前編
灘一色町は、東西南北……そしてその中心の灘中央の五つの町で構成された小さな町。ここに住む人々は、灘四大名家と呼ばわれる者たちを、敬い、心酔している。
その中の一つ東灘一色町は、灘四大名家・土岐島家の本拠地。土岐島家の三代目当主・等がこの町の頂点となり、東灘を見守っている。ここには、土岐島製糸工場の本部を始め、下請工場などで働く人たちや土岐島家の使用人家族がたくさん住んでいた。
土岐島守は、社会に出て三年目。高校卒業後、父方の伯父・高藤克が経営する会社に就職した。
二十代男性の平均身長とほぼ同一の一六五㌢の背丈。目鼻立ちの整った顔。
もう少し経つと、目と耳に触れそうな黒髪は、毛先だけちらほらと薄茶色だ。
工程専用のヘルメットを野球帽に変え、制服をユニホームにしたら、日焼けした肌が最も冴えるだろう。
いつもにっこりスマイルがトレンドマークの彼は、年上のお姉さまの心のオアシスだ。
会社内で好青年コンテストがあれば、すぐに上位に喰い込みそうな彼は、土岐島の分家と紹介されている。
だが、実際には、高藤の本家の息子になる。中学入学前、両親の離婚により、母に引き取られた。そのため、母の旧姓・土岐島を名乗るようになったのだ。そして、土岐島等は、母方の伯父にあたる。
現在は、土岐島の家を出て高校入学と同時に父が購入したマンションに、それまで別れて暮らしていた双子の兄と一緒に住んでいる。
そんな彼の悩みは、心の片隅にいる彼女のこと。
彼女は、守の初恋だった。やわらかく微笑
む彼女を見るだけで、幸せだと本気で思うほ
ど、かわいらしかった。
でも、想った瞬間、守の恋は終わっていた。
そう、彼女には、すでに隣に並んで歩く男性がいた。それが、自分と血の繋がっている双子の兄だと知ったときには、かなりショックだったことを、いまでも覚えている。
そして、その後の事件によって、決して自分とは口も訊いてくれるはずがないだろう――そう、守は思っていた。
あれからもう五年。二十一歳になったいまでもなお、彼女のことを忘れられないでいた……。
★
この高藤電線は、四大名家と呼ばわれているうちの一つ、高藤家の四代目当主・克が経営する大手企業。
毎年、多数の応募者が押し寄せ、それでも採用されるのはほんの一握り。その人気の会社に、守が就職できたのは、理由がある。
それは。
「よっ。守」
自分の担当のラインをくまなくチェックしていた守の頭上で、声がした。
「……工場長。なんスか?」
守よりすこしだけ背丈のある工場長は、あたりをきょろきょろと見回し、彼に近づき耳打ちした。
「きのう、土岐島家に行ったんだろ? 華子の様子はどうだ?」
「……めちゃくちゃ機嫌悪かった。また、なんかしでかしたの?」
「いや……強引にでも連れて帰ろうとしたら、グーで殴られて、そのまま追い出された」
「懲りないね」
「まあそう言うなって。おっと、そろそろ工場巡回の時間だ。じゃあな、守」
ひらひらと手を振ると、工場長は守の下から去っていった。
そう、克の弟であり、この工場の最高位になる工場長・高藤貢は、守の実父。さきほど、彼が言っていた、華子という女性が工場長の離婚した妻であり、守の母親になる。
将来、守が次期工場長になるべく、ここに就職している、ということだ。
だがそれは、会社内の上層部にしか知られていないことで、工場長自ら、息子たちを公表していない極秘なことだった。
「土岐島ぁ~。……って、あれ? いまの工場長? なに、また来ていたんか。お前って、工場長に気に入られているよな」
この前もたしか来ていたよな、と付け加えながら、同じライン担当の上司である山本が、こちらまで歩いてきた。
「え? ははは。そんなことないっスよ」
苦笑しながら、守が頭をかいた。
そう、工場長が用事もないのに、毎日のように守のもとに来ることは、かなり前から話題になっていた。
「そう言えば、お前って土岐島の分家になるんだっけ?」
「え? そうですけど?」
この町では、分家や本家という言葉が自然に出てくる。それは、灘四家と呼ばわれる、高ノ居家、岩本家、高藤家、土岐島家があり、町民が本家のものたちを崇拝しているから。
「でもなあ、土岐島。分家筋っていっても、どうしてお前が、高藤本家の貢さまと仲良く話せるんだ?」
「この前も説明したじゃないっスか。工場長の奥さまが土岐島本家の出身になるんで、そういう絡みで声をかけられるかと思います」
そうは言ってもなぁ、と山本が納得いかない素振りを見せた。
とそこに、猛スピードでこちらに走ってくる人物に、危うく、山本がぶつかりそうになった。
「うわっ」
「つ、司?!」
二人同時に叫ぶと、司と呼ばわれた男が謝りながら戻ってきた。
「なにやってんだよ?」
「いやさ、倉庫で先輩と密会していたら、いきなり工場長が来てよぉ、なにがなんだかわからねぇが、追いかけられた」
まったくなんだってんだよ、と怒りがおさまらない司を見、守と山本はほぼ同時にため息をついた。
「そりゃそうだろ」
「ここは学校じゃないんだ。高藤、ここに勤めてもう二年以上だろ。さぼっていたら怒られるのは当たり前だ。それに、お前、高藤の分家のくせに、本家の工場長に叱られ続けていると両親が大変じゃないのか?」
呆れた眼差しのまま、山本が一端言葉を区切った。
ゆっくりと、眉を吊り上げ、彼の口が動く。
「分家が本家に逆らっているようなものだろ。この行為は。はやく、工場長のところにいって、謝罪してこい」
「山本さんの言う通りだよ。司」
二人が交互に急かしても、当の本人はすまし顔まま、動く気配もなかった。
だが、山本のわからないところで、守が司の尻にムチを打つ。
(司、いいかげんにしなよ。ここじゃ、本家と分家になっているんだ。つじつまを合わせるためにも、早く親父のところに行きなよ)
そう、工場内の問題児・高藤司は、守の実兄。彼らは双子なのだ。と言っても、容姿がそれほど似ていないため、周りの人たちは、守と司のことをただの友達だと思っていた。二人は、両親の離婚後、司が工場長である貢に、守が華子に、それぞれ引き取られていた。
「ちぇっ。わかったよ」
言いなりになるのが悔しいのか、司は捨て言葉を吐き、そのまま工程の中に消えて行った。
その背中を見ながら、山本がため息混じりにこう言う。
「……あいつには、本家を敬う心っちゅーのがないよな。高藤の親御さんが苦労しているんじゃないかと思うと人事じゃなくなってくるわ。にしてもさ、土岐島。高藤が元階高の番長とか言ってたけど、お前の言うことは素直に訊くんだな。不思議だ」
ははは、と愛想笑いで誤魔化す守。
本来、灘四家の分家や遠縁のものたちは、決して、本家に逆らうことを許されない。もちろん、一般の町民にもそれが適用されているのだが、元々、町民たちは本家のものに心酔しきっているので、よっぽどのことがない限り道からはずれたものが出ない。
これ以上質問されたら、つい真実を口走ってしまいそうだ、と守がポソッとつぶやいた。
「そう言えば、山本さん。ぼくに用でもあったんスか?」
守は、山本に気づかないように、そっと話題を戻した。
「おぅ、そうだった。悪いけど、設計課行ってこれコピーしてくれるか?」
忘れていたよ、と思い出したように、山本は規格を渡した。
「コピー機、まだ直らないんですね」
守たちが働いている工程にも、小さいながにチームのコピー機がある。だが、壊れてしまったので、きのうからここから近い設計課の事務所までいってコピーをかりている。
「そうなんだよ。どうも、部品が足りないとかでな。もうしばらくかかるらしい」
「……あの、また彼女いないんスか?」
「あぁ。ほんとうは仁科さんに頼もうとしたんだけどな。また消えちまってさ。どこ行ってるんだかなぁ」
そういうことだから頼むよ、と言いながら、山本は守の背中をぽんと叩いた。
「わかりました。いってきます」
「おぅ」
山本に見送られて、守は工程を後にする。
うちの会社は女性に甘い。まあ、灘四家の共通の掟がここでも生きているのだろう、と守は思う。
仁科さんがいてもいなくても、関係ないことだけどさ。
そう思いながら、すこし遠くを見ると、工程の中の大きな通路に、一人の女性が歩いていた。
オレンジ色のジャンパーに、タイトスカートの制服に身を包んだ彼女は、守が見ているのにも気づかずに足早に通り過ぎて行く。
……あれ?
守は一瞬目を疑った。
彼女が知り合いの女性に似ていたから。
でも。
まさかな。
さきほどの考えを否定した。守の知っている雰囲気とはすこし異なるからだ。
だが、見ればみるほど、彼女の横顔から醸し出される雰囲気が、初めてあったときの感じに似ている。
彼女がここにいるわけないんだ。
ぷるぷると首を振って気を引き締めたあと、守は技術センターとプレートが掲げられている建物に入った。
「あら?」
設計課の事務所につくと、キャリアーウーマンという言葉が板につきそうな女性に声をかけられる。今年、三十四歳だと先輩である山本がこっそり教えてくれたことがあった。
「こんちは、瑞口さん」
「珍しいわね。どうしたの?」
あまり顔見知りでもなかったが、山本と同期だという彼女は、何か気になるのか、守がくると声をかけてくれる。
「あ、うちのコピー機まだ直ってないんで、設計のを借りようと……」
「大変ね。いいわ、ちょっと待っててね。カードもってきてあげるから」
そう言って、彼女は守から離れた。
会社のコピー機は、ほとんどがそのままでコピーできるものが多いが、設計課のコピー機だけは違かった。カード式になっていて、カードを差し込むと、コピーできる形になっている。
事務所内を見回すと、有に百席を越えているのでは、というぐらい机並んでいた。そのほとんどに、空席が目立つ。会議なんだろうか、守は待っているついでに考えていた。
「土岐島くん、お待たせ。はい、カード。終わったら、誰でもいいから近くにいる人に預けてくれればいいから」
守がお礼の言葉を口にすると、彼女はにっこりと微笑んだ。その後、彼女は行き先ボードに、第二会議室と書き、事務所から出ていった。
「さてと」
独り言をいい、守は事務所から出、コピー室へと向かった。ここから、向かいの部屋に移動するだけだ。
形としてノックしてから、コピー室のドアのぶを廻した。部屋には先客の女性がいる。守に気づき、一礼をする。あわてて、守も会釈した。
コピー室には、全部で三台の機械があるのだが、第二号、第三号のほうは待ち主はいないが淡々とコピー機が稼動中だ。しかたないので、守は先客の彼女が終わるのを待つことにした。
彼女はすぐに守が待っていることに気がついた。
「あの、待っていますか?」
どこか、知っているような声だと守は心の中で思っていた。
「はい」
「待ってて下さいね。すぐに終わりますから……?」
そういって、守の顔を見た彼女は、ハッと何かを思い出したかのように、驚いた。
「あの、何か……?」
「あ、いえ、ごめんなさい。……何でもないです」
くるりと踵すを返し、彼女はコピーしたものを確認し出した。
コンコン
ドアがノックされる。と同時に、設計きっての大のパチンコ好きと有名な、遠藤が入ってくる。
「こんちは」
「おぅ。っちは! 土岐島くんきてたんだ。今度、パチンコ行こうぜ」
守の苗字が遠藤の口から出たとき、彼女の手が一瞬、ピクリと動いたのを守は見逃さなかった。
「あっ、はい。いいっスよ」
「っと、そんな場合じゃなかった。岩本さん、ごめん! あと、三十部追加。これから会議に使うからできたら第二会議室に持ってきて。よろしく」
「はーい」
岩本と呼ばわれた彼女は、別にいやでもなく、順応に従う。
土岐島くんまたね、そう言って遠藤は足早に去っていった。
岩本……さん? まさか、下の名前が一恵じゃないよな。
なぜか、守の胸は高鳴っていた。
そのあと、彼女は守にコピー機を明け渡し、コピー室の中にある別の部屋へと姿を消してしまったのだ。
やっぱり、似ているよなぁ。ってことは、工程で見たあの彼女と同一人物?!
守は、コピー機から目線を外し、彼女が入っていった部屋をそれとなく見る。
もしそうだとしても、彼女はぼくなんかと話したくないだろうし。
そう思い直し、コピー機から原紙を取り出した。
「あの」
誰かがコピー室に入ってきたのかな、とくるりと反転し、声主へと体を向ける。
さっきコピー室内の小部屋に入っていたはずの彼女だった。
「うわぁっ!」
守は驚きのあまり、コピー機に体をぶつけてしまった。
「ご、ごめんなさい。驚かしちゃいましたね……」
あれ? 雰囲気が……違う?
「あの?」
守はハッと我に返る。
「い、いえ。すみません。ぼくに何か?」
「コピー機使いたかったので、いいかなって思って。もう終わったんですよね?」
あわてて守は、コピー機の前から身を引く。
「あ、ああ。え、ええ。どうぞ……」
なにやってんだよ、ぼくは。
ありがとうございます、彼女は微笑んだ。
その瞬間、守の顔が点火したようにボォーッと赤くなった。
まてよ、なんで顔が熱くなるんだっ。
持っていた規格のコピーをドサドサと落としたのも気づかずに、守はただ火照ってしまった顔を隠すのに必死だった。
「……くん。……島くん。土岐島くん!」
その声で、ハッとする。
心配そうな彼女の顔が守の視界に映った。
「あ……」
「大丈夫?」
「今、ぼくの名前を……」
「あっ、ごめんなさい」
「いや、ぼくのほうこそ、ごめん。……あの、岩本さんって、その……」
そこで言葉を呑み込んでしまう。
会社の制服には名札がついている。だが、苗字だけなので下の名前まではわからない。
もし、彼女が高校時代にあった女性なら、話しかけてくれるはずもないだろう、そう守は確信していた。
「そうね。その通りです。土岐島くんの考えている通り。司……高藤司とつきあっていた、岩本一恵」
――ッ!
守の体に一瞬電撃が走る。
「さっき、名札を見たとき『土岐島』って見えたから、もしやって思ったの。昔のこと掘り出して悪いけど、あの時、わがままいってごめんなさい。心残りだったの」
そう言って、一恵はペコリと頭を下げた。
彼女の言った、あの時はごめんなさい、はきっとあのことだろうか、守は記憶の糸を手繰り寄せる。
――たしか、司がいつもの電車に乗ってこなかったから、それを当時の彼女だった一恵に伝えた。その時、彼女から友達への伝言を請け負ったことがあった。
「べつに気にしてないよ」
あの一件から、守は一恵が気になっていた。そのあと、司から彼女がクラスから孤立していると聞いていてもたってもいられなかった。けど、結局、何も力になってあげられなく、そのまま幕を閉じた。
「ぼくのほうこそ、ごめんな」
「え?」
一恵がきょとんとする。
「あ、いや、なんでもなんいだ」
過去のことをまた思い出させてしまうのは、つらくなるだけだ……そう思い直し、守は口を閉じた。
「あっ!」
いきなりの大声に、守は体ビクッとさせた。
「ど、どうしたの?」
「驚かせてごめんなさい。遠藤さんから大至急って言われていたコピー、すっかり忘れていて……」
そう言って、一恵はてきぱきとコピー機に向かいセットする。
「これでよし、と」
独り言のように言うと、一恵は安心したように守の顔を見る。
「土岐島くんは平気? 上の人から叱られない?」
「ああ。大丈夫だよ。コピー室が混んでいたからって言うし」
「そうね。うそも方便って感じ?」
クスクスと彼女は笑った。
「あのさ、話かけたぼくにも責任あるし、手伝うよ」
「え?」
「コピーし終わったら、まとめてホッチキスで留めるんだろ? 三十部もあるし。けど、二人でやればすぐ終わるよ」
「ありがとう」
一恵はうれしそうに微笑んだ。
その瞬間、守の中で恋の熱が一気に加速し始めた。