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シグナルの向こうに[心の鍵続編]  作者: 那結多こゆり
序章0…一恵・再出発
2/15

          ★ ★ ★


 西灘一色町は、昔からの工場地帯でいろんな工場があちらこちらに建設されている。と同時に、工場で働く人たちのために作られた高層マンションが連なっていた。

 広大な敷地を有し、その敷地内に建てられた工場こそ、高藤家所有の『高藤西灘工場』。

 そう、ここは高藤家の本拠地。

 この工場では、電気を伝導させるためのでんせんを作っている。西灘一色を始め、各町や灘諸国の住宅や車などに、作られた電線が使われており、国内外に存在する各電線工場のトップに君臨している。

 電線の他に、電化製品なども多種扱っているのが特徴で、最近のヒット作は『家庭用掃除機』。灘国の裕福層にも、一般家庭にも、掃除機というものがなかった。掃除は箒とごみ箱を使い行うのが一般的だったので、機械で自動的にごみを吸い処理をしてくれる家庭用掃除機は夢の機械だった。価格は高額だが、これを灘諸国へ輸出したところ、裕福層が飛びついたのをきっかけに、国内でも売上を伸ばしている。


 高藤電線……入社。


 入社式の式典が行われたあと、わたしは父と一緒に会社内に足を踏み入れた。

 高校のとき、信じていた友達が先立ってわたしを無視し、当然のようにほとんどのクラスメートがそれに賛同した。

 もう友達なんて信じたくもない。

 いつの間にか、わたしは大勢の中に身をおくことがつらくなっていた。

 陰口を言われているんじゃないかしら、という不安がつきまとってくる。最終的には、吐き気が出てきて、目の前が真っ白になりその場で倒れてしまう。

 だから。

 会社の式典には出席できなかった。

 直さなければ、と思う自分。

 べつに直さなくてもかまわない、という自分。

 この二つの考えが心の中でぶつかっているけど、結局どっちも捨てがたくって考えるのを途中でやめてしまうわたし。


「どうしたんだ?」


 父との距離が離れてしまったためか、心配してわたしが到着するのを待っていてくれたみたいだ。


「ごめんなさい」

「いや。じゃここの建物に入るぞ」

「うん」


 父は背の高い木造の建物の中に入っていく。わたしも迷子にならないように、そのあとに続いた。

 天井が高くて、すこし薄暗い建物だった。倉庫のような空間に、大きな機械がたくさん設置されていた。


「お父さん、あれなあに?」


 両側が木で作られた車のタイヤのような丸い輪がついていて、真ん中に太い線のようなものがまきつけられている大きな物体がところどころに置かれていた。


「あれは、ドラムというもんだ。真ん中にある線は電線。ここの建物ではいろんな電線をつくっていてな、住宅用や自動車用……いろいろやっているんだよ。電線によって、巻きつけられているドラムの大きさが違ってくるんだ。大きなドラムになると、何トンって重さになるから、フォークリフトというものを使ってドラムを移動したりする」

「ふ~ん」

「工場長が説明してくれるだろうけど、ここの工場が担っているのは、電線の受注や生産、運送まですべて行っている。女性は主に雑務整理みたいだけどな」


 シーンと静まり返っている工場の中で、父の声だけが聞こえた。


「よく知ってるね」

「おれも昔、ここで働いていたからな」

「そうなの?」

「まあな。ちなみに、ここの建物のことは、工場ではなく、工程って言うんだ。ここの中にはな、いろんな生産ラインがある。たとえば、いちばん最初の導体課。そして、導体を撚る撚り線課とかな。電線を作るための各過程にまとめられているんだ。だから、その工程があるってことで、ここのことをそう呼んでいる」

「そうなんだ。でも静かね」

「今日は機械の点検の日なんだろ。機械によってもちがうけど、かなりの高額なんだよ。一台、一千万灘以上もするしな。そうそう買い換えられないから、日をきめて点検しているんだ。そういうときには、工程は静かなもんさ。いつもなら、機械の音で会話なんて聞こえやしないぞ」


 しばらくの間、父はここで働いていたときのことを話してくれた。

 どうでもよかったけれど、なぜだかおもしろくて、父につられて笑った。


「だからな、一恵も雨の日に工程内に入ったら十分注意して歩けな。でないと、床で足がすべって転んでしまうから」

「うん。わかった」


 工程内をまっすぐ歩き、しばらくすると、トラックが悠々入られるような広い門のようなところまで来た。

 目の前は、工程が続いているのではなく、外に出られる門だった。


「ここから工場長室にいくんだ」


 軽めの坂を降り、真っ白なコンクリートの建物がそこにあった。

 耐震対策なのか、高層ビルではなく、三階建てのかわいいビルみたい。


「一恵、こっちだ」


 父はいつもここに足を運んでいるのか、慣れたように工場長室というプレートが掲げてある場所までわたしを案内する。

 その部屋は、一階の奥にあった。


 コンコン


 板チョコのようなドアをノックする。


みつぐ、入るぞ?」


 相手の確認もせず、父はそのままノブを回し、部屋へと入った。


「一恵、早く入りなさい」

「う、うん」


 ゆっくりとドアを閉めてから、父のそばに立った。

 ものめずらしさで、わたしはキョロキョロと周りを見回した。

 真新しい長細い部屋。

 父の書斎に置いてあるものと似た、漆黒の机と皮製の座り心地がいい椅子が、ここにもあった。

 工場長用の机に椅子かしら。

 その近くには、来客用と思われる長方形のガラス製のテーブルにふわふわのソファがあった。


「なんだ、まだ来てないのか」


 父は独り言のようにつぶやき、ソファに座った。


「一恵、お前もここに座ってなさい」

「え? う、うん」


 右足を左の腿に乗せ、父は自分の部屋のようにくつろいでいる。


 これっていいのかな?

 いくらお父さんの友達の部屋といっても、限度があるような気もするんだけれど。

 あ、でも。ここは、仮にも工場内。仕事する場所なんだから、さ。

 わたしが気にしても仕方ない。


 しばらくして、入口の近くにある左側の奥まった部屋のドアが開き、一人の男性が入ってくる。

 あいつと同じくらいの背の高さの男性だった。

 凛々しさを感じさせる輪郭の整った顔。

 少し日焼けした肌。すんなりと伸びた手足に、包み込まれそうな大きな胸。

 そして、あいつと同じ一重の鋭い


 --え?!


 心臓が高鳴っていくのがわかった。

 でも。


「勇」

「お、貢?!」


 人懐っこい笑みを浮かべ、彼は父が腰を下ろした目の前に座った。

 父の一言で、わたしはホッと胸をなでおろす。

 ……よかった、あいつじゃない。

 当たり前よね。この人は、お父さんの親友なのだから。

 

「おいおい。いたなら返事しろよ」

「わりぃ。ついうとうとなってさ……寝てしまったよ」

「しょうがねぇな。……貢、この子が、一恵。よろしく頼むな」

「そうか。いやー、なんていうか……最高じゃねぇ? 一恵ちゃん、よろしくな」


 か、一恵ちゃん?

 最高……って?

 ま、まってよっ。

 なんで、初対面のそれもこれからお世話になるという方に、いきなりちゃん付けでよばれるわけ?


 なんて頭がパニックしだしてきて、挨拶を交わせずにいた。


「貢! お前な、そのノリやめろ。工場長になったんだから」

「いいじゃねぇか」


 父が呆れた口調で言うが、工場長はおかまいなしでそれを払いのけた。


「ったく。……一恵、こんなやつだが、いちおう頼りになる男だ。こいつがおれの親友の高藤貢。ここの工場長だ」


 え? たかふじ……?!

 

 その名前に、わたしは震えてしまった。


「一恵?」

「あ、あの……高藤って……」

「心配しなくてもいい。本家の高藤だよ」


 父の言葉に、わたしは安堵した。

 あいつは、中級分家の高藤。本家とはちがう。

 わたしはそっと、胸をなでおろした。


「す、すみません。え、えっと……。は、初めまして」


 ぺこり、と頭を下げると、工場長はゆるやかな表情をした。

 違うと言われはしたけれど、父の親友は、思い出したくもない男に似ていると思った。


「こちらこそ、初めまして。一恵ちゃん」


 ちゃん付けは遠慮してほしいんだけど。

 これって、この会社ではそれほど驚くこともないのかな?


「……貢。一恵のことをそんな風に呼ぶのは、いくらなんでもまずくないか?」


 わたしがいいたかったこと、お父さんが言ってくれた。

 よかった、そう胸をなでおろす。

 だけど。


「ここは和気藹々の職場。仕事をこなしていれば、ある程度はかまわない。ってことで、べつにおれが一恵ちゃんのことどう呼ぼうといいじゃねぇか」

「だからな、貢。お前は高藤の本家なわけだろ。一恵は岩本の中級分家の娘として入るんだから。そのへん気をつけろっていいたいんだよ、おれは」


 工場長はしばらく考えたあと、にっこりと笑って的外れの質問をする。


「一恵ちゃん、こう呼ばれるの嫌い?」

「は?」

「貢!」

「いいじゃねぇか。な、一恵ちゃん?」

「は、はい」

「本人が承諾したんだ。いいだろ、勇」


 性格や仕草が似ていると思った。

 好奇心旺盛で、女の子にやさしくて、ちょっぴり子供っぽい彼に。


「お前なぁ。いまの状態で一恵が承知したとも思えないぞ」

「こまかいこと気にすんな」


 しばらく押し問答したあと、工場長に呆れながらも、父はしかたないという表情をして折れた。


「……ったく。それじゃ、あとは頼むな。貢、くれぐれも一恵に追い討ちをかけるようなことはしてくれるなよ」


 あとは頼むな、と言ったあと、父の言葉はフィールドアウトした。

 なにを話していたのだろう、と思う自分と、そんなのどうでもいい、と思う自分がいる。

 もうどうだっていいわ、最終的にはそう思っていた。


「一恵、おれは帰るから。あとは貢に従ってくれ」

「う、うん。ありがとう」


 大丈夫だから、と肩を叩き、父は部屋から出ていった。


「かわいいね、一恵ちゃん」


 父が去ったあと、工場長はわたしの顔をじーっと見て離さなかった。


「は? あ、あの?」


 かわいいね。

 美人だね。

 高一のときのわたしがよく言われていたセリフ。

 まさか、父の親友に言われるなんて思ってもみなかった。

 工場長はわたしをからかっているのかな。


「……おれの好きな女に似ているからね。最高だよ」

「こ、工場長……?」


 工場長も『おれ』とか言ってるし。これでいいのか、本家の殿王子たち! と、つっこめるならツッコミたい。

 それにしても、好きな人に似ているって、どういうこと?

 工場長の初恋の人なのかな。ってゆーか、最高だといわれてもな。どういう顔すればいいのかわからなくなる。


「ごめんごめん。それよりも、本題」

「あ、は、はい」


 工場長はわたしの配属先になるという、事務課の説明を詳しくしてくれた。

 ここでは、他の課から依頼された伝票を入力用の電子機器を使って作成したり、備品の管理や補充発注などの仕事をするという。いろんな課から一度にたくさん依頼がくるため、現在の人数だと足りないからという理由で、わたしが入ることになったみたいだ。


「一恵ちゃんをいれて総勢十二人かな」


 一通り説明を受けたあと、工場長は言い忘れていたと、一枚の紙を差し出した。


 見てみると、『事務課 岩本一恵(C)』の表示。

 これ、どういう意味?


「これは?」

「簡単に言えば、ランク表かな。自分の名前のところに括弧してCとあるだろ」

「はい」

「うちの会社は、自分のランクに寄って待遇が分かれてしまうんだ」


 そういわれ、渡された紙を見ると、灘国の階級が順番に表示され、右側になにならランクが印刷されているのがわかった。


 本家--SSSランク

 筆頭分家--SSランク

 次頭じとう分家--Sランク

 中級分家--Cランク


 特級階級--Aランク

 上級平民--Bランク

 平民--Dランク


 ふーん。会社でもそんなシステムがあるんだ。

 すこし目で追っていたら、あれ、と思うことが出てきた。


「あの、なんで中級分家が特級階級や上級平民よりランクが低いんですか?」

「ああ、これね。なんていうか、この会社独自の定義に沿っていてね」

「はあ」

「本家はランク不動なんだけど、筆頭分家から平民まではランクが変動になるんだ。毎年、春になると、その年度の功績が発表されてね、ここで上位になるとAランクになれるんだ」


 なるほど、と思っていると。

 筆頭や次頭分家は、かなりプライド高いから、ランクが変わったことないんだ、と工場長は苦笑する。


「中級分家は……」

「分家の中では、一番がんばっているんだ。でも」


 最終的に、筆頭や次頭分家の連中に蹴り落とされる、と言葉を落とした。


「え?」

「本家のおれでもこれだけは、防げないんだ。あいつらは特級階級や上級平民を駒に据えて、仕組むんだ。それも巧妙な手を使い、功績を上げていた中級分家たちを陥れる。それも毎年だ。筆頭や次頭分家の連中は、中級分家を分家と思ってない。元使用人の分際でって見下げている。だから、彼らは中級も特級階級や上級平民と同様に、自分たちを成り上がらせるためのただの駒にしか思っていないんだよ、頭痛いことにね」

「そうですか」


 気にしてもしかたないよね。

 うん、次いこう。次。 


「あ、そうだ。Aランクになると、いいことでもあるんですか?」

「主に、給料かな。その次が、食事。あとは、雑務などを扱ってくれる専用の部下をもらえる」

「部下というより、使用人みたいですね」

「うん、まあ、そうなんだけどね。その部下となる人は、C~Dランクの人がなるんだよ」

「は?」

「へんなシステムで悪いんだけどね、だいたい、新人社員から割り振られてさ。ごめんね、一恵ちゃん」

「ということは、わたしがだれかの部下に任命されたってことですか?」

「うん、簡単にいえばそう」

「……そうですか」


 工場長は補足するね、と説明してくれた。

 会社の中の組織、つまり、自分の配属する課は、階級に関係なくいろんな位の人がいる、ということ。

 毎年、春に各階級別に功績を調べ、その成績を元にランクが決定されるみたいで、今年は中級分家がCランク指定されたそう。

 わたしの配属先の事務課は、次頭分家が一人、特級階級が一人、上級平民が一人、平民が八人だそうだ。中級分家はわたしひとりだけ。

 そして、食堂は三部屋あり、ランクにより入れる食堂が異なる。SSS、SS、S、Aランクが松の間という食堂。B、Cランクが竹の間。そして、Dランクが梅の間。特に、Aランクは特別待遇で、ふだんはあまり関われない本家の者と一緒の部屋で食事をとれるので、各階級、功績をあげようと必死になるそうだ。


 今回、わたしが部下として雑用をしなくてはいけない人は、同じ事務課でもう一人の女性だと言われた。

 彼女の家、というか、彼女の父親は、高ノ居家の次頭分家にあたり、各町の名産品を卸す大きな会社の重役さんらしい。


「高ノたかのい、えなさんという子なんだけどね、気兼ねしない子だから大丈夫だよ。高ノ居家の次頭分家になるけど、それを感じさせないくらい、気さくな子だから安心して」


 次頭分家の位だから、『様付け』わすれないようにね、と念を押された。そして、最後に彼女の出身校が同じところだと聞かされ、不安になったけれど、学年が一つ違うことがわかりホッとした。

 そのあと、月末に実施される、新人研修についての話題に話をかえた。


「一恵ちゃんは参加しなくても問題ないからね」


 会社全体で行う新人研修では、他の会社のトップも出てくるとかで、わたしが行った場合問題があるという。


「どうしてですか?」

「君の家のことをみんなに知られるのはいやなんだろ」

「え?」

「ここでは、岩本の分家の血筋として入社したことになっている。だけど、もし研修に出席した場合、四家以外にも各企業のトップがくる。いくら岩本の親父が君を中級分家だと発表していても、一部のトップクラスの人間には『一恵ちゃんは本家』だという情報を知らされているだろう。その中で君のことを知っている人物にあってごらん。対応がまるっきりちがうぞ」


 祖父の家に遊びにいくと、たまに有名な工場の社長がきていたりする。

 中級分家だと発表されているわたしを見て、驚く人も多い。なぜ、身分の低い分家の娘が、岩本本家の当主のところに平然と来ているのだろう、と。そして、当然のことのように、わたしを孫だと祖父が紹介すると、更に驚愕される。

 中級分家だと発表しているのにもかかわらず、祖父はたまにわたしを自分の部屋に呼び寄せることが多かった。と同時に、会社を経営しているトップの人たちが祖父の元に訪れているときに限り、わたしを呼ぶ。そこで、祖父は『訳があって、実の孫を中級分家だと発表している』と説明する。その後、まるで猫をかぶったようにわたしに取り繕うとする社長たちを何度もみた。うんざりするほどに。


 ……工場長はこのことをいいたいのかな。


「わかりました」

「それでな、一恵ちゃん」

「はい」

「親として君に詫びておかなければならないと思ってな」


 いきなり意味不明なことを言われたため、きっとわたしはあからさまにいやな顔をしてしまったかもしれない。


「司が失礼なことしてしまってごめんな。あっ、一恵ちゃんと同様、理由があって中級分家の位になっているけど、高藤司はおれの息子なんだ」


 !!

 つ、司が……?

 こ、工場長の……。

 む、息……子……?


「……ごめん。おれが追い討ちかけてしまったみたいだ」

「う……そ」


 がたがたと震えた。

 工場長はそんなわたしを見て慌てた。


「あ、あのさっ……こ、こんど茶でも……ってなに言ってんだ、おれは。ご、ごめん!」


 体が揺れてどうしようもなかった。

 司……。


 その日、なにもせずに帰った。

 父が迎えに来て、工場長にさんざん文句言って、わたしを家まで連れて帰った。

 もういきたくもなかった。

 だって、あの工場には司もそして、高校時代を灰色にした張本人・智春ちはるもいると知ったから。


          ★ ★ ★


「一恵」


 父が静かに呼ぶ。


「……」

「お前が行くか行かないか決めなさい」

「……」

「一恵、働いたことのないわたしが言うのもおかしいけど、お母さんは会社に行ってほしいの。だって、このままではあなたが自分の殻に閉じこもってしまうから」


 母も心配してそう言ってきてくれた。

 なぜだか、それがうれしくてたまらなかった。

 どうしよう。

 行ってみようかな。

 いつの間にか、わたしはそう思っていた。

 そして。


「……行く」


 わたしが気持ちを伝えると、二人は見合わせてよかったという表情をしていた。


 また会社に行くことを決意したわたしは、工場長の元へと足を運んだ。


「よかったよ、一恵ちゃん。ほんとにごめんな。もうすこし、君の心を理解してあげないといけなかったのに」


 しゅん、とした顔で工場長が開口した。


「いえ。こちらこそ、すみませんでした」

「あいつらには口をすっぱくして言い聞かせているから、安心しててな。一恵ちゃんを悲しませることはない」

「……は、はい」


 そのあと、工場長室を出てすぐ隣にある、事務課の棟に行った。

 もうすこし広い部屋かと思ったけど、学校の教室ぐらいの空間で、向かい合わせに机が合わせられ四つほどつながっている。それが三列間をあけて配置されていた。

 そして、入り口から一番遠い窓際に背をむけて、机が間隔をあけ二つほど並べてあった。それを指差し、工場長は事務部長と事務課の課長の席だと教えてくれた。


長谷はせ部長、田戸蔵たどくら課長。ちょっと来てくれ」


 二人を呼んだあと、長谷部長が特別階級で、田戸蔵課長が上級平民なんだと工場長が付け加えた。

 なんとなく、まじめで気難しそうな人たちだと思った。

 部長はまだ三十代でかなりはやい部長昇進だったらしい。ただ、階級が高いと昇進も早いらしい。


「この子が岩本一恵さん。いままで体調崩していてな、今日から出勤だ」

「そうですか。えっと、貢様」

「ここでは、工場長と呼んでくれ」

「あ、そうでした。では、工場長」

「どうした?」

「彼女はその……岩本様と呼んだ方かよろしいのでしょうか?」

「あ、ごめん。忘れていた。彼女は中級分家なんだ。岩本さんでいいよ」

「そうでしたか。わかりました。……長谷と言います。岩本さん、よろしく」

「田戸蔵です。しばらくは慣れないかもしれないけど、がんばって」

「よろしくお願いします」


 かったるい挨拶を交わしたあと、工場長は笑顔を残し棟を出ていく。

 そのあと、部の全体朝礼というものがあって、事務部全体……といってもわたしをいれても十二人しかいなかったけど……で集まった席で、部長がわたしを紹介した。


「今日から新しく入ってくれた岩本さんです。中級分家の方なので、気さくにな。じゃあ、岩本さん。一言お願いします」


「あ、はい。岩本一恵と言います。よろしくお願い致します」


 わたしが頭を下げると、ぱらぱらと拍手する人たちがいた。


『岩本家の分家筋かぁ。でも、中級分家でよかったよな』

『それ以上だと、おれらにはきついしな。ま、えな様は別だけど。ところで、彼女、けっこうかわいいじゃねぇか』

『暗そうだけどな』


 二、三人に分かれ、わたしのことを話している男性たちがいた。なにを話していたのか聞こえなかったけれど、それがよいことでも悪いことでもなんでもよかった。


 え?


 ふと、視線を感じ、わたしはその方向に瞳を動かした。

 工場長が言っていた事務の女の子だろうか、男性に混じって一人の女性がこちらを見ている。


 なにかしら。


 どっちかといえば、鋭い視線だった。

 長身の男性の間に入っていたこともあって、わたしとそうわからない身長の彼女は、ちっちゃく思えてかわいさを醸し出していた。

 なのに。


 ――フンッ。

 ほんの一瞬、目があったとき、彼女はわたしから目をそらせた。


 ……。

 その表情は、あのときの智春とそっくりだった。

 体が自然に震えてくる。


 ダメっ。

 こんな大勢の人たちの前でっ。

 わたしは目の前が真っ白になった。


 気づくと、周りが一面の雪色の部屋だった。薬のにおいがぷーんとする。


「気がつきました? 診療所ですから安心してくださいね。お嬢様」

「えっ!」

「ご無沙汰しています」


 診療所の責任者になったのはお父さんから聞いたことがあった。


「……ゆみえ先生」


 先生はわたしが高校まで家にいた自分専用の主治医だった。

 四十歳になったのを期に、岩本家を出て高藤家の経営する企業に就職したの、とゆみえ先生が教えてくれた。


「ご心配なく。勇ぼっちゃんや貢ぼっちゃんからお嬢様のことお聞きしていますから。なにかありましたら、ゆみえのこと思い出してください」

「うん」

「お嬢様が大好きなお飲み物を作りましたわ。ささ、冷めないうちにどうぞ」

「ありがとう」


 先生が作った暖かいミルクを、二年ぶりに味わった。

 しばらくたつと、壁際から女の子がひょっこり顔を出す。


「あらあら、えな様。心配ならそんなところにいないでこっちにきてくださいな」


 そう言うと、先生は薬品の補充をしてきますので、と別の部屋に姿を消す。

 高ノ居さんと入れ違いに、という感じだった。


「は~い。もう、先生。前から言っていますけど、あたしのことは『えな』でいいですって。聞いてますか、先生」


 奥の部屋で、ゆみえ先生が、法律は正しく守りましょう、と返していた。

 ま、そうなんだと思うんだけどね。

 次頭分家の者には、様付け必須だし。

 うん、だけど。心の中でもそういうのはいやだし。高ノ居さんでいいか。声に出さなけば。


「はぁ、しかたないですわね」


 ため息をついたあと、高ノ居さんはわたしを見た。

 たしかに、工場長が言ってたように、気さくな感じの女性だけど。

 あの鋭いまなざしはなんだったんだろう。


「ね。岩本さん。聞きたいことあるのですが……。あたしのこと覚えてます?」

「え?」


 ぷるぷると首を振ると、とたんに彼女の顔が歪んだ。


「……最低……」

「え?」


 ぼそぼそと小声で言われたので、なにを伝えたかったのかかわらなかった。


「いえ、なんでもないですわ。あ、もし体調いいなら仕事の説明したいのですが、大丈夫でしょうか?」

「あ、はい。席に戻ります」


 ベッドから降りると、タイミングよく先生が入ってくる。


「岩本さん、戻るの?」


 先生は工場長と父に言われたことを守り、わたしをお嬢様と呼ばず、さん付けしてくれた。


「はい。ありがとうございました」

「また気分悪くなったら、無理しないでここにきてね」

「はい」


 高ノ居さんに連れられて、わたしは再び事務所に戻った。


「岩本さんが倒れてみんな慌てていたのですよ。診療所まで運んでくれたのは、課長だからあとでお礼いったほうがいいかと思いますわ」

「あ、はい」

「ねぇ」

「はい?」

「あたしのこと、ほんとに覚えてませんか?」


 彼女は後ろにいるわたしに首だけ動かして顔を見せると、悲しそうな瞳で訴えた。


「え、えぇ。すみません」


 高校時代のとき、彼女と接点があったとしても、思い出したくもないことまで出てくるから避けたかった。


「そう、ですか」


 プイ、とまた前を向き、説明用の資料探すからまっててくださいと、冷たく言い放った。

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