泥酔の副産物
あれから一ヶ月。思ったよりも平和な日々が続いている。相変わらず藤吾の帰ってくる時間は遅いけれど、少しだけ早くなった。昨日は突然、プラチナのネックレスを買ってきてくれた。小さなハートのペンダントトップに一粒ダイヤが付いた、可愛らしくて上品なものだった。本人曰く、
『なんとなく』
らしいが、柄にもなく真っ赤になって視線を合わさないところを見ると、本当はすごく真剣に選んでくれたんじゃないかと思う。
嬉しくて思わず微笑むと、更に真っ赤になった藤吾にベッドに押し倒されてしまった。次の日が仕事だというのに、長い時間をかけて丁寧に抱かれて、結局一睡もできなかった。
あの日以来、私たちの関係はかなり軟化したと思う。私も藤吾の帰りを待って起きているし、藤吾も休みの日にはご飯を作ってくれたりするようになった。
普通の夫婦、みたいだ。
でも私たちには決定的に溝がある。私は映人君を忘れることはできないし、藤吾だって浮気相手と別れてない。
私たちはどこに向かってる?
そう考えずにはいられない。
「香世子先生」
いつものように準備室で教材研究をしていると、扉が開いた。驚いて顔を上げれば、牧野君がそこにいた。
三年生は明日から自由登校になる。次に学校に来るのは卒業式前日だったはずだ。
「先生。俺、明日から東京に行きます。東大、受けてきます」
「そっか…頑張ってね」
「先生…あの、受験が終わったら、この前の返事を教えてください。俺はもう一度、先生に告白します」
真っ直ぐ見つめられて、私は目を反らせない。
「香世子先生…いや、香世子さん。俺はあなたが好きです。愛しています」
映人君…
牧野君を見ると、必ず映人君を思い出して苦しくなる。私には夫がいて、牧野君を受け入れることはできないというのに拒絶できない。
「牧野君、私は」
そこから先は続かない。
ふわりと柔軟剤の匂いがして、気づけば私は牧野君の腕の中にいた。壊れ物を扱うような優しい仕草で、頭を牧野君の胸に引き寄せられる。
「香世子先生、続きは言わないでください」
「え…」
「今は聞きたくない…」
本当、俺の我が儘なんです。
ぽつりと落とされる呟きに、胸が締め付けられる。賢い子だから、私の迷いも分かっているのかもしれない。
「このままずっと、あなたを抱き締めていられたら良いのに」
扉が閉まっているとはいえ、生徒に抱き締められているこの状況はまずい。分かっているのに。分かっているのに…
今はただ何も考えずに、この温もりにすがっていたかった。
仕事帰り、私は大学の同期と食事に行った。彼女は結婚していて、子どももいる。毎年幸せそうな年賀状が届いているので、結婚生活がうまくいっているのは知っていた。
「香世子〜、藤吾君との結婚生活はどう?」
既に酔っ払っているのは南紗智。藤吾を紹介してくれたのは彼女だったりする。
「まぁ…それなり」
「何よ〜謙遜?相手が藤吾君なら幸せ間違いなしじゃないの〜」
…やたらと断言してくれるが、幸せかどうかなんかわからないじゃないの。少し反感を持ちながら、私は黙って唐揚げを口に入れた。酔っ払いはそんな私に気づくことなく話を続ける。
「だって、藤吾君って香世子のこと大好きだったもんね〜あんなカッコいいんだし、あんた大企業の企画開発部にいるんだよ?うちの旦那よりエリートじゃん」
まぁ私は晃樹のが素敵だと思うけど。
むにゃむにゃ言いながら突っ伏した紗智は起きる気配がない。
私はそんな姿を呆然と見つめていた。
…藤吾が私を好き?
まるで異国の言葉のように、頭が理解しない。
「紗智?今の話、本当に?」
「ん〜…晃樹〜…」
真偽を確かめようと話しかけるが、既に泥酔状態の紗智は夢の中だ。私は溜め息を吐くと、紗智の旦那を電話で呼ぶ。晃樹君は私のはとこだ。電話をしたら、すぐに迎えに来ると言っていた。
晃樹君が来るまで、私はグラスの中の琥珀色を眺めていた。
きっと紗智は次に聞いたとしてもこの話をしてくれないだろう。お喋りな紗智が半年以上、話してくれなかったのだ。秘密にしてきたことなのだろう。
でもそれだったら何故。
藤吾はあんなプロポーズをしたのだろう。
私の中で、謎が溢れていく。
同時に訳の分からない胸の痛みが広がっていったのだった。
家に帰った時には既に22時を過ぎていたが、藤吾は帰ってきていなかった。真っ暗な部屋で私は電気も点けずに座る。あの後、一人でもう一度飲み直し、足だって覚束ないくらい酔っている。
どれくらい経ったのだろう。鍵が回る音がして、扉が開いた。電気が点いて藤吾がリビングに入ってきた。
「うわっ!香世子…?」
見上げれば、目を丸くして立ち竦む藤吾がいた。朝出た時のスーツを着て、手には分厚い鞄を持っている。
「とう…ご…」
「香世子?酔ってるのか?」
呂律も回らない。頭がふわふわする。藤吾がしゃがみこんで私の顔を覗きこんだ。
気遣わしげな瞳に私が映る。綺麗な茶褐色の瞳…
「私のこと、好き?」
何を言っているんだろう…。何が聞きたいの…?考えがまとまらないのに、口が勝手に動く。
「…なに、言って」
「好き?」
「っ!」
何も答えてくれない。私のこと、やっぱり嫌いなのかな…。
なんで私、こんなに沈んでるの…?
自然と涙が零れていく。
「やっぱり、きらいなんだぁ…きらい…うっ…ひっく…」
「…本当に言って良いのか?」
何を。溢れ出す涙をそのままに、私は藤吾を見た。
あ…
なんだか悲しそう…
どうして?
私はそっと藤吾の頬に手を添えた。その手に藤吾の手が優しく添えられる。
「とうご……?」
「好きだよ。好きすぎて、自分が自分じゃなくなるくらい」
「とうご…」
「香世子のこと、ずっと好きだ。好きなんだよ…」
痛みを堪えるような声と表情に、胸が引き絞られる。
「好き…?」
「愛してる」
言うなり、強く抱き寄せられる。互いの鼓動が交わって、体に響く。慣れた温もりに、体が弛緩していく。
あぁ…この温もりだ。
私が欲しかった温もり。
私は藤吾の背に腕を回した。ぴくりと藤吾の体が跳ねて、一層抱き締める力が強くなる。
嬉しい…
意識が遠くなっていく。
「今まで、ごめんな」
ブラックアウトする前、そんな声を聞いた気がした。