きっかけは目の前に
きっかけは本当に些細なこと。
ある日の授業、私は黒板に数式を書き連ねていた。授業は楽しい。面白いと思う。腹立たしいことも多いけれど、基本的に自分の見ている子は可愛くて仕方ない。
でもこの半年はダメだ。私の気持ちは晴れない。生徒もそれを察しているのか黙々と授業を受けている。味気ない授業。私も、きっと生徒もつまらない。
ごめんね。
いつものように私は子供たちに心の中で謝った。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、挨拶をすると私は教室を出た。次の時間は空きだ。今のうちに昼食にでもしようか。
「香世子先生!」
突然声をかけられ、私は振り向いた。見れば息を切らして誰かが走ってくる。
「何?」
「あの…先生、結婚してるんですか?」
「え?」
唐突な質問に、冷静な大人の顔が崩れてしまったのが分かる。
特進クラスの男子生徒、牧野歩。
あまり目立つ訳ではないが、学年トップの秀才で、つい2日前、センター試験の結果が9割を超え、東大受験するチケットをもらった、近年稀に見る期待の逸材である。少し神経質そうな相貌だが、ルックス自体は悪くないので女子生徒からの人気が高いことも知っていた。
その彼が何故、こんな質問をするのか。
内心驚きながらも、私は静かに牧野君を見つめた。
「つい最近ね。それがどうしたの?」
その瞬間、彼の目が揺らいだ。穏やかな水面に細波が立つような、そんな感じで。
唇をきゅっと噛み締め、牧野君はただ私の左手薬指を見つめている。当然だが、そこに指輪があるはずがない。なのに、彼は何も言わず一点を見ている。その表情が今にも泣き出しそうに見えてしまった。
「私、結婚したなんて言ってないのに…よく分かったね」
私はできるだけ優しい口調で話しかけてみた。すると弾かれたように牧野君は顔を上げた。
「職員室で他の先生が話をしている所を偶然聞きました。俺…」
何か言おうとした声をチャイムが遮る。切なそうに眉が寄った。思った以上に大人びた表情に、私は思わず息を飲んだ。
映人…君…
驚いたように目の前にある大きな目が見開かれていく。
「香世子…先生?」
『香世子…さん?』
映人君。
映人君。
映人君。
牧野君に映人君の面影が重なっていく。
「先生…?」
「いや、何でもないわ。早く授業に行きなさい。遅刻よ?」
我に返って取り繕ったが、それで牧野君を誤魔化すことができたとは思えなかった。他の生徒ならまだしも、彼の頭脳は明晰なのだ。間違い探しのような私の微妙な心理を読み解くことは容易だ。
「…はい」
問い正しげな視線を向けながら、牧野君は静かに頷いた。
この学校には数学準備室なるものがある。と言っても実際は物置で、私以外の教員は誰も使わない。埃臭い部屋の中で、私は目を閉じて今日のことを考えていた。
牧野君が、映人君に見えた。
「なんで…今なの」
忘れたと思ってたのに。
ぽつりと呟くと、藤吾との生活で磨り減ってしまった心がちくりと痛んだ。
映人君じゃない人と結婚して、もう断ち切ったはずの想いがまだ残っている。それは優しく温かい想いで、胸に溢れて泣きたくなってしまう。
零れそうになる溜め息を飲み込んで、私は目を開けた。いつもと変わらない景色に僅かに安堵して、かなり落胆する。…いっそ、すべてが夢だったらどれだけ良かっただろう。
トントン
軽くノックする音がして私は入り口を見た。ここに誰かが来るなんて、本当に珍しい。
「はい」
「…香世子先生」
控えめな柔らかく低い声は、牧野君のもの。一瞬、体が震えた。
「どうしたの。もう下校時刻はとっくに過ぎているでしょう」
冷静を装って話しかけるが、扉を開けることはしない。扉越しでは表情が分からないが、さっきみたいな彼の表情を見たら、狼狽してしまうことは目に見えていた。
「先生…あの、俺の話を聞いてもらえますか?」
扉の向こうから声が響く。
「何」
頭の中では警告するようにベルが鳴っている。きっと聞いてはいけないことなのだ。
でも、聞こうと思った。聞きたいと思った。
長い沈黙の後、牧野君が話し始める。
「俺は先生に三年間数学を教えてもらって、本当は大学なんて行く気もなかったのに、東大で勉強したいって思うようになりました。勉強が楽しいって、数学が面白いって気づけたのは先生のお陰です。ありがとうございました」
言われて思い出すのは、無気力に見えた当時一年生の牧野君。そういえば成績だってあまり良い方ではなかった。それが二年生になる頃には頭角を現し、気づけば県内でも指折りの成績を取るようになっていた。当時、彼の担任だった私は内心、その心境の変化を喜んだものだ。
「香世子先生のこと、ずっと憧れていました。穏やかで温かくて、俺は何度も先生の優しさ、言葉に救われました。
一年生の時の面談の時、『キミがいなくても世界は回る。でもキミがいなくなれば、キミの傍にいる人は心から笑えなくなる。その悲しみは、何よりも深い。少なくともキミがいなくなったら、私は悲しい』と先生は言いました。
そう言われた時、目から鱗が落ちました。死にたいと、自分なんか必要ないと思っていた自分を見透かされた気がして、でも本当に欲しかった言葉だったから。霧が晴れたようでした」
それは、よく覚えている。
だってその言葉は映人君が私にくれた言葉だから。
死にたいと言った私に、諭すでも怒るでもなく、ただ優しく伝えてくれた。あの時、私は映人君に恋に落ちた。私の中でとても大切だった言葉。
それを牧野君にあげたのは、高校時代の私が重なったから。あの時は全てに絶望していた牧野君を引っ張り上げるのに必死で、何も考えていなかった。
けれど今、牧野君の言葉ですべてを悟ってしまった。きっとこの子は私と同じで…
「そして、俺は香世子先生に恋をしました。先生に認めてほしくて、先生に振り向いてほしくて…なのに、結婚してしまった。しかも、先生は幸せそうじゃない。いつも泣きそうな顔をしてる」
「牧野君、もう」
「最後まで話させてください。
俺は香世子先生が好きです。ずっと先生だけを見てきた。
先生が幸せならそれで良かったのに…幸せじゃないなら、話は別です」
私は扉に背中を預けて、牧野君の声を聞いていた。もう何も言えなくなっていた。
映人君を想って、苦しんでいた私がそこにはいた。映人君の言葉に叶わない恋が始まって、時を重ねる毎に想いは膨らんで。
結局私は言えなかったけれど、牧野君と同じだった。だから、彼の告白の意味が痛いほど分かる。
きっと彼は私の姿が見ていられないのだ。
だから、それを変えるきっかけを作ろうとしている。
これ以上同じことを続けるのならば、止めてしまえばいい。
きっとそういうこと。
「好きです。付き合ってください」
反らされることのない告白。
「俺はあと少しで卒業します。もう教師と生徒ではなくなる」
「牧野君、」
「返事は今じゃなくて良いです。考えてみてください」
迫るくせに、肝心なところは逃がしてくれる。
返事を聞かないまま、牧野君は去っていった。
私はただぼんやりと宙を見つめていた。飽和した心では、もう想いを閉じ込めることもできない。
きっかけは、できた。
藤吾のこと、映人君のこと、牧野君の告白。答えは私が出さなければならない。数学みたいに答えが出たら良いのに。答えのない問いに向き合うことから、今は逃げ出したかった。