好きだよ
今までのどんな瞬間よりも甘い一時が終わり、私たちは寄り添ってシーツに包まれていた。体には心地よい気怠さが残っている。
静かな時間に微睡みながら、私はふと気になっていたことを聞いてみることにした。
「ねぇ、藤吾」
「ん?」
「藤吾はどこで私を知ったの?私、会った記憶ないよ」
こんな美形だったら一度会えば忘れないと思うんだけど。
私の疑問を見透かすように藤吾が口を開く。
「大学。俺さ、香世子の大学の研究室に実験機器を借りに行ってたから。その研究室に行く途中に香世子の所属してた研究室があって。だから知ってた」
「嘘!私、全然…」
「知らなくて当然だよ。あの頃の俺は地味だったし。黒縁眼鏡にボサボサの髪、Tシャツにジーパンっていう…まぁ、オタクにいそうな格好でさ。今と多分、別人」
苦笑して目を細める横顔は、どこか優しい。昔の藤吾のことは知らないし、想像もできないけれど、きっと今と同じ、優しい表情で微笑んでいたのだろう。
私はそっと藤吾の右肩に額をくっつける。見惚れて赤くなった頬を見られたくなかった。
「香世子を知ったのは、大学3年の秋。香世子の研究室の前で、俺がサンプルの入った箱をばら蒔いちゃって。その時に拾うのを手伝ってくれたのが香世子だった。
自分だって荷物持ってて大変そうだったのにね。その後、俺は香世子にお礼を言ったんだ。そしたらさ、香世子は小さく微笑んでくれた」
そこまで聞いて、私は7年前を思い出していた。そう言えばそんなこともあった気がする。確か、就職が内定した日で浮かれてた私は、肝心の卒論の研究資料を実験室に置き忘れて取りに行ったのだ。その帰りに、サンプルを慌てて拾い集めてる人がいて…
思わず顔を上げると、体の向きを変えた藤吾に抱き寄せられた。
「その笑顔が綺麗で、一目惚れしたんだ。ただその時は自分に自信がなくて何も言えなかった。
でも、やっぱり香世子の笑顔が忘れられなくて。偶然を装って、よく顔を見に行ったよ。香世子はいつも同期の男たちの真ん中にいて、声をかけることもできなかったけど。しかも周り、イケメンだらけだし。
俺も香世子の傍にいたい、釣り合う男になりたいって、イメチェンした結果が今の姿。
…で、告白しようと思ったら香世子、いないし。研究室の人に聞いたら卒業したって」
「そりゃあ…私のが1つ上だもの」
「それは知らなかったんだ。香世子って童顔だから、てっきり同い年だと思ってた」
藤吾は私の頬を左手で撫でると、触れるだけのキスをする。不思議だけど、それだけで心が満たされていく。胸の奥がじんわりと温かくなって、なんだか泣きそうになった。
「結構ヘコんだよ、あの時。どうして見た目を言い訳にして、告白しなかったんだろうって。もう絶対に同じことはしない、って誓った。
でもさ、誰と付き合ってみてもうまくいかなかった。どうしても本気になれなくて、フラれてばっか。そんな時に紗智に会ったんだ。たまたま合コンの席で一緒になって。それで、香世子のことを聞いた。だから、紗智には全て話したんだ。そこからのことは知ってるだろ?」
最後の問いかけに私はただ頷いた。もう、何も言えなかった。今まで私は藤吾の何を見てきたんだろう。過去に囚われて、自分を卑下して、そして藤吾のことを信じることも拒否した。
本当に、私はバカだ。こんなに愛されていることにすら気づけなかったなんて。
振り返ればこれまでだって、藤吾は私を労ってくれてた。何もかも否定をし、自分の殻に籠っている私を見捨てることなく傍にいてくれた。どれだけ酷いことをしたって、受け止めてくれた。それを無視したのは私。結婚を、過去を忘れる手段にした。
「藤吾」
「何?」
「私、藤吾のこと全然知らなかった。今も昔も。ううん、知ろうともしなかった」
目頭が熱くなって、私はぎゅっと目を瞑る。込み上げてくる衝動に、嗚咽が喉を突いた。
「これから、知ってくれたら良いよ」
「とっ…とう…ご…」
「泣くなよ。毎日、独身の時みたいに残業して夜中に帰ってた俺も悪かったんだ。そりゃあ、新婚なのに帰ってこないわ、キスマーク付けてきたら誰でも浮気を疑うよ。…あれ、女装癖のある友達がわざわざ付けたんだよ。今度紹介する。見た目は女だけど、生物学上は男なんだ。彼女もちゃんといるよ。というよりアレ、彼女のいる目の前で付けてたし」
背中に腕が回り、互いの素肌が密着する。
「そうなんだ」
あれは、男の人が付けたもの。確かに最近はおネエの人をテレビでも見るようになった。そういう人が近くにいるってことかな。
「まぁ、悪いヤツではないよ」
藤吾がくすりと笑った。至近距離に見える目が優しい。
藤吾の友達のこと、今まで聞いたこともなかった。結婚式も挙げてないから、会う機会もなかったし仕方ないんだけど…よくそんな得体の知れない人と結婚したなぁ、私。
「今まで友達に香世子を見せたくなかった。誰かに盗られるのが怖くて」
「友達なのに?」
「うん。いくら良いヤツでも、恋の前ではただの男だから」
「多分、大丈夫だったよ。私、とうの昔に貴方を好きだったから。無意識にね」
藤吾は目を丸くしてしばらく私を見ていたが、やがて彼の顔がじわじわ紅潮していく。
「それ…反則」
「…だって。プロポーズしてくれたあの時に見た笑顔に、惹かれてたから…」
きっと、あれがなければ、こうして藤吾と結婚することもなかったんだ。そう思うと不思議な感じがする。
藤吾が苦笑しながら、私の頭を引き寄せて自分の胸に押し付けた。触れた部分から少しだけ速い鼓動が力強く鳴り響いている。
「プロポーズして良かった。俺は今度こそ、ちゃんと香世子を捕まえられた。
…なんか、紗智にしてやられたな」
「ん?」
「だってそうだろ?そもそも俺と香世子を引き合わせたのは紗智なんだから。
紗智は香世子が、プロポーズされたら絶対に断らないのは知ってたし、俺が心底香世子に惚れてるのも知ってた。親友の相手は優良物件が良いし、大切にしてくれそうな人なら万々歳。だから、俺に白羽の矢が立った。俺が勢い余ってプロポーズすることは予想外だったかもしれないけど、告白はすると思ってただろうし。結果はうまくいった。想定外はなぜかすれ違ったまま夫婦生活を続けてたことくらいだろう。
…それで、酔っ払ったフリをして香世子にほんの少し、情報提供をした」
滔々と説明する藤吾の言葉を私はぼんやりと聞いていた。
…あの天然な紗智が?信じられない…
「本当に頭が良い人だよ」
「紗智が?あんな天然なのに」
「あの人が天然なわけないでしょ。知らないの?俺と紗智さんは中学が同じだけど、IQ150はある天才で有名だった」
「ええっ?!」
ガバッと顔を上げると、私は藤吾をまじまじと見てしまった。
「本当に知らなかったんだ…言わなかった方が良かったかな。まぁ、でも紗智が本当に香世子を大事に思ってるのは確かだよ」
藤吾は驚いて仰け反りながら答える。
「紗智が大切なら、今まで通りにしてやりな。きっと香世子に知られたら距離ができる気がして言えなかっただけだろうし」
「…うん」
「とりあえず、良かった。
あ、で突然だけど、報告。この度、企画開発部のプロジェクトリーダーになりました」
「本当に?おめでとう!すごい!良かったね」
思わず笑みが零れてしまう。藤吾はそれを眩しそうに見て、その後わざとおどけてみせた。
「まぁ、頑張ったしね〜俺も。褒めてよ」
「どうして?」
首を傾げた私に、悪戯っぽく藤吾が唇の端を吊り上げた。
「香世子に会えた時、自信をもってプロポーズしたかったから」
チュッ、とわざと音を立てて耳にキスをされる。耳殻を吐息が掠めていって、意図せずに体の奥が熱くなった。
「会えなかったら…どうするつもりだったの?」
震えを抑えて平然を装ってみたが、そんなことはお見通しだと言わんばかりに藤吾が笑う。
「その時はその時。縁が無かったって諦めてたよ。でも…会える気がしたから」
「何それ」
「俺、理系だから精神だとかそういうの、あんま信じないけど…今回は運命ってヤツを信じたかったんだ」
その運命のお陰で今がある。
何も言えずにいる私の額に唇が触れる。
「あ、あと。新年度からまた忙しくなるけど、その前に1週間くらい休みが取れそうです。だから、その運命を永遠にするために式挙げよう。ダメ?」
優しく響く彼の声に、視界がじわじわと滲んでいく。
「ダメ、じゃない…」
「ならそうしよう。…俺の妻です、って自慢したい。香世子、白無垢にウェディングドレス、両方着てよ。絶対に綺麗だから」
「うん…」
「結婚指輪、買い直そう。今度は二人で選んで」
普段口数の少ない藤吾だが、ここぞとばかりに饒舌に語る。その声色は柔らかくて、どこか楽しそうだ。
私は顔を上げた。瞬間、藤吾の目が驚いたように丸くなる。
「なんで、泣いてるの」
長い指に目許を掬われる。
「藤吾、私のこと、好き?」
幼い問いかけ。想いを通わせた後だから分かっているのに、どうしても聞きたくなってしまった。
藤吾はふわりと微笑む。
それは、初めて出会った日に見惚れた笑顔だ。
「好きだよ。好きすぎて、自分が自分じゃなくなるくらい」
end
お付き合いいただきありがとうございました。一旦この話は終わりです。
ですが、二人のなれ初めや、不憫な牧野君、映人君との過去など書いていきたいと思います。