた。

「パティ、思い出したよ」

「何をかしら?」

「あの映画、俺も見たことがあるよ」

「映画?」

「俺は大尉が好きだ。俺と同じで、脚にトラブルを抱えている」

「最後はエビ捕り船の船長ね」

 俺たちはしばらく視線を合わせていた。

 言葉は無い。

 雨の音が、BGMだった。

「さようなら」

「ええ、さようなら」














 簡単に荷物をまとめて、翌日には街を出た。

 その頃にはジャックとジンジャーの行方不明が街のニュースになっていた。

 あの二人がいなくては、≪クリーム≫が立ち行かなくなってしまう、と号外が出て、行方を知っている人は連絡をくれと、警察が声明を出していた。

 きっとパティの金持ちな親父さんが、上手い事やっているのだろう。

 始発列車に乗り込み、網棚に荷物を上げた。

 窓際に頬杖をつき、ぼんやりと外の様子を眺めた。

 列車はゆっくりと動き出し、見慣れたクラスの街並が、朝霧の中に走る。

 数駅過ぎて、しばらくは田んぼと山が多い風景が続いた。

 安い酒も、バネがいかれたベッドも、もうどこにも無い。

 

 コートのポケットに手を入れると、一枚の紙切れが出てきた。

「……まったく」

 がたがたと文句を言う窓をなんとか押し上げ、その紙切れを外に放り投げた。

 パティが使っていたホテルの部屋番号が、田舎の風景に消えた。


 やがて、住宅が増えてきて、隣の街に入ったのだと知った。

 そこはクラスよりも栄えていて、活気があるようだった。

 駅を通過するとき、馬鹿でかい看板に目が行った。

 思わず、笑みがこぼれる。

「ほんと、やられたな」

 看板はジンジャーが言っていた、新しく隣街に出来たというサーカスのものだった。

 メインの団員が数名、大きく引き伸ばされた写真の中で微笑んでいる。

 その団員達の中央、誰が見てもトップスターだと認める位置に、その人物は写っていた。

 きらびやかな衣装、派手な照明、完成されたポーズ。

 そして、

 

 海のような青い目が、爛々とこちらに向いていた。















 

 サーカスってのは、まるで人生そのものだ。

 高い場所に張ったロープを渡ったり、頬の横を鋭いナイフが飛んだり、馬鹿みたいなメイクをして道化を演じたり。

 そして、なによりも。

 

 それを観て笑う、観客がいるのだから。


 

「さて……」


 次の街では、安い酒と青い目の女には気をつけよう。

 

イメージソング Eric Clapton/I SHOT THE SHERIFF 

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[良い点] タイトルと、全体のテーマが好みでした。 物語は寒い冬、後ろ向きの拗ねた空気なのに、やけにカラッと終わる感じも良かったです。 作品を包む「皆、踊らされている」感も、実は誰もが一度はふと思う気…
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