エピソード1
にぎにぎ。
にぎにぎにぎにぎ。
紅葉のごときおててである。
ふくふくしく、将来ピアニストとかフルート奏者になれそうな白くすべらかで有望そうなおててである。
てめぇで言うのもなんだが、拙くもグーとパーを繰り返すこれがまたなんともかわゆい。
そしてやることもない。
「・・・・あーうー・・・・」
暇だなぁ。
僕はころんとシーツを転がる。
赤ん坊というのはともかく食って寝て糞して泣くくらいしか仕事がない。
本読んだり、出掛けたり、音楽を聴いたりとそこそこ趣味くらいはあった前世の記憶があるだけに手持ち無沙汰。要するに暇である。
と、そこでドアが開いた。
「キース様、お食事の時間でございます」
苔を思わせる濃い緑の髪をぴっちりと撫で付けた老紳士がお盆を手にやって来た。
相変わらず爺と呼びたくなる隙のなさだ。年のわりに背筋もピシッとしてるし、黒い執事服に甘い目鼻立ちとの三段突き。若い頃にはさぞや女を泣かしたクチだろうと僕は睨んでいる。
身を起こしてぼへーっと見つめていたら、その後ろに銀のカートを引いた妙齢のメイドさんが現れた。目があった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
睨まれました。
おいおい、僕は女性には誠実よ。
というかまだかわゆい盛りの三ヶ月乳児でしゅよ。ほら、この愛くるしい紅葉のおててをにぎにぎする様をご覧。
「アンヌ、ここはいいから君はもう戻りなさい」
「畏まりました。マルコさん」
とっとと準備を済ませるや、メイドことアンヌさんは濃紺のお仕着せを翻しドアを閉じてしまった。
惜しいな。
メイド服は正統派ロング。きつめの顔立ちの仕事のできる美人と、超好みなのに。「あー」とか「うー」とか母音しか喋れない我が身が憎い。
がっくりと肩を落としていると僕の落胆を悟ったのか、執事さんことマルコさんが苦笑を浮かべた。
「さあキース様、こんな爺で申し訳ありませんがまずはおしめを換えましょう」
「・・・・うー」
がしっと捕獲され、抵抗の間もなく剥かれる僕。
「おやおや、今日もたくさん出ましたね」
「・・・・・・」
「さ、キレイキレイしましょう。――――【洗浄】」
マルコさんがさっと指揮者のように僕のおしりに向かい指を振ると、ふわりと大気の色が青色に変わった。魔法だ。
人肌に温められた湯がおしりを清めてゆく。
「ふぅ」
「はい。お疲れさまでございました。お食事もすぐご用意しますので少々お待ちくださいませ」
気持ちいい。
やはりできる男は違うね。熱すぎず冷たすぎず、水圧まで計算され尽くされたおしり洗浄だ。仄かにミントのような匂いまでする。完璧ではないか。
ご機嫌な僕の様子にマルコさんも微笑んで、食事の支度を始める。
ここが地球じゃないことに気づいたの生後一ヶ月頃。
違和感は多分あったのだと思う。
既視感、未視感とでもいうのだろうか。思考と現実の齟齬と、その肝心の「何か」を思い出せないことに対する不安で、当時の僕はかなり精神的にも不安定だった。
で、夜泣きに泣いた。
世のお母さんはこの時期一日でいいからゆっくり寝たいと切実に願うのだそうが、知ったこっちゃない。
とにかくこのままではいけない。重大な損失の予感に泣きまくった。
そんなある日、泣き止まない僕に何を思ったのかマルコさんが魔法を見せてあやしだした。
「ほーらキース様、爺の鼻をご覧ください」
鼻の穴からシャボン玉調に水球を出し、ぽわわわわ~んでお馴染み、某水族館のシロイルカのように輪っかを作って見せたのだ。
「【超鼻ぶく提灯】」
びっくりして涙が止まった。
いや待てなに名付けてんの? そういう芸なの?
で、びっくりついでに前世の記憶も思い出した。
はい。多分世に言う転生というやつである。
なんかネットでそういう小説いっぱいあったよ、前世。鼻ぶく提灯で思い出すやつはなかったと思うけど。
必要がながなくなれば忘れていくのが記憶だ、とこれは暗記科目の苦手だった前世の僕の持論だ。
事故に遭ったんだが老衰だったんだかは定かではないが、明け方の夢の断片のように細切れの知識や記憶がなにかの拍子にぽろっと出てくる。
あ、なんか昔こういうのあったなぁとか、そんなくらい。でも、今は不安感は感じない。思い出せないが、「消えてはいない」と感じられるようになったからだ。
落ち着いてきた今では、薄れかけようとしていた「僕」に対する危機感だったのかなと思っている。
ひとまず、理由が知れればあの正体不明の焦燥感も薄れた。
これ以上低血圧の爺に夜泣きなんてご迷惑はかけられません。
その日からマルコさんは目の下の隈がちょっと減った。
さてさて。
喉につかえたような違和感も、前世を思い出せば今度は色々と両者の差異が気になってくる。
人間だもの。
暇なんだもの。
出歩けない赤ん坊なんで分からん部分も多いが、今世は何とくヨーロピアンな雰囲気がする。
部屋に現れるマルコさんの顔立ちも日本男子らしからぬ彫りの深さだし、かくいう僕のおてての白さもアングロ系の色彩だ。髪色や目の色はかなり地球とは違うが、まぁ異世界的考察がむしろそのくらいで済んで良かった。
しいて言うならここ数ヶ月、というか記憶にあるかぎり、どれだけ夜泣きをしても首が据わっても自分で寝返りを打てるようになっても、母親とおぼしき人をみていないのがいささか気になるが・・・・こちらも文化的違いによるものだと思うようにしている。
ほら、愛情の有無じゃなくてさ、貴族とかって自分で育てずに乳母とかに任せるのが慣習だったりするじゃん。もしかしたら病弱で泣く泣く我が子を侍女に預けたのかもしんないじゃん。
愛は信じ合うことから始まるって、駅前で怪しいパンフレット配って演説してたおばさんも言ってたし。
・・・・まあ、結局僕のとこは爺だったけど。
爺手ずから温めたヤギか牛とおぼしきお乳だったけど。
爺の愛たっぷりだったからいいけど。
「さ、キース様、あーん」
「あー・・・・はむ」
「ふふふ、大きなお口ですねぇ。はい、あーん」
「あーん」
それにしても離乳食っていつまで続くんかなぁ。味薄いし、いい加減固形物が食べたくなってきた。焼き鳥食べたい。パリパリの鶏皮が食べたい。
・・・・いや、今のところ焼き鳥より一人でトイレに行けるようになる方が優先度は高いな。いつまでもマルコさんにおしりを晒すのはちょっと。
記憶を取り戻しちゃった以上、キース君にも羞恥とか男の矜持というものがあるのだ。
・・・・取り敢えず暇にかまけて魔法でも挑戦してみようかな。
自分でビデ出来るならそれに越したことはないしね。