クララは見た。1
それは、猫たちの噂がきっかけでした。
「『竜の目』?」
「はい。近頃城の猫の間で流行りの度胸試しのようなものだそうです」
空のような瞳を瞬かせ、マリー様は手元の刺繍から顔を上げられました。
この国の王女であられるマリー様。
私はマリー様が大好きです。
忘れもしない私とマリー様の出会いは、初めて父について登城し始めたら頃の事です。
綺麗に髪を梳いて貰い、ふわふわのレースのドレスを纏っての初めてのお城。きっと浮かれていたのでしょう。
昔から何をやってもどん臭い私はその日、出会い頭の少年にいきなり髪を引っ張っられるという事態に直面し。逃げ出そうとしてスッ転んだ挙げ句、大泣きしていました。
苛めっ子というのは得てして残酷な生き物でこざいます。
一体私が何をしたって言うのでしょう。どん臭い私になんの面白さを見出だしたのでしょう。
以来その少年は私を標的に定めたらしく会うたび、いや会わないように避けていてもどこからともなく湧いて出るその少年に、私の王宮デビューは泣いても泣いても虫やらカエルやらを手に追いかけ回される日々と相成りました。
無論私も、両親に訴えました。
王宮にいかに酷い苛めっ子がのさばっているのかを。食物カーストの最底辺に位置する私がどれ程無力なのかを。
しかしその意地悪な子供というのが何と我が国の第三王子殿下だったらしく、父は笑って茶化すばかりで娘を助けようともしてくれませんでした。母に至っては私に走って逃げ出さぬようにときつく言い含めます。
・・・・絶望しました。
私は一生泣き寝入りをするしかないのかと思いました。
しかし、神は私を見捨てはしなかったのです。
『――――あら、どうしたの?』
庭園の生け垣で声を殺して泣きべそをかく私に、手を差し伸べてくれたのがマリー様でした。
「竜か・・・・ふーん、面白そうね」
今では畏れ多くも友人としてお付き合いさせて頂いておりますマリー様は、何事にかけても行動力のあるお方です。
「そうだ! クララ、私たちもその肝試しとやらしてみない?」
「ええええッ!!?」
「だってもし化け物なら意気地無しの男どもに代わって、私たちの手で討ち果たしてやらなきゃ」
「危ないですよ、それにもし本当に竜だったらどうするんですか!?」
「竜なら儲けもの、一緒に背中にのせてもらって空を飛んでみましょ!」
そうと決まれば早速図書館へ行きましょうと、とっとと刺繍道具をまとめ始めてしまいました。
「・・・・猫王様、『竜の目』とはどのような人物なのでしょう。やはり恐ろしい魔人なのでしょうか?」
マリー様をみすみす危険に晒すわけには生きません。膝に転がったぶち猫こと猫の王にそっと耳打ちして訊ねると、王はあくび混じりに『まさかー』と笑いました。
『クララより一つ二つ年上なきれーな男の子だよー』
ぐしぐしと顔を洗い、大きく伸びをした王はぽんと机の上に飛び乗りました。お昼寝の時間なのでしょう。私は慌ててテーブルの上に散乱したマリー様の課題を退けました。
私にとっては女神のようなマリー様ですが、細かい作業があまりお得意ではないらしく白いハンカチには不思議な生物が縫いとられております。
『こりゃドラゴンじゃにゃーね。干からびたカエルだわー』
取り敢えず失礼な口を利く猫王のヒゲは引っ張っておきました。
***
「たのもーう!!」
重い樫の木で出来た図書館の扉をマリー様がげしッと蹴り飛ばして開けました。
図書館は文明の絶えた廃墟のように、膨大な書籍の山を除けばおそろしく閑散として、ひどく静かでした。うっすらと舞い立つ埃が明かり取りの窓から細い光の滝のように流れています。
暖かそうな日溜まりに、彼はいました。
深い影を作る長い睫毛がふわりと持ち上がり、琥珀の瞳と人ではない針のような瞳孔が露になりました。
ふわふわと癖のある青みがかった猫ッ毛に、整った目鼻立ち。神聖さに混在する年相応のあどけなさは、宗教画から抜け出た天使を彷彿とさせます。
一度も日を浴びたことがないかのごとき滑らかな白磁の肌に、噂通りのサファイアのような濃い青を宿した鱗が妖しく煌めき――――
背筋が粟立つのが分かりました。
キメラのようなちぐはぐで、アンバランスな美貌。深淵な湖を思わせる静かな、老成した気配。
――――これは、『人』なのでしょうか?
しかし、震える私を庇うようにマリー様は不敵に微笑み、その少年に向かい足を踏み出しました。
「おい、そこなお前! このマリー・ド・ラフォンが乗りこなしてやる!!」
ひいぃぃいい!!!
お待ちくださいマリー様! 相手はまだ正体も分からない男ですよ! いきなり名乗っては危険です!
「――――悪いけど君の期待には応えられないかな」
結果として。幸いにも害意が無かったらしく、本を踏んでいることを指摘したくらいで少年はマリー様の言葉に肩を竦めた。
マリー様の胆力には私、いつも驚かされてばかりです。しかしお陰で少年から話を聞くことができました。
彼曰く、彼の目と鱗はただの生まれつきに過ぎず、彼自体は竜に変身することも出来ないそうです。
異形の容姿に反し、案外彼は紳士的な態度でした。
物腰は始終穏やかで、少なくともカエルを持って追いかけ回すタイプには見受けられません。
・・・・しかしその数秒後、私はこの少年もまた男であることを再確認します。
「僕だって、一度でいいから竜に会ってみたいって思うよ。残念ながら僕は竜になって君を乗せて飛ぶことは出来ないけど、いつか本当の竜に会えるといいね」
・・・・・・不覚にも固まってしまいました。
先日、お母様たちの間で流行っているという恋愛小説の朗読会に参加したのですが、少年のセリフはまさしくその一場面でした。それも主人公が・・・・・・ああああ私の口からはこれ以上は申せません!!
私同様目を見開いていたマリー様が、次いでぼっ! と水も湯立ちそうな勢いで真っ赤になります。
「破廉恥だわッ!!」
えっ? と驚いたように半開きの口がわざとらしいったらありません。やはり男はどいつもこいつも野蛮でダーティなケダモノなのです。
純情なマリー様は椅子をはね飛ばして勢いよく立ち上がると、ぱっと駆け出していまいました。
ま、マリー様! お待ちください!
常ならば淑女としてドレスを摘まんで挨拶するところなのですが、いかんせん緊急自体。頭だけ下げて慌てて後を追いかけました。
「なによ・・・・なんなのよぉ・・・・・・」
マリー様は少し行った先の廊下の片隅に赤い顔を覆ってうずくまっておられました。
「マリー様・・・・・」
「クララ・・・・どうしよう・・・・あいつ、私の夢を笑わなかった」
勝ち気な眉を情けなく下げ、口をへの字に曲げた姿は私ですら初めて見るものでした。
昔からドラゴンライダーになると公言するマリー様ですが、王家ご実家の反応はただ微笑ましいものを見る生暖かなものに過ぎず、もどかしい思いをされてきたマリー様。困難を打ち砕いて進むタイプの彼女には素直な賛賞が却って堪えたのでしょう。
ですが、そんな赤い顔をされると私もどうしていいか分からなくなります。
――――なまじ、単なる羞恥だけではないと分かってしまったからこそ。
初恋は叶わないと申しますが、生憎とマリー様も私も、彼が実の兄であることを知る前のこと。
クララ・ド・ヴィアイン。
人が恋に落ちる瞬間を初めて見てしまいました。