エピソード8
四谷怪談。
とりわけ東海道四谷怪談は本来の「怪談」としての意味を取るならば、まさしく男のための怪談だと僕は思っている。
イケメンだが心根は非情な、いわゆる「色悪」の伊右衛門。
その悪逆非道っぷりに唸り、共感し始めたところでやってくるお岩の祟り。
筋肉達磨のような追いかけてくる怖さというより、彼女の真髄は常に傍らにいる怖さ、逃れることも倒すことも出来ない相手の、恨みそのものが具現化した恐怖だ。
そしてここにいらっしゃる方々といえば権力の中枢、側室もどっちゃり抱えた炸裂野郎ばかり。
四谷怪談は伊右衛門に共感しやすい男性陣ほど・・・・・嵌る。
ラフォン王国風に名前や各種設定をアレンジしながら、物語は順調に進んでいた。
怪談は下手に効果を入れずあくまで淡々と、しかし聞く者の想像力を煽る語りが一番くる。
まず物語に登場するのは若い二人。
岩は夫である伊右衛門の不行状を理由に実家に連れ戻されていた。伊右衛門は義父に岩との復縁を迫るが、断られ、ついには辻斬りの仕業に見せかけ義父を殺害。
人殺しの大罪を犯しながら悪びれもせぬ悪党伊右衛門のあの名台詞「首になっても動いて見せるわ」。そして仮にも恋女房の父親の顔の皮を剥ぐその徹底ぶりに、パパンたちもいつしか身じろぎもせず聞き入っていた。
「――――『ふん、構わぬ。どうせあれも疎ましくなっていたところだ』」
好き合って結ばれたはずの二人。しかし産後の肥立ちが悪く体調を崩したお岩に、いつしか伊右衛門の心は離れていってしまう。
そこで出てくる若くて可愛い第二の女。
何せ伊右衛門、見てくれだけは良い。しかもそのお嬢さんが金持ちの娘とくる。
離婚を言いださせようとお岩の母の形見の品まで生活難を言い訳に次々質へ放り込み、ついには蚊帳まで金に換えようとする伊右衛門。
当然我が子が蚊に群がられては可哀想だと(なんてったって色んな病気の媒介昆虫だからね)お岩は必死に取り縋る。しかし伊右衛門は引っかかった彼女の爪が割け剥がれるのも構わず蚊帳を毟り取ってしまう。
そしてこの下衆男、ひたすら健気に旦那を待ち続ける妻には顔の崩れる毒を盛り、適当に殺した下男と不義に見せかけ戸板の表裏に打ち付けて川に流すという何それもはや鬼畜なんて言葉じゃ足りん外道の所業だろ! にまで及んでしまう。
――――うーん、堪んないね。
歌舞伎でも夏の人気演目である四谷怪談。
ある役者いわく、そこにはかつての面影を無くし恐ろしい形相に様変わりしたお岩がいると分かっていても、舞台に半身で佇む己に客席の意識が集中し、半拍のち息を呑む。
その瞬間が堪らないのだとか。
今なら超分かる気がする。
大の大人が舌先一つで語りに引き込まれてゆく。これは怪談を語る者のみに許された醍醐味だろう。流石に伊右衛門レベルまではしないだろうが、ここにおわしまするはいずれも身に覚えの在りそうな方々ばかり。
目を泳がせてるのが見え見えだが、さらに追撃の手を加える愉しさよ。
え? 性格悪い?
いやいや見世物扱いされたことを根に持ってるわけじゃないよ。
だってこんなに聞き惚れてくれてるんだもん。ああ僕も頑張らなきゃって思うじゃん。
伊右衛門になり切ってる視聴者がいるならじわじわと囲い込むように追い詰め、希望を根こそぎ奪ってやりたくなるじゃん。
僕は野郎には容赦する理由がない。
その後に起こるお岩の復讐劇は・・・・もう神が下りてきたと言っても過言ではなかった。
***
「――――これで僕の話は以上にございます」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
沈黙が落ちた。
のんびり侍従の持ってきてくれたお茶をすすり、一息。
「ここにいらっしゃる皆様方には些か物足りなかったようですね?」
「・・・・えっ! ま、まあな!」
「子供の話と思っていたがそ、そ、そこそこ面白かったの」
はっはっはっは、と笑いあうおっさんたち。
その心意気は分からんではない。空元気もときに男児の義務である。
だがあくまで見栄を張りたいお年頃な親父どもに、僕はにっこりと微笑んだ。
「それはよろしゅうございました。もしこれでつまらぬようならば、不用意にこの語りを聞いた者たちのおぞましい末路でも、と思ったのですが・・・・」
突然示された追い打ちにひッ、とモアイ像みたいなでかくてゴツい顔のおっさん(確かなんとかって名前の将軍)が息を呑んだ。
「・・・・子供の身ゆえ、もう眠くて」
僕は欠伸を隠すように、俯いて笑いをかみ殺した。
「ここまで頑張った褒美代わりに、図書館の無期限閲覧許可を頂けるのなら御前を辞し、部屋に戻り休ませていただきたく存じます」
「そそそそうか! それは残念だ良かろう許可しようウム子供はもう寝なさい」
あは☆やったね! そしてパパンちょろいーん!
でも取り敢えずこれで当初の目的の閲覧許可はもらえた。
こういうのは引き際が大切。
僕も六歳の学び盛りな脳に刻み付けて学んだのだ。おっさんてわざわざあえて逃げ道用意しといてあげないとすぐムキになるんだもん。ナイスミドル代表の爺でさえそうだったのだ。ましてやパパンをや。
日本の怪談話の真骨頂は後を引く読後感だ。
詰将棋を見るように着実に迫りくる怨霊と救いのないラスト。
深夜ラジオでこの時期になるとよくやってたんだよなー。
派手さはないが、やはり蒸し暑い日本の夏はこうでないとと思わされる。
ドアをずびしと指さすパパンの頬は引き攣って、せわしなく顔を撫でる手の中でぴるぴると髭が震えているのが見えた。
目的達成の幸せのおすそ分けのつもりで、去り際に「納涼もよろしいですが妙なものを連れて帰る羽目にならないよう、ほどほどに」と忠告しておいてあげた。
暖かな気遣いというやつである。アフターケアも忘れない優しさに、これで僕の株もうなぎ上りだろう。
良い事をした後は気分も良い。
今夜は良い夢が見られそうだ。
後日、のんびり人気のない図書館で本を読んでいたら、パパンがお母様の下へ見舞いに行ったという噂が聞こえてきた。
以前は側室が体調を崩したくらいじゃ見向きもしない人だったのに、近頃ちょっとだけ思いやりのあるおじさんになったと休憩の合間かサボタージュか、可愛らしいメイドさんたちが廊下で囀っていたことをここに記しておく。
小泉八雲の怪談(特に「耳なし芳一」)は名作だと思う。
でも作者は伊右衛門様の下衆っぷりが大好きなので。