プロポーズは突然に
愛してほしい。
愛したい。
いつもどこかで願っていた。
でも、それは叶わない。
願ったはずの未来を捨てた私。
違う未来を選んだあの人。
もう未来が重なることはないし、振り返っても戻らない。
私はいつまでも立ち止まったまま。
本当は誰かに引っ張りあげてほしい。
ずっと思ってた。思っていたけど、確かに。
でも、これは無いでしょう?
私と、私の旦那様との出会いは最低だった。
「結婚してほしい」
「は?」
唖然とした私の目の前には、一人の男性がいる。身長は高く、細身。そのくせ筋肉質。いわゆる細マッチョ。二重の大きな目に、自信に溢れた口許。悔しくなるくらい艶めいた笑顔。多少チャラく見えるこの男性がイケメンなのは認めよう。
だけど、私の好みじゃない。
私は小柄で少し顔立ちの崩れた…つまりB専。イケメンはお呼びじゃない。
さらにいうと、チャラい男も嫌いだ。思わず蹴り倒したくなる。
仕事は…何だったっけ。サラリーマンとは言ってたかな。ああ、そうだ、私でも知ってる化粧品会社の社員だった。確か、卒業した大学も無駄に良かったっけ。
どう見たって優良物件の男だが、なぜそんな男に私はプロポーズされているのだろうか。
そもそも私たち、今日出会ったばかり。しかも出会ってから1時間も経ってない。
大学の同期たちと、仲間の誰かが所有するログハウスに来て、バーベキューの準備をしていたら、買い出しに寄っていた数人が戻ってきて、その中にこの人がいた。友達に紹介されて、なぜか突然二人で飲み物を買ってこいと言われ、訳がわからないうちに私はこの男に手を引かれて歩き出していた。
道中は無言だった。なぜ車で行かない、とかいつまで手を引っ張るのか、とか聞きたいことはある。けれど初対面だし、見た目に反して仏頂面の男に話しかける勇気はなく、私はただ黙っていた。
しばらくして、彼は振り返った。なんというか…物凄く真剣な表情で、いや鬼気迫る形相で。思わず後ずさってしまった私は悪くないと思う。
そして冒頭に戻る。
何もない田んぼのど真ん中、それも強風吹き荒れる所でプロポーズする辺りが寒すぎるし軽すぎる。重みが感じられない。というか本当に寒い。
どうしてこんなことになったのか、皆目見当がつかないが、とりあえず理由は聞いてみようと思う。…寒すぎて、口を動かすと痛いよ…。
「あの、」
「俺さ、そろそろ身を固めようと思って」
「は?」
私の声を遮ったコイツは、自分本意なことを宣う。思わず喧嘩腰の言葉が出てしまったことは許してほしい。
「親もうるさいし、やっぱ仕事って信用第一じゃん?結婚してる方がウケもいいし、話題も増えるし」
「…で?何で私。他にもいるでしょ、相手は」
少なくとも初対面でプロポーズされるほどの何かを私が持っているとは思えない。
「お前美人だし、自慢できるからちょうど良いかなって。それに紗智から聞いたけど、お前って30なんでしょ?行き遅れで誰ももらってくれないだろ」
よくもまぁ、初対面の相手に、しかも会話すらしたことない相手にこれだけ好き勝手なことが言えたものだ。もはや溜め息しか出てこない。
確かに私は30のオバサン。でもこの男は29。たかだか1歳で何が変わるのか。…まぁ、20代か30代じゃ響きは違うのは認めよう。
とはいえ、私は大学も出て公務員で、それなりに真面目に生きてきた。ステータスだけならどこに行っても恥ずかしくない。もっと言うならば、おひとりさまだったとしても十分生きていけるのだ。結婚にこだわらなければ、別に独身でも大丈夫なんだけど。
それは理解しているのかと、私はちらっと彼に視線を向ける。恐らく、私の気持ちなんかこれっぽっちだって理解してないに違いない、相変わらず表情は固く、私を睨み付けている。仮にもプロポーズをした相手に、そんな親の仇みたいに睨むってどうなんだろう。
全く理解できない。
この人は、何がしたいの?
私の困惑を汲み取ることもせず、形のよい唇はまた動く。
「で、結婚する?」
どこまでも上から目線の男にうんざりしながらも、私は考えを巡らせた。
最初にプロポーズしてくれた人と結婚する。
私が決めていたこと。…心の中に別の男を住まわせたままなんだから、どうせ誰と結婚したって同じ。相手を愛せやしないから。
なら、運命に任せたい。
もしかしたら、何かが変わるかもしれない。
…とは思っていた。いや、その気持ちは変わらない。けれど本当に大丈夫?
この際、好みじゃないとか初対面とかどうでもいい。
でも神様。こんな怖い顔で睨む口の悪い人が私の運命の相手だとしたら酷くないですか?
「来週、お見合いさせられる。でも親の選んだ人と結婚したくはない。結婚する人は自分で決めたいんだ」
天を仰いだ私を見て何を思ったのかこの男はつらつらと身の上を語り始める。正直、私の知ったことではない。
「相手がいないなら、俺と結婚してくれ。頼む」
「はぁ…」
「自分で言っちゃ何だが、仮に俺が夫になったら他人に自慢はできる。生活に不自由はさせない。貯金もあるし、金はいくら使ってもいい」
「別にお金は自分で稼ぐからいいですけど」
「…」
沈黙。
私は俯いた彼に言い募る。
「愛のない結婚で、いいの。私は構わないけど」
はたして、初対面の女に愛を感じるのかは分からないが。
「……るから、…」
声が風に掻き消える。
「何?」
「いや、とにかく返事は」
切羽詰まった声。
すがりつくような目。への字に結ばれた唇。それが今にも泣き出しそうに見えて。まるで道に迷った子供みたい。
自然と私は頷いていた。
誰でも良いなら、彼でも良いでしょう?
誰ともなく口の中で呟く。
その瞬間、彼の顔が崩れた。
私を睨んだ目が、しかめ面が、綺麗な笑顔に変わる。
あまりに鮮やかな笑顔に、私は息を飲んだ。心臓がぎゅっと収縮する。
目が、離せない―――…
永遠にも思えたそれは一瞬で、すぐに仏頂面に戻ってしまった。
「じゃ、親の承諾取れたら婚姻届出すか。両家への挨拶は今週末でもいい?家は…俺のマンションで良いだろ。新たに部屋探すの面倒だし」
「はぁ、まぁ」
勢いよく話し始めた彼に、私は引いてしまった。それにも気づかずに彼は流れるように言葉を紡いでいく。
「会社にも言わないと。なんて言おうかな。戸籍謄本を取り寄せて、あとは引っ越し業者にも頼まないといけないし、冷蔵庫は大きい物を新しく買おうか。あぁそうだ、結婚式は…」
結婚式!?とんでもない!
私は無理矢理彼の声を遮った。
「式は挙げたくない。忙しいし、休みたくないの。新婚旅行もなしにしたい」
こんな結婚、周りに何と言って説明するのだろう。白々しい誓いの言葉はいらないし、新婚旅行で二人きりだなんて無理。見知らぬ人と旅行するようなものだ。神経がすり減る。ただでさえ今は忙しいっていうのに。
「ところで、結婚詐欺とかいうオチはないよね?私、お金ないから。無駄だよ」
「そんなことする意味がない。それは信用して」
まぁ確かにそうか。
「とりあえず、よろしく。香世子さん」
運命の神様は、サプライズが大好きらしい。
愛情もない、友情もない、よく分からない理由だけで結ばれた、奇妙な関係が始まったのだった。
この二週間、本当に忙しかった。互いの親に報告をしたが、あまりの早さに絶句された。けれど、お互いに上っ面は良いから、お互いに好印象だったようで、手放しで喜ばれた。
藤吾、結城藤吾は友人たちの評価も高かった。…なんだか、釈然としない。イケメンは正義なのか。というより、私には笑いかけることすらしないのに他の人にはどうして朗らかに笑うのだ。
こんな時、私はあの人を思い出す。
あの人は優しくて、いつも笑っていた。
守野映人。学生時代からずっと好きな人。明るいタイプではないけれど、人を惹き付ける力がある。優しいとは違うけど、非情にはなれなくてお人好し。人の感情に敏感で、困っている人を見ると、手を差し出さずにはいられない。頭は良いはずなのに、どこかぼんやりしてて。かと思えば誰より男らしかったり。
とにかく私は映人君のことを見つめてきた。彼に彼女ができる度にたくさん泣いて、それでも嫌いになれなくて。友達、なんて曖昧なポジションに安堵してた。
でも、それも終わり。
私は結婚する。
浅田香世子、から…結城香世子になる。
もう戻れない。もう、映人君のことを見つめること、できなくなった。もう、好きとは言えない。
それをどこかで安堵した私を、私は見ないフリした。
思ったより優しかったけど、心が伴わない初夜。隣で眠る夫を眺め、先の見えない闇に迷い込んだ気がした。
…自分で選んだことなのに。
思わず逃げたくなって、頭の上の携帯に手を伸ばした。
アドレス帳の守野映人の文字を見ると、胸がバラバラになっていく。結局、私は彼に結婚の報告ができなかった。未練、恐怖…さまざまな感情が入り交じる。
「会いたいよ…」
思わず零れた言葉に、絶望する。
会えない、のに。
私は映人君のアドレスを消去した。そうでもしなければ、すぐに電話をしてしまいそうで。泣き出してしまいそうで。
消えてしまったデータ。
やっぱり、最後に声が聞きたかった。考えたら涙が溢れてしまった。
今日はきっと、私は眠れない。
私の一日は、朝4時30分から始まる。だるい体を引き摺って、洗濯機を回し、家中のカーテンを開け、着替えて顔を洗う。その後、軽く化粧をして、お弁当を作り、余ったおかずをつまんで朝ごはんにする。洗濯を干し、掃除機をかけ始めた所で、藤吾がやっと起きてくる。大抵は7時は過ぎている。寝ぼけている藤吾に服を渡し、ご飯を食べさせ、顔を洗って髪を整えている姿を横目に、戸締まりをして出勤準備をする。7時40分に藤吾を追い出し、自分も職場へ向かう。
職場は家から30分の所にある。実は藤吾のマンションが、私の住んでいたマンションと目と鼻の先で、結婚後も行動範囲はあまり変わっていない。
30分くらい車を走らせると職場が見えた。名桜南高校、それが私の職場だ。名桜南は生徒の学力も普通だし、特に特色もない、至って平凡な高校である。私は数学の教員であり、理系クラスの担任をしている。若い教員の多い学校で、私は30歳にして既に若手の括りから外れていたりする。…どうせ、オバサンですよ。心の中で呟くのも日常だ。悔しいけど。
やんちゃな…割と幼い生徒たちをあしらい、夜20時。やっと帰宅だ。
帰っても家に電気は点いていない。基本的に藤吾の帰宅時間は遅い。本人は仕事だと言うが、独身時代のように飲み歩き、浮気をしているのだろうから仕方ない。
藤吾の服からはいつも甘い匂いがする。この前はグレーの背広の肘に口紅で象られた唇の跡があった。本人は気づかないけど、周りが見れば分かる位置。あからさまなそれは、どう見たって藤吾の妻である私に対する愛人の挑戦状だろう。
アイツが何してようがどうでも良いから、咎めるはずもない。でも、納得いかない。そんな相手がいるならその人と結婚したら良かったじゃないの。
電気を点け、スーツから部屋着に着替え、夕食を作り始める。とは言っても、藤吾の分だけ。私は夕食はご飯と味噌汁で終了するから、作り終わったら洗濯物を片付けてお風呂に入り、自分の部屋で持ち帰ってきた仕事をする。そして、藤吾の帰宅を待って眠る。
…端から見れば献身的な妻だが、残念ながら愛情はないので家政婦だ。藤吾が私を妻だと思っているのかも怪しい。自分の面倒を見るロボットかダッチワイフとでも思っているのではなかろうか。そもそも、藤吾はあまり私に触れてこないが。愛人がいるから、その辺は私でなくても良いということかもしれない。
そんな生活はかれこれ半年続いている。
でも、お互いに別れを切り出さない。
理由は…うん。きっとそのきっかけが掴めないから。それだけだと思う。