恋のスパイスは
家に帰ると珍しく藤吾がいた。
「ただいま」
「お帰り。今日は遅いんだな」
「うん。仕事が片付かなくて。ごめんなさい、夕飯は今から作るわ」
鎧の取れた無防備な心を晒したくなくて、私は藤吾の顔も見ずに自分の部屋に入った。
スーツから部屋着に着替え、そのまま台所へと向かう。冷蔵庫には昨日買った、鱈の切り身がある。今日は手の込んだものを作る気力もないし、ムニエルにでもしよう。それに味噌汁とサラダ、昨日のひじきの煮物で十分だろう。
ぼんやりと料理を作りながら、私は今日のことを思い出していた。牧野君の想いを受け取るわけにはいかないのは、分かっている。
けれど、藤吾のことはどうしたら良いのだろう。
二人の距離は遠く、仮面夫婦みたいだ。
このままでいたいのか、別れたいのか、変わりたいのか。分からない。
考え事をしていたら、ムニエルは少し焦げてしまった。
夕飯は本当に味気なかった。そもそも二人で一緒に食べることは滅多にないから、会話すら戸惑ってしまう。何を食べているのか分からないくらい緊張しながら、私はひたすら時間が過ぎるのを待った。
「あのさ、」
食後にお茶を出した時、藤吾が口を開いた。驚いて顔を上げれば、やや不満げな表情が見えた。
「どうしたの?」
「俺たち結婚して、もう半年近く経つよな」
予想していなかった話題に、私はぽかんと藤吾を見つめた。
そんな私に藤吾は更に不満げな顔をする。
「やっぱり、結婚式…挙げないか?」
「は?」
結婚式?なんで今更?
まったく意味が分からない。
「俺も仕事落ち着いたしさ」
「はぁ」
「だからどうかな、と」
歯切れ悪く紡がれる言葉に、益々私は混乱する。どうして急に結婚式?愛し合ってもいない相手と、永遠を誓うと言うの?
「私たち、愛がない結婚したのに今更何を誓うの?
言ったわよね、藤吾。私と結婚すると都合が良いって。だから年上の行き遅れの私をもらってやるって」
忘れもしない。自分勝手なプロポーズ。ムードどころか愛さえ無かった。思い出すと腹立たしい。確かに投げ遣りだったのは私もだが、それにしたって人生で最初のプロポーズがあんな風になるなんて、思いもしなかった。
…でも何で、こんなに感情を乱されているのだろうか。普通、どうでもいいはずなのに。
そんな疑問を掻き消すように、私は敢えて嘲った。
「私は周りから見ると不幸せに見えるそうよ」
「…え?」
「今日、生徒に言われた」
藤吾はまた沈黙した。それに構わずに私は続ける。
「ねぇ、なんで結婚したの?スーツにあからさまなリップマークつけるような恋人がいるのに、なんで私だったの?私は、あなたにとって何?
…別れようか?もう、いいよね。体裁は取れたと思うよ」
もう終わろうよ。
私の言葉に、目の前の顔から表情が抜け落ちていくのが見えた。
…なんで?
彼の表情の意味が分からない。
困惑した私は席を立ち上がり、彼を見下ろした。その瞬間、強い力で腕を捕まれた。
「…っ!」
「…だ」
「え、」
能面のような顔に、僅かに走ったのは、何。
「…なんだよ、それ。別れる?ふざけんな…っ!」
目を瞬かせる間もなく、私はさっきまで座っていたソファに押し倒されていた。
頭上には怒りを含んだ双眸がある。焦げ茶色が飴色に変わるのが、綺麗だと思う。
どくん
心臓が大きく鳴った。
え…?今、なんで…
私の動揺を知ってか知らずか、藤吾は不機嫌さをそのままにぽつりと呟いた。
「俺は別れない」
「藤吾!」
「何が不満なんだ。香世子が俺を愛さなくたって、それを詰ったことはない。自由にして良いって言ってるだろう」
確かにそうだ。でもそれは本当に良いことなの?
「映人君…」
ポロリと零れた名前に、藤吾の眉間に皺が刻まれた。
「映人?」
室温が、下がる。
「誰、それ」
誰って…言って良いのかな。高校時代から好きな人です、なんて…言えない。というより言ったらまずいのではなかろうか。でも言わなきゃそれはそれで面倒だし。
考えているうちに、両手を一つにまとめあげられ、頭の上で括られてしまう。
「言えない?不倫相手だからか?」
侮蔑的な響きに、胸が痛む。予想外にショックを受けている自分がいて、更にショックを受けた。
「…違う…」
出てきた声は弱々しい。
「じゃあ何で言えない?言えないような関係なんだろ」
「言えるわけないじゃない!高校時代からずっと片想いしてる相手だなんて!…あ」
ついかっとなって言い返して、はたと思う。あぁ…なんてこと。
「へぇ…」
真上から落ちる声は低い。冷めた褐色の瞳とは対象に、唇の端がつり上がっていく。
私の手をまとめ上げる力が強くなって、鈍い痛みを感じた。
「じゃあ、何で俺と結婚したの。その、映人君とやらへの当て付け?」
「違うわ…」
「じゃあ」
「『一番最初にプロポーズしてくれた人と結婚する』」
「は?」
「映人君とは結婚できない。私の恋は叶わない。忘れたかった。でも私は誰も選べないのは分かってた。だから一番最初にプロポーズしてくれた人と結婚しようと決めたの」
映人君は、私が結婚する一ヶ月前に職場の女性と結婚していた。それが悲しくて、辛くて、想いから逃げようとした。
目頭が熱くなって、私はきつく目を閉じた。話していて、自分が惨めで仕方ない。
「…要は誰でも良かったわけ」
冷えきった声が耳に伝わるが、目を開けることができない。今開けたら涙が零れてしまう。
「俺じゃなくても、良かったんだ?」
「藤吾だって同じでしょ」
それはお互い様だ。
頭の上で大きな溜め息が聞こえる。
これで本当に終わりかな…。
愛もなく生活してきたけれど、一緒にいることが当たり前になった今、その現実に胸がツキンと痛む。
ゆっくりと手の拘束が解かれ、私の頭の両脇に藤吾が肘を付いたのが分かった。
「…ムカつく」
「え?」
「香世子、お前ムカつく」
その言葉に私は目を開けて、藤吾を見た。
なん、で…?
何で、泣きそうな顔してるの?
「藤吾…?」
私は無意識に藤吾の頬に手を添えた。その瞬間、痛みを堪えるように眉が寄る。
「お前は、俺だけ見てろよ。よそ見すんな」
藤吾の顔が近づいて、唇に噛みつくようなキスが落ちる。体が密着して、真冬だというのに暑い。
余裕のない、藤吾にしては珍しい乱雑な手で服を脱がしていく。
「ちょ、ちょっと…!」
慌てて体を離そうとするが、藤吾の腕が腰をしっかりと抱き締めて逃がしてくれない。
「香世子が悪いんだ」
「は?」
「お前の旦那は俺だろ」
「…戸籍上はね。要はただの家政婦よ」
都合の良い家政婦だと思ってるくせに。妻として、慈しんだことなんかないでしょうに。
睨み付けると、藤吾が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そんなことない」
「嘘。毎日、帰ってくるのだって遅いし。あなたこそ浮気してるでしょうに。私のこと、愛してもないくせに」
「…浮気なんかしない。するわけない」
「信じられないわ」
「浮気できるわけないだろ。香世子がいるのに」
「意味が分からない」
「なら、分からせてやるよ」
言うなり、また乱暴なキスが始まる。その後は有無を言わせないくらい、たくさん抱かれて私は気を失ってしまった。
夢の中でも、泣きそうな藤吾の瞳と、性急なくせにどこか優しい指先の熱が、私の胸を震わせていた。
目を覚ますと、ベッドの上にいた。隣には藤吾が眠っている。こうして改めて見ると整った容姿をしているのが分かる。少しだけ口が開いていて、若干間抜け面になっている。
「どうして、なの」
どうして、私を手放さないの。
それは…期待してもいいということ?少しだけでも貴方が私を特別だと思ってるって。
この整った容姿も、やや上から目線な所も、慣れてしまった。昨日まで感じていた不安は、昨日の藤吾の言葉で薄れたように思う。
『お前の旦那は俺だろ』
『家政婦だなんて思ってない』
『香世子がいるのに浮気できるわけない』
迷いのない言葉に、不安を拭われた気がした。
「あなたに向き合おうとしなかったのは、私だものね」
いつまでも報われない恋をして、すべてから逃げてきたのは私。逃げ切れるわけなかったのに。
藤吾のこともそう。
ずっとずっと目を背けてしまっていた。歩み寄ることもせず、気持ちを伝えることもせずにいた。
それでも、藤吾に別れるという選択肢がないというのなら。
私も藤吾も変わらなきゃいけない。
「変われる、のかな?」
藤吾の髪を撫でると、くすぐったそうに彼は私にすり寄り、そして幸せそうな寝顔を見せたのだった。
誰が見ても…という藤吾の態度は香世子に全く届いてません。藤吾が少し哀れな人になってる気も。