後編
★
暦の上では、春というのに、空をかけめぐ
る風が冬に逆戻りしてしまったかのように、肌寒い陽気。
コピー室の一件があってから、一恵は守に会うと必ず声をかけてくれるようになった。
言葉にしなければ、伝わらないこともある。
いつだったか、友達が守にそう言った。
何でそんなことを伝えたのか、当時はわからなかったけど、今はっきりとわかった。
(ぼくはいつも行動を起こす前にあきらめていたんだ……)
守は決心を固めた。
(玉砕してもいい。ぼくの気持ちを彼女に伝えたい。あきらめるのは、それからだ)
思い切って、一恵を食事に誘った。彼女はその誘いにうれしそうに頷き、守の案内のあとついてくる。
「今日は一段と寒いね」
「そうだね。工程はもっと寒いよ」
「広いからストーブ炊いてもかわらないよね、
あそこ」
「設計は暖かくていいよ」
「でもスカートだからその分冷えるかも。……あっ、ここのお店?」
そういって、一恵は店の前で止まった。
会社から歩いて三分と近いこの『三福亭』は、社員たちの憩いの場でもあった。
「ああ。ここのチャーハンおいしいんだ」
「知ってる。わたしもたまに設計の子たちとくるから」
店内に入って見回すと、会社の制服をきた人たちがちらほらと席に座っていた。まだ、お昼に早い時間なので、そんなには混雑していない。守は数少ない座敷席に一恵を案内する。
「いらっしゃい。今日は山本さんじゃないのね?」
店員の女性が、お冷を置きながら守の顔を見る。
「こんにちは。山本さんは出張なんだ。あ、ぼくはラーメンで」
「わたし、チャーハンお願いします」
「はーい。ラーメンとチャーハンね」
店員はちらりと一恵の顔を見てから、そのまま厨房へと姿を消した。
「あの店員さん、知りたがりで有名なの、知ってる?」
「え? いや、聞いたことないよ」
「下手にいうとうわさ立つから気をつけたほうがいいよって、瑞口さんが言ってたわ」
「瑞口って、ああ、設計の……」
「うん。あの瑞口さん」
そのあと、他愛のない話に盛り上がった。しばらくして、ラーメン、チャーハンが運び込まれ、そのおいしさに舌鼓を打つ。
「あのさ」
一恵より一足早く平らげた守は、顔を引き締めた。
「ん?」
最後のチャーハンを口に入れ、一恵は守を見る。
(最初から諦めていたら、実る恋も実らない)
「ぼくは……」
そこで言葉を遮った。いや、正確には遮られてしまった。
「食後のフルーツです。サービスなので、召し上がってね」
空になった食器を提げ、店員の女性はぷるぷるしたみかんゼリーを二人の前にコトリと置く。そして、気づいた。
「……ごめんなさい。邪魔しちゃったみたいね」
申し訳なさそうに守に謝り、店員は席から離れた。
「おいしそー。土岐島くん、食べよ?」
「あ、ああ」
(みかんゼリーが嫌いになりそうだよ!)
行き場のない怒りを静め、守は幸せそうに
ゼリーを口にしている一恵を見つめた。
「おいしい?」
「うん」
子供に返ったように、一恵は目を輝かせ、ゼリーを最後の一口まで堪能し続けた。
しかたなく、守も前にあるゼリーに手を伸ばす。
「あ、いけるな、これ」
「でしょ。ここのお店、女性が一緒だと食後にゼリー出してくれるの」
「知らなかったよ」
「いつも、ここに来るとき、上司の人と一緒なの?」
「ああ。山本さん。瑞口さんと同期の男性だよ」
「そっか。それじゃゼリーはお初ね」
よかったね、と一恵は笑った。
(言うなら、いまだ!)
スプーンを握りしめ、守は手に汗を作る。
「岩本さん」
「なあに?」
「き、君のこと好きなんだ。初めて会ったあの時から、ずっと……」
一瞬、驚いた顔をした一恵だったが、すぐにいつもの穏やかな微笑みをする。
「わたし、わがままよ?」
「知ってる。それをひっくるめて、好きなんだ」
「いいの?」
「でなかったら、声をかけてないよ」
「……つきあってみようか?」
「ほんと?」
「うん」
「やったーーっ!」
守の声が狭い店内に響いた。
周りにいた数人の客が、何事だといった表情で二人を見詰め、そして、厨房に戻っていたはずの店員までもが、守の声に引き寄せられたかのように、再び店内に姿を現していた。
「よかったじゃない。土岐島さん」
「え?」
「あたし、土岐島さんは彼女のこと好きなんだなって思ってたのよね」
「……えっ」
「心配しないで。誰にも言わないから」
じゃあね、と店員の女性が背を向けて、また厨房へと入っていった。
「しかたないわね。知られちゃったし」
そう言って、一恵はため息をついた。
「……」
「あの人、知りたがりの上に、話したがりなんだって」
かなりの重さの荷物が、守の頭上に落ちたような感触だった。
「他人にどういわれようといいじゃない。これからよろしくね。土岐島くん」
そっと、一恵は守の手を握った。
(最高……!)
土岐島守、五年越しの恋が実った瞬間だった。
★
その光景を店外から見ていた人影がいる。
「あいつがなぜ……。いいわ。……奪ってやる。あの時のようにっ」
そう言って唇をぎゅっと噛み、そして彼女は、一恵を睨みながら嘲笑った。
雲ひとつなかった青空から、いきなり雨雲が進出した。ポツリ、ポツリと大粒の雨が降ってくる。
やがて一面の雨雲に空が覆われ、本格的に雨が降り出していた。